第十一章 禁じられた記録庫
木曜日の放課後、旧資料棟に向かうと、モコが入り口まで来ていた。
扉を開ける前から、扉の内側でちょこちょこしているのが気配で分かった。開けた瞬間に足元に降りてきて、それから部屋の方へ向かわずに廊下の奥を向いた。
「どこかに行くんですか」
わたしが尋ねると、モコが鳴いた。それから廊下の奥へ向かって飛んでいった。
部屋に入ると、セレスが立っていた。今日は机に向かっていなかった。
「モコが朝からあの方向を向いている。いつもと違う。棚の奥でもなく、制限資料の棚でもなく、廊下のさらに奥」
「旧資料棟の奥に、まだ先があるんですか」
「あるはずよ。この建物の図面を昨日確認した。表から見える部屋の倍以上の奥行きがある」
わたしはモコの行った方向を見た。廊下の先は、いつもわたしたちが使っている部屋で行き止まりだと思っていた。
「壁があります」
「壁に見えるところに、もう一枚壁があることがある。古い建物に多い構造。外側の壁と内側の壁の間に空間がある」
「それを、モコが知っている?」
「モコが向かっているとしたら、そこだと思う」
わたしたちは廊下に出た。
モコは廊下の突き当たりの壁の前にいた。壁を向いて、前足で壁をぺたぺたと触っていた。
「そこですか」
わたしが言うと、モコが振り向いて鳴いた。
セレスが壁に近づいた。石造りの壁を、手で押しながら確認していった。左端から右端まで。途中で、少し違う音がした部分があった。
「ここ」
セレスはその部分を押した。何も起きなかった。
横にずらすように力をかけた。少し動いた。
重い音がして、壁の一部が内側に向かって動いた。隠し扉だった。人一人が通れる程度の幅で、内側に向かって開いていた。
暗かった。
セレスが手の平に小さな明かりを灯した。わたしも同じようにした。
中に入った。
通路は短かった。
十歩ほど進むと、また扉があった。こちらは木の扉で、鍵がかかっていた。
セレスが鍵を確認した。古い形式の錠前だった。
「鍵は持っていない」
モコが扉の前に飛んできた。扉の下の隙間に鼻先を差し込んで、何かを嗅いでいる。それから少し後ろに下がって、鳴いた。
「どうするんですか」
「少し待って」
セレスは錠前を手で包んだ。目を閉じた。何かの術式を使っているのは分かったけれど、詠唱がなかった。静かに、集中していた。
一分ほどして、カチリと音がした。
「解錠できました?」
「九条家に伝わる細工術のひとつ。召喚以外の術は使えるから」
セレスは扉を開けた。
中は、思ったより広かった。
部屋というよりは、小さな記録庫だった。四方の壁に棚が取り付けられていて、天井まで棚が続いていた。埃が厚く積もっていて、明らかに長い間誰も入っていなかった。
明かりを高く掲げると、棚に並んでいるものが見えた。
巻物、綴じた羊皮紙の束、石板、木の板に刻まれた術式。大量の資料が、整理されないまま詰め込まれていた。
「いつからここが」
「分からない。でも、ここにある資料は表の棚より古いものが多そう」
モコが部屋の中へ飛んでいった。一番奥の棚まで行って、そこで止まった。
「また何か見つけましたか」
わたしが尋ねると、セレスがモコのいる棚に近づいた。
一番奥の棚の、中段に、他より新しそうな綴じ物が一冊あった。埃の積もり方が薄い。最近誰かが触れた痕跡があった。
セレスがそれを取り出して、表紙を見た。
「何ですか」
「召喚術の研究記録。個人の記録じゃなくて、学園としての公式記録に近い形式」
机のある部屋まで戻って、広げた。
内容は、召喚術の形式変遷についての学園側の記録だった。感応期から定型期への移行の経緯が、学園の立場から書かれていた。
読み進めると、一つの章が目に入った。
「九条家の召喚術との関係」とタイトルがついていた。
わたしとセレスは並んで読んだ。
内容は、学園が定型期の召喚術を採用する際、九条家の感応型召喚術を参照したという記録だった。感応型の研究が定型化の基礎になった、という経緯が書かれてある。
そして次の章に、こう書かれてあった。
感応型から定型型への移行にあたり、感応型の特性のうち、術者の個性に依存する要素を排除する方針が取られた。この方針のもと、九条家の協力を得て術式の改変が行われた。改変後の形式は、均一な結果を出しやすく、教育上の利点が大きい。なお、改変以前の感応型の記録については、混乱を防ぐため閲覧を制限することとした。
「閲覧を制限することとした」
わたしは声に出して読んだ。
「感応型の記録を隠した理由が書いてある」
セレスは伝えた。
「混乱を防ぐため」
「誰の混乱を防ぐため、というのが書いていない」
わたしは続きを読んだ。
九条家は改変後の形式を正式な継承魔法として採用することに同意した。ただし、改変に際して失われた感応型の特性については、一部の関係者から懸念が示された。この懸念に対し、学園は改変後の形式が実用上の問題を生じさせないと判断した。
「一部の関係者から懸念が示された」
「懸念を示した人間が誰か、記録には出てこない」
「でも懸念があった事実は残っている」
「残っている」
セレスが羊皮紙から顔を上げた。
「つまり、今の九条家の召喚術は、感応型から意図的に変えられたもの。もともとは感応型だった術式が、学園の都合で定型型に改変された。そしてその記録は隠された」
「セレスさんが使えないのは」
「欠陥じゃない可能性がある。感応型の特性が強い術者にとって、今の定型型は合わない。それは、感応型から定型型に改変した時点で生じた矛盾」
わたしは少し考えた。
「でも今まで、九条家で使えなかった継承者はセレスさんだけだと言っていましたよね」
「表向きはそう。でも日誌の人がいた」
「他にもいるかもしれない」
「記録が隠されているから、確認できない」
モコが机の上に乗ってきた。広げた記録の上を歩いて、感応型から定型型への移行の章のあたりで止まった。
「モコがいつもその辺で止まりますね」
「関係しているから。モコが感応型の残滓から来ているなら、この記録と繋がっていても不思議じゃない」
「もし改変前の感応型で召喚を成立させたら、モコはどうなりますか」
セレスが少し間を置いた。
「記録には、歪みは術式が完成した際に本来の形に戻ることがある、と書いてあった」
「本来の形に戻る」
「今のモコが本来の形じゃない、ということ」
わたしはモコを見た。
モコは記録の上に座って、わたしを見ていた。黒いビー玉みたいな目が、いつも通りきらきらしていた。
「戻ったら、どこに行くんですか」
「分からない」
「モコがいなくなる可能性もある?」
「可能性としては」
わたしは少し考えた。
「それでも続けますか」
セレスがモコを見た。
「続ける」
セレスは迷わなかった。
「モコのために続けるわけじゃないから。でも」
少し言葉に詰まった。
「もしモコが本来の形に戻れるなら、それが正しいことだと思う」
モコが一度鳴いた。短い、小さな音だった。
セレスがモコを見た。モコもセレスを見た。
いつもの、少し距離のある関係だった。でも今日は、その距離が少しだけ違う意味を持って見えた。
記録の後半を読み進めると、もう一つの記述があった。改変後の術式については、継承者の教育において感応型との混同を避けるため、感応型に関する情報を継承者に伝えないこととする。これは学園と九条家の合意によるものである。
「継承者に伝えない」
「家ぐるみで隠していた」
セレスの声は穏やかだった。
「セレスさんは知らなかった」
「知らなかった。感応型の存在を。自分の術式の傾向が感応型に近いことも。全部、隠されていた」
記録の最後のページに、日付と学園長の署名があった。三十年以上前の日付だった。先週見つけた閲覧制限の文書と、同じ時期だった。
「同じ時期ですね」
「同じ人物が指示した可能性が高い」
「今の学園長じゃない」
「三十年前の学園長。今とは別の人物」
「でも今も制限が続いている」
「誰かが引き継いでいる。制度として残っている」
わたしはその言葉を聞いて、少し考えた。
三十年前に決められたことが、今も続いている。誰かが意図的に維持しているのか、それとも惰性で残っているのか。
どちらにしても、セレスが知るべきことを、三十年以上誰かが隠し続けていた。
「これは」
わたしは言いかけた。
その時、廊下から足音が聞こえた。
今日の足音は違った。
今まで旧資料棟の入り口で止まっていたのが、今日は入ってきた。
扉が開く音がした。廊下の向こうの、表の入り口の扉の音だった。
セレスが明かりを消した。わたしも消した。
二人とも動かなかった。
足音が廊下を進んできた。一人分だった。ゆっくりした歩き方だった。
わたしたちのいる部屋の前で、足音が止まった。
扉越しに、気配があった。
しばらく止まっていた。
それから、扉が開いた。
明かりが差し込んだ。
入り口に立っていたのは、エリスだった。
手に小さな明かりを持って、部屋の中を見渡した。わたしたちを見た。
セレスを見て、それからわたしを見て、それから机の上に広げた記録を見た。
部屋が静かだった。
エリスが口を開いた。
声は穏やかだった。微笑んでいたけど、目は笑っていなかった。
「その記録、学園の許可なく読むべきものではありません」




