第十三章 正しい側にいる人の迷い
生徒会室の窓からは、中庭がよく見える。
昼休みになると、あそこにはいつも生徒が集まる。昼食を取る者、ベンチで本を読む者、魔法の練習をして教師に注意される者。どれも学園の日常の光景だった。
御門エリスは、その光景を横目に見ながら、机の上の書類に視線を戻した。
公開試験関係書類、閲覧記録、施設使用申請、予算調整。
生徒会書記の仕事は、思っている以上に地味で、そして終わらない。
ペンを走らせながら、彼女は一枚の紙の端に目を止めた。
旧資料棟閲覧記録。そこには、最近見慣れた名前が並んでいる。
倉橋ルカ。
九条セレス。
数週間前までは、ほとんど記録のなかった場所だ。旧資料棟は授業で使うことも少なく、興味本位で入る生徒も多くない。古い記録と使われなくなった資料が保管されているだけの建物だ。
それなのに、最近は同じ二人の名前が何度も並んでいる。
エリスはその名前を指先でなぞった。
「……何をしているのかしら、あなたたちは」
誰に聞かせるでもない声だった。
彼女は九条セレスをよく知っている。
同学年、成績は常に首席と次席。
表向きには穏やかな関係だが、周囲は二人をよく比べた。
九条家の継承者と、御門家の後継。どちらが上か。どちらが優れているか。
そんな比較を、二人とも望んでいないことを、エリスは知っていた。
それでも比較はなくならない。家も、学園も、周囲も、そういう目で見る。
だからエリスは、ずっと正しい生徒でいようと思ってきた。
規則を守り、成績を保ち、役目を果たす。
それが御門の人間としての正しさであり、生徒会書記としての責任であり、自分の立場を守る方法でもあった。
正しくあれば、間違えない。間違えなければ、責められない。
少なくとも、そう思っていた。
ペンを置き、エリスは椅子の背にもたれた。
公開試験の資料の山が、机の端に積まれている。
その一番上には、試験実施要項と、参加生徒の一覧があった。
九条セレス。
その名前を見ても、エリスは驚かなかった。
彼女が選ばれるのは当然だ。成績、家柄、魔法制御、どれを取っても文句のつけようがない。だからこそ、不自然だった。
旧資料棟。禁書閲覧申請。古い召喚記録の閲覧履歴。
そして、倉橋ルカという生徒の名前。
倉橋ルカ。成績は中の下、魔術実技はむしろ下位。
特別な家の出でもなければ、生徒会や研究会に所属しているわけでもない。
普通なら、九条セレスと関わる理由がほとんどない生徒だった。
それなのに、最近は二人が一緒にいるところを何度も見かける。
旧資料棟の渡り廊下、図書室の奥、空き教室の前。
偶然にしては多すぎる。
エリスは引き出しから、別の書類を取り出した。
旧資料棟 閲覧制限資料一覧。
その中に、九条家関連の古い召喚記録がいくつか含まれている。
閲覧には教師または生徒会の許可が必要な資料だ。
申請書の控えを見る。
許可者欄には、灰崎クロードの名前があった。
「……先生も、何を考えているのかしら」
灰崎クロード。古代魔術史の教師で、旧資料棟の管理も任されている。
規則に厳しいわけでもなく、かといって無秩序を好むわけでもない。
どこか掴みどころのない人だと、エリスは思っていた。
許可が出ている以上、形式上は問題ない。
規則は守られている。
けれど、規則の内側で何かが起きている。
それが、エリスにはどうしても気になった。
彼女は窓の外をもう一度見た。
中庭では、何人かの生徒が簡単な召喚陣を描いて練習している。
うまくいかずに煙だけが上がり、周囲が笑う。
教師が注意しに歩いていく。いつも通りの光景だった。いつも通りの、正しい学園。
決められた形式の魔法。決められた試験。決められた評価。決められた順位。
その仕組みの中で、誰もが努力し、競い、認められる。
それは間違った仕組みではない。少なくとも、エリスはそう信じてきた。
正しい制度の中で、正しい努力をして、正しい結果を出す。
それが一番公平で、一番間違いが少ない。
――本当に?
ふと、その言葉が頭に浮かんだ。
エリスは自分でその考えに少し驚いた。
本当に、正しいのか。
九条セレスは、その制度の頂点にいるはずの人間だ。
誰よりも形式に適した魔法を使い、誰よりも安定した成績を出し、誰よりも継承者にふさわしいと評価されている。その彼女が、なぜ旧資料棟に通い、古い記録を読み、倉橋ルカという生徒と行動を共にしているのか。
もし制度が正しいなら、そんなことをする必要はないはずだ。
もし制度が正しいなら、九条セレスは迷う必要などないはずだ。
エリスは机の上の書類を見つめた。
公開試験。継承魔法の実演。学園と家の代表としての魔法。
すべては、正しさを証明するための試験だ。
――正しさを、誰に証明するのかしら。
自分でも答えの出ない問いが、穏やかに残る。
ノックの音がして、生徒会の後輩が顔を出した。
「御門先輩、予算書の確認をお願いできますか」
「ええ、今行きます」
エリスはいつものように立ち上がった。
書類を揃え、ペンを閉じ、机を整える。
正しい生徒会書記の動作。いつもと同じ、間違いのない行動。
扉の前で、彼女は一度だけ振り返った。
机の上には、旧資料棟の閲覧記録がまだ置かれている。
そこに並ぶ二つの名前を、もう一度見た。
倉橋ルカ。
九条セレス。
「……あなたたちが間違っているのか」
エリスは小さく呟いた。
「それとも――」
言葉の続きは、口に出さなかった。
もし制度の方が間違っているのだとしたら。
もし正しいと信じてきたものが、別の誰かにとっては間違いだったのだとしたら。
そのとき、自分はどちら側に立つのだろう。
正しさの側か。人の側か。答えはまだ出ない。
エリスはそっと扉を閉め、生徒会室をあとにした。
廊下の向こうからは、学園祭準備の笑い声が聞こえてくる。
学園はいつも通り動いている。規則も、試験も、順位も、何も変わらない。
けれどどこかで、何かが少しだけ、ずれ始めている気がした。
そのずれが正しいのか間違いなのか、まだ誰にも分からない。
少なくともエリスは、初めて少しだけ迷っていた。
正しい側に立っているはずの自分が、本当に正しい場所にいるのかどうかを。




