第十四章 ひとりぼっちの研究室
エリスに旧資料棟でセレスさんといっしょにいるところを見られた翌日、放課後になっても、わたしは渡り廊下の方へ足が向かなかった。旧資料棟へ行かなかった。
行かなかった、というより、行けなかった。昨日セレスが「来るな」と言わなかったのは本当だったけれど、「来ていい」とも言わなかった。その空白が、足を止めた。
放課後、わたしは教室に残ってリオと話した。
「珍しい。最近ずっと図書室だったのに」
「今日は気分じゃなくて」
「何かあった?」
「別に」
リオはわたしの顔を少し見てから、「そっか」と言った。それ以上聞かなかった。
窓の外を見た。旧校舎の方向に、旧資料棟の古い石造りの屋根が見えた。窓から明かりが見えるかどうかを確認しようとして、やめた。
「リオ」
「うん」
「誰かのことを、自分が関わった方が良くなると思っても、向こうが関わらないでほしいと言ったら、どうする?」
リオが少し考えた。
「難しいね。相手が本当に望んでいるのか、傷ついて言っているだけなのかで、違う気がする」
「傷ついて言っている場合は?」
「待つ、かな。しつこく押すのも違う気がするし、完全に引くのも違う気がして。近くにいるよ、ってことだけ示して、あとは待つ」
わたしは窓の外を見た。
「そっか」
「誰かのこと?」
「うん」
「大丈夫?」
「大丈夫」
リオが少し笑った。
「ルカが大丈夫って言う時は、大丈夫じゃないことが多い気がするけど」
「今回は本当に大丈夫」
「そっか」
教室の明かりが夕暮れの光と混ざり始めた頃、リオが「ご飯食べに行こうか」と誘ってきた。わたしは「うん」と答えた。
翌日の放課後も、旧資料棟へ行かなかった。
モコがわたしを探しに来ないかと思ったけれど、来なかった。旧資料棟を離れることはないのかもしれないと思った。
代わりに、図書室に行った。感応型の召喚に関する資料を引き続き調べた。昨日見つかった学園の記録の続きに何かないかを確認したかったけれど、表の図書室にはそれ以上の資料がなかった。
司書の先生に、古い召喚術の研究記録について聞いた。
「旧資料棟に一部あるかもしれないけれど、あそこは整理されていないから。何か特定のものを探しているの?」
「感応期の召喚と、定型期への移行について調べていました」
「古代魔術史の授業で?」
「はい」
半分本当だった。
「灰崎先生に聞いてみたら? あの先生、そういう分野に詳しいから」
「はい。では、次の講義の時に、相談してみます」
☆
翌週の火曜日、四時間目の古代魔術史の授業が終わったあとで、わたしは灰崎先生に声をかけた。
先生は教卓の上の資料を片付けていた。気だるそうな動作で、授業の時と変わらない。
「倉橋か」
先生はこちらを見なかった。
「少し聞いていいですか」
「なに」
「感応型の召喚から定型型への移行について、学園の記録に何が残っているか知っていますか」
先生の手が少し止まった。止まってから、また動いた。
「なぜ」
「調べています」
「何のために」
「授業で興味が出たので」
先生が顔を上げた。眼鏡の奥の目が、わたしを見た。
「嘘をつくのが得意じゃないな、お前は」
わたしは黙った。
「まあいい。何を知りたい」
「感応型の召喚が、なぜ定型型に改変されたのか。改変の時に何が失われたのか」
先生が資料を脇に置いた。
「均一化のためだよ。誰でも同じ結果を出せるようにするためと、教育上の管理がしやすいようにするため。感応型は術者の個性に依存しすぎる」
「改変の時に失われたものは?」
「再現性の低さと引き換えに捨てたものがある。術者と召喚対象の間の、個別の繋がり。感応型では、術者ごとに少しずつ違う繋がりができる。定型型ではそれがない」
「個別の繋がり」
「感応型の召喚で呼んだものは、その術者と特別な関係を持った。定型型で呼んだものはそれがない。均一な召喚は、均一な関係しか生まない」
先生が立ち上がった。
「それを知って、どうするつもりだ」
「まだ分かりません」
「そうか」
先生が教室の扉へ向かった。
「先生」
「なに」
「感応型の特性が強い術者が、定型型の形式で召喚を試みた場合、どういうことが起きますか」
先生が止まった。
扉の前で止まって、少し間を置いた。
「定型型で成立しない。感応型で成立する。その術者にとって、定型型は合わない服のようなものだ。着ることはできるが、うまく動けない」
「合った形式で試みれば、成立する可能性がある?」
「理屈の上ではな。ただし」
先生が振り返った。
「昔の召喚は、今より単純ではなかった。完璧な者が完璧に行えば成立する、というものではなかった」
「どういうことですか」
「欠けているからこそ、届くことがある。完璧に整えられた者より、何かが足りない者の方が、向こうに届きやすいことが、古い記録には書いてある。なぜかは分からない。でもそういう記録がある」
わたしは少し考えた。
「欠けているから届く」
「今日はここまでだ。続きは自分で考えろ」
それだけ言って、先生は出ていった。
わたしは教室に一人残った。
欠けているからこそ、届くことがある。
それは、セレスのことを言っているのか。それとも、わたしのことを言っているのか。
あるいは、二人のことを言っているのか。
その日の夕方、わたしは旧資料棟の外に立った。
入るつもりはなかった。ただ、外から気配を読もうと思った。
壁越しに気配を辿った。
セレスがいた。いつもの部屋にいた。明かりが点いていた。作業をしている気配があった。
モコもいた。部屋の中にいた。
陣の気配があった。今日も試みていた。
読んだ。
六層目に届いていなかった。五層目で崩れていた。
先週、わたしと一緒にいた時は六層目まで届いた。今日は五層目で止まっていた。
わたしは外壁に手を当てたまま、少し考えた。
セレスは一人でやっている。やめていない。でも届かなくなっている。
欠けているからこそ、届くことがある。
先生の言葉が、別の意味を持ち始めた。
わたし一人が欠けているのではなく、二人でなければ届かないのかもしれない。
セレスの欠けた部分と、わたしの欠けた部分が、合わさった時に届く何かがある。
一人では届かない。
わたしは手を壁から離した。
入り口の扉を見た。「立入禁止」の紙が、今日も貼ってあった。
入ろうとした。その時、足元で何かが動いた。
見ると、モコがいた。旧資料棟の外に、モコが出てきていた。扉の下の隙間から出てきたのか、別の場所から来たのか分からなかった。
わたしの足元に来て、上を向いた。
「モコ、外に出てきていいんですか」
モコが鳴いた。
それから、くるりと向きを変えて、旧資料棟の方へ飛んでいった。
入り口の扉の前で止まって、振り向いた。
わたしを見た。
「…………」
わたしはモコを見た。
モコがまた鳴いた。今度は少し強い声で。
「分かりました」
扉を開けた。
廊下を進んで、部屋の前に来た。扉を少し開けた。
明かりがあった。セレスが机の前に座っていた。羊皮紙と向き合ったまま、動きを止めていた。
「倉橋さん」
セレスは振り返らなかった。
「入っても、いいですか?」
セレスは少し間を置いた。
「入りなさい」
わたしは躊躇いなく入った。
椅子を引いて、向かいに座った。
モコが部屋の中へ入ってきて、机の上に乗った。それからわたしとセレスを交互に見て、真ん中あたりに座った。
しばらく誰も何も言わなかった。
「五層目で崩れていました」
わたしがそう伝えると、セレスが顔を上げた。
「外から読んだの」
「はい。壁越しに」
セレスがわたしを見た。
「昨日も」
「昨日は外から読んで、今日入ってきました」
「……勝手ね」
「すみません」
「謝らなくていい」
セレスが羊皮紙に目を戻した。
「五層目で崩れた理由、読めた?」
「おそらく、受容の構造が閉じる方向になっていると思います。先週と同じ問題が戻ってきている。無意識に、防御側になっている」
「分かっている。分かっているのに、直せない。一人でやっていると、どこかで同じ方向に戻る」
「そうだと思います」
わたしがそう言うと、セレスが少し間を置いた。
「灰崎先生に話を聞きに行ったの?」
「今日の授業のあとに」
「何を聞いた」
「欠けているからこそ届くことがある、と言っていました」
セレスがわたしを見た。
「先生がそれを」
「はい。昔の召喚は、完璧な者より何かが足りない者の方が届きやすいことがある、と」
「それは、私のことを言っているの? それとも」
「二人のことだと思います。セレスさん一人でも、わたし一人でも届かない。二人でないと届かない何かがある気がします。失敗痕から読んだ感覚と、先生の言葉が、重なりました」
セレスは、しばらくわたしを見ていた。
「なぜ戻ってきたの」
「モコが呼びに来たので」
セレスがモコを見た。
モコは、机の上で澄ました顔をしていた。
「モコが」
「はい。外まで出てきていました」
セレスがモコを見たまま、少し黙った。
「明日の放課後も来て」
命令形だった。でも、今までの命令形とは少し違った。
「来ます」
わたしがそう言うと、モコが小さく鳴いた。
窓の外は完全に夜になっていた。




