第十章 秘密の放課後は噂になる
月曜日の朝、リオが教室に入ってくるなりわたしの席に直行した。
いつもより少し足が速かった。表情が「話がある」という顔だった。リオがこういう顔をする時は、だいたい学園内の噂に関係することだった。
「ルカ、聞いた?」
「何を」
「九条セレスと倉橋ルカが最近一緒にいる、っていう話」
わたしは表情を動かさないようにした。
「一緒にいる?」
「旧校舎の方で目撃されたって。先週、二回くらい」
リオが椅子を引いて隣に座った。
「廊下で話しているのを見た、って子がいて。それが少し広まってる」
「廊下で話すくらいは誰でもするけど」
「セレスさんがする相手として、ルカは予想外すぎるんだよ。だから目立つ」
それはそうだと思った。「氷の優等生」が落ちこぼれに話しかけている、という構図は、確かに目立つ。
「何かあったの?」
リオが尋ねて来た。
「補習の質問をしに行ったら声をかけてもらった」
「セレスさんに?」
「廊下で会った時に」
リオは少し考える顔をした。信じているかどうかは、どちらとも読めなかった。
「まあ、それ自体は問題ないけど、噂になってるから一応教えといた方がいいかと思って」
「ありがとう」
「ルカが何かやらかして、セレスさんに怒られているわけじゃないよね?」
「怒られてはいない」
「そっか」
リオが少し笑った。
「最近ルカが放課後いないことが多いから、心配してたんだけど、顔は明るいから大丈夫かなとも思ってた」
「大丈夫です」
「うん」
リオは、それ以上は聞かなかった。
ホームルームが始まって、わたしは前を向いた。
噂が出ている、ということを、今日の放課後にセレスに伝えなければいけないと思った。
三時間目の移動の廊下で、エリスを見かけた。
こちらには気づいていないようだった。生徒会室の方から出てきて、書類を抱えて廊下を歩いていた。
わたしはすれ違いざまに一度だけ見た。
エリスも気づいた。目が合った。
エリスが微笑んだ。今朝のリオとは違う種類の笑顔だった。情報を持っている人の笑顔だった。
「倉橋さん」
「おはようございます」
「今日もお元気そうで」
「はい」
「授業、頑張ってください」
それだけだった。エリスは書類を抱えたまま歩いていった。
振り返ったりはしなかった。でも、すれ違いの一秒の間に何かを確認していた気がした。
わたしは教室に向かいながら考えた。
エリスは今朝の噂を知っているかもしれない。知っていれば、わたしがセレスの近くにいることをさらに意識するはずだった。旧資料棟の足音が続いているとしたら、そこにわたしが関係していることも、もう見えているかもしれない。
嫌な予感というより、状況が動き始めている感覚があった。
昼休みに、わたしはいつもより早く食堂を出た。
図書室で少し調べ物をするつもりで廊下を歩いていたら、前方にセレスがいた。
一人だった。廊下の窓際に立って、中庭を見ていた。
学園内でセレスを見るのは珍しくないけれど、一人でこういう場所に立っているのは珍しかった。生徒会の仕事か授業の移動か、だいたい何かの途中にいる。
今日は違った。ただそこに立っていた。
近づくべきか迷った。でも、今朝の噂の件を話す必要があった。旧資料棟ではなく外で話せる機会は、頻繁にあるわけではない。
わたしは近づいた。
セレスが気づいた。
「倉橋さん」
「お昼ですか」
「少し外の空気を吸いたくて。食堂は人が多いから」
「そうですね」
わたしは窓の外を見た。中庭の木が昼の光の中にあった。
「一つ報告があります」
「どうぞ」
「今朝リオから聞いたんですが、わたしたちが一緒にいるところを目撃されているらしくて、少し噂になっています」
セレスが窓からわたしに視線を移した。
「内容は」
「旧校舎の方で話しているのを見た、という程度みたいです。何をしているかまでは広まっていない」
「そう。それだけ?」
「それだけです。でも、エリスさんとさっき廊下ですれ違いました。声は特にかけられなかったんですが、目が合いました」
セレスが少し間を置いた。
「エリスが知っているかどうかは分からない。でも、知る機会は増えている」
「そうだと思います」
窓の外を見た。中庭を歩いている生徒が何人かいた。こちらは見ていない。
「研究の進め方を変える必要はありますか」
「変えない」
セレスは迷わなかった。
「時間がない。変えている余裕がない」
「分かりました」
「ただ、あなたが関係しているとエリスに分かった場合、あなたの立場が面倒になる可能性がある」
「わたしの立場はもともとあまり良くないので」
「そういう話をしているのではない」
「分かっています」
セレスがわたしを見た。
「本当に分かってる? エリスが動いた場合、あなたが制限資料を無断閲覧した事実が出る可能性がある。学園の規則上、それは軽い話ではない」
「分かっています。でも、今さら外れるつもりはないです」
「なぜ」
「昨日の日誌のことを考えていました。あの人は応答が本物だと知っていたのに、時間が足りなかった。今のセレスさんには時間があって、応答も本物で、あとは形にするだけです。わたしがそこに関わっているなら、途中で外れるのはおかしい気がします」
セレスはわたしを見ていた。
廊下の向こうから生徒の声がした。昼休みが終わりに近かった。
「分かった。引き続き、他言無用で」
「はい」
セレスが歩き出した。わたしと逆方向だった。
二、三歩行ったところで、セレスが止まった。
振り返らなかった。
「倉橋さん」
「はい」
「今日の放課後も来て」
「行きます」
セレスはそのまま歩いていった。
わたしは少し立ってから、図書室の方へ歩き出した。
放課後、旧資料棟に向かう途中でリオに声をかけられた。
「今日も図書室?」
「うん」
「何時まで?」
「夕方くらい」
「そっか」
リオはそれから少し間を置いて、わたしの名前を呼んだ。
「ルカ」
「なに」
「最近、何か抱えてることある?」
直接だった。リオらしくなかった。
「どうして」
「なんか顔が明るいのに、どこか遠い感じがして。楽しそうなのは分かるんだけど、別の何かも抱えてるみたいな」
正確だと思った。リオは人の変化を見るのが早い。
「大丈夫だよ」
「大丈夫なのは分かる。でも話せないことが増えたんだなって、なんとなく分かって。それが心配というよりも、ルカが大事にしてる何かがあるんだなって思ってた」
わたしは少し黙った。
「大事にしてる、というのは正しいかもしれない」
「うん」
「でも今は話せないです。ごめん」
「謝らなくていい。話せる時が来たら話して。それまでは、困った時だけ言って」
「ありがとう」
リオが笑って、教室に戻っていった。
わたしはしばらく廊下に立っていた。
話せる時が来たら、とリオは言ってくれた。
来るかどうかは分からない。でも来た時に話せる相手が、ちゃんとそこにいる。それは、思ったより大きいことだった。
旧資料棟に入ると、部屋はいつもと違う雰囲気があった。
セレスが机に向かっていた。今日は陣ではなく、例の日誌の続きを読んでいた。
「昨日の日誌の続きがありました。別の綴じ物に挟まっていた。モコが引っ張り出してきた」
モコは棚の上で澄ました顔をしていた。
「何が書いてありましたか」
わたしは椅子に座りながら尋ねた。
「研究を止めたあとのことが少し書いてある。家の決めた形式に従ったけれど、召喚は一度も成立しなかった。応答はなくなった」
「応答がなくなった?」
「形式を戻したら、応答がなくなった。感応型の構造をやめた瞬間に、向こうが応えなくなった」
わたしは少し考えた。
「それは」
「感応型の構造が正しかったということ。この人にとっても、今の形式は合っていなかった。合った形式で呼んでいた時だけ、応答があった」
「では、なぜ家はその人に今の形式に戻らせたんですか」
「記録には書いていない。でも、理由の見当はつく」
「どういうことですか」
「今の形式は均一な結果を出しやすい。術者の個性や感情状態に依存しない。誰でも同じ手順で同じ結果を出せる。それが名家の継承魔法として、家の格を示す上で都合がいい」
「再現性と安定性」
「そう。感応型は再現性が低い。術者によって結果が変わる。それは家の象徴としては不都合」
わたしは日誌を見た。
応答は本物だった。でもわたしには、それを形にする時間が残っていなかった。
「この人の分まで、という気持ちはありますか?」
セレスが少し間を置いた。
「ある、とは言いにくい。会ったこともない人の話だから。でも、同じ場所で、同じ問題を抱えて、同じ応答を感じていた人がいた事実は、思ったより重かった」
「一人じゃなかった、ということですね」
「そう。一人じゃなかった」
モコが棚から降りてきた。日誌の前まで来て、それからセレスの方へ向かった。
今日はいつもより近い場所に降りた。
セレスの手の届く場所に、ちょこんと座った。
セレスが手を出した。
モコは動かなかった。逃げなかった。でも近づきもしなかった。
その距離のまま、二人はそこにいた。
帰り際に、廊下から外を見た。
空が暗くなり始めていた。
足音が聞こえたのは、部屋の片付けが終わって扉を出る直前だった。
廊下に誰かがいた。
足音は一人分で、旧資料棟の方へ向かってきていた。早い足音ではなく、確認しながら歩くような、ゆっくりした歩き方だった。
セレスがわたしの袖をつかんだ。
振り返ると、セレスが廊下の方を見ていた。袖をつかんだのは無意識だったのかもしれない。気づいた様子がなかった。
足音が近づいた。
十歩、五歩。旧資料棟の入り口の前で止まった。
止まって、少し間があった。
それから、遠ざかっていった。
完全に聞こえなくなってから、セレスが息を吐いた。
わたしはセレスの顔を見た。
気づいていなかった袖から、ゆっくり手が離れた。
「セレスさん」
「なに」
「今のは、旧資料棟の入り口まで来た」
「分かっている」
「今までは廊下の途中で止まっていたのに」
「分かっている」
モコが扉の方を向いて、小さな声で鳴いた。
セレスがわたしを見た。
今夜の月明かりが窓から差していて、その光の中でセレスの顔を見た。
ぎりぎりのところを歩いている人の顔だった。でも止まらない、という意志が、その奥にはっきりあった。
セレスが穏やかな声で言った。
「……今は、まだ離れないで」
わたしは答えた。
「離れません」
廊下は静かだった。
モコだけが、二人の間でひとつ鳴いた。




