第十二章 正しい人の正しい告発
誰も動かなかった。
エリスが入り口に立ったまま、部屋の中を見ていた。わたしとセレスと、机の上の記録と、それからモコを順番に見た。モコを見た時だけ、少し目が止まった。
セレスが先に動いた。記録を閉じた。机の前に立って、エリスの方を向いた。
「御門さん、ここに何の用で来たの?」
セレスが冷静に尋ねる。
「確認に来ました。先週から旧資料棟に出入りする人がいると報告を受けていたので」
「報告?」
「生徒会として、学園内の施設の異常な使用状況を確認する義務があります。旧資料棟は教員以外立入禁止のはずですよね」
丁寧な口調だった。微笑みも崩れなかった。でも一語一語が、確認ではなく記録になっていく感じがした。
「確認したなら、報告に行くの?」
セレスが尋ねた。
「それが生徒会書記の仕事ですから」
「何を報告する気?」
「見たものをそのまま。二年生の生徒が二名、立入禁止区域の旧資料棟で、制限資料と思われるものを無断閲覧していた。それだけです」
「それだけ、という言い方をするけれど、その報告の結果がどうなるか、分かった上で言っているでしょう」
「もちろん。だから確認しに来ました。見間違いであってほしかったので」
見間違いであってほしかった。
その言い方が引っかかった。
エリスは本当に、見間違いであってほしかったのかもしれない。問い詰めたいのではなく、なかったことにできる可能性を探しに来た。でも、なかったことにできなかった。
わたしは黙って聞いていた。
セレスが少し間を置いてから言った。
「倉橋さんは関係ない」
わたしは顔を向けた。
「私が調べていた。倉橋さんは私に呼ばれてここに来ただけ。責任は私にある」
「待ってください」
「黙っていて」
セレスはわたしを見た。短く、でもはっきりと。
「黙りません」
わたしがそう言ったら、セレスの目が少し変わった。驚いたわけではない。でも、想定していなかった返事だった。
「倉橋さん」
「わたしも自分で判断して来ています。呼ばれたから来たわけじゃない。関係ないは通りません」
エリスがわたしを見た。
今までわたしのことを、セレスに関係する人間として観察していたのが、今日初めてわたし自身を見た、という気がした。
「倉橋ルカさん、あなたがここに来るようになったのは、先月頃から?」
「それ以上は答えません」
「なぜ」
「答える義務がないので」
エリスが少しだけ目を細めた。
「正直に言った方が、あなたのためになると思いますけど」
「正直に言っても言わなくても、エリスさんが見たものは変わらないので」
エリスは少し間を置いた。それから、セレスに向き直った。
「九条さん、聞いてもいいですか?」
「どうぞ」
「旧資料棟で何をしていたの?」
「調べ物」
「制限資料を?」
「見てしまったものは仕方がない」
「故意でしょう?」
「扉が開いていたから入った」
「鍵がかかっていたはずです」
セレスが少し間を置いた。
「古い錠前だったから」
「九条家の細工術を使った、ということ?」
セレスは答えなかった。
エリスが穏やかに続けた。
「九条さん、私はあなたのことを尊敬しています。それは本当のこと。同じ名家出身として、あなたが積み上げてきたものを見てきた。だからこそ聞きたい」
微笑みが少し変わった。丁寧なままだったけど、その奥に何かが見えた。
「公開試験が近い。家からの視察もある。その時期に、あなたがこういう場所で何かを調べているのは、なぜ?」
「……」
セレスは答えなかった。
「継承魔法の実演に、何か問題があるの?」
部屋が静かになった。
モコが机の上でしっぽを揺らしていた。
セレスはまたしても答えなかった。でも、答えなかったこと自体が、答えになっていた。
エリスがそれを読んだのが分かった。目の奥が、少し動いた。
「そう」
エリスの声は穏やかだった。
「分かった」
「何が分かったの?」
セレスは尋ねた。
「聞いてはいけないことを聞いてしまった、ということ」
「報告はするの?」
エリスが少し黙った。
「しなければならない。見てしまったから。それが生徒会書記の仕事だから。個人的な感情で見なかったことにすることはできない」
「正しい人ね」
セレスの言い方は、嫌みではなかった。本当にそう思っているような、少し疲れた声だった。
「正しくあろうとしているだけです。あなたも同じでしょう」
エリスの問いかけに、セレスが少し間を置いた。
「同じじゃない。私は正しくあろうとしているのではなく、できないことをできるようにしようとしているだけ」
「それが、ここでやっていたこと」
「そう」
エリスはセレスを見た。セレスはエリスを見た。
お互い、見つめ合う。
わたしはその二人を眺めていた。
同じ優等生で、同じ名家で、同じ学園にいる。でも今この部屋で、まったく違う立場にいた。一人は秘密を抱えていて、一人はそれを報告しなければならない。どちらも、自分のいる場所から動けなかった。
「報告を待ってほしい、とは言わない?」
「言わない。あなたの仕事を止める権利は私にない」
「公開試験まで待ってほしい、とは」
「言わない」
「なぜ」
「あなたが正しいから」
エリスが少し目を細めた。
「九条さんは、本当に、融通が利かないのね」
「そうかもしれない」
「もう少し、お願いが上手ければいいのに」
「御門さんには通じないでしょう」
「通じるかどうか、試してみてもよかったのに」
セレスが黙った。
エリスがわたしの方を見た。
「倉橋さんも、融通が利かない人?」
「どちらかというと、お願いは得意な方だと思いますけど、ここでは言っても意味がないと思ったので言いませんでした」
「なぜ意味がないと思ったの?」
「エリスさんが正しいことをしている人だから、感情的なお願いは通じないと思って。でも、一つだけ聞いていいですか?」
エリスがわたしを見た。
「どうぞ」
「今日、見間違いであってほしかったと言いましたよね」
「言った」
「それは本当のことですか?」
エリスが少し間を置いた。
「本当のこと。九条さんが何かを隠して困っているなら、それが何もなかったことであってほしかった」
「では、見間違いにしてほしい、という話ではなくて」
「見間違いにするつもりはない。でも、見間違いであってほしかった気持ちは本物」
「それを聞いて、安心しました」
わたしがそう言うと、エリスが少し首を傾けた。
「なぜ」
「エリスさんが、本当に正しいことをしている人だと分かったので」
エリスはしばらくわたしを見ていた。
それから、小さく息を吐いた。
「倉橋さんは変わった人ね」
「よく言われます」
「今日見たことは、報告する。ただし、内容については確認事項が残っているので、今夜ではなく明日以降になる。それだけ」
言って、エリスは扉の方へ向かった。
入り口まで来たところで、少し止まった。
「九条さん」
振り返らずに、呼んだ。
「なに」
「公開試験まで、あと二ヶ月弱。それが何かの参考になるかどうかは分からないけれど、一応」
それだけ言って、エリスは廊下へ出ていった。
足音が遠ざかっていった。
旧資料棟の入り口の扉が閉まる音がした。
しばらく、二人とも動かなかった。
モコが机から降りてきた。わたしの足元に来て、上を向いた。
わたしはモコを見た。
セレスが口を開いた。
「これは私の問題よ」
振り返らずに言った。窓の方を向いたまま。
「あなたまで巻き込む必要はない」
「セレスさん」
「倉橋さん」
セレスは遮るように言った。
「聞いて。明日以降、エリスが報告したら学園の調査が入る。その時にあなたの名前が出れば、あなたの評価に影響する。落ちこぼれという評価にさらに傷がつく」
「それは」
「私の責任よ。あなたを巻き込んだ私の。だから、これ以上は関わらないでほしい」
わたしは正しい側でも、名家の側でもない。ただ、届かなかったものの方を見ていた。
わたしは少し黙った。
セレスの背中を見た。窓の外の暗くなった空を向いたまま、動かなかった。
「関わらないで、という言葉の意味を聞いていいですか?」
「旧資料棟に来るな、ということ」
「研究はどうするんですか?」
「一人でやる。今まで一人でやってきたから、できる」
「二ヶ月足らずで間に合いますか?」
「分からない。でも、あなたを巻き込んでここまで来ることはできなかった」
「きたから、六層目まで届いたんじゃないですか」
セレスが黙った。
「向こうが応えているのは、一人の時より二人でやってきたあとの方が強くなっています。それも失敗痕から読めます。偶然じゃない」
「それでも」
「セレスさん」
セレスが少し肩を動かした。
「わたしが傷ついても、それはわたしの選択です。セレスさんが決めることじゃないと思います」
「そういう話をしているのではない」
「どういう話をしていますか」
「あなたに迷惑をかけたくない」
「もうかけています。最初から分かった上で関わっています。今さら迷惑の話をされても、意味がないです」
セレスが振り返った。今まで見たことのない顔だった。怒っているわけでも、冷静なわけでもない。何かが崩れかけているのを、必死に保とうとしている顔だった。
「なぜそこまで」
「昨日の日誌の人が、時間が足りなかったから。それだけです」
セレスが黙った。
「それだけじゃないかもしれないけど。うまく言えないので、今はそれだけにします」
部屋が静かだった。
モコがわたしの足元から、セレスの方へ歩いていった。セレスの足元に来て、上を向いた。
セレスはモコをしばらく見た。
「冷たく言う」
セレスの声が少し変わっていた。
「これは私の問題よ。あなたまで巻き込む必要はない」
「知っています」
「それでも来るの」
「来ます」
セレスがわたしを見た。
傷ついている、と思った。今日のことで、傷ついている。エリスに見つかったことよりも、わたしを切り離そうとして切り離せなかったことで。
「明日、来ていい?」
わたしの問いかけに、セレスは答えなかった。
でも、「来るな」とも言わなかった。
モコが一度鳴いた。
セレスが穏やかな声で言った。
「今日はここまでにしましょう」
窓の外は完全に暗くなっていた。




