第五章 親友は、最近の変化に気づく
「おっはようルカ」
翌朝、朝のホームルーム前、わたしが席に着いてほどなく、リオはいつもみたいに大きく手を振りながらこっちへ走ってきた。少し明るい色の髪を後ろでまとめていて、走るたびにその束が揺れる。表情がころころ変わる人で、遠くからでもだいたい機嫌が分かる。
「最近なんか変わった?」
開口一番だった。リオは自分の席から椅子ごと寄せてきて、わたしの顔をじっと見ていた。
「変わってないけど」
「変わってる」
「どこが」
「なんか、明るい」
わたしは少し考えた。
「元から明るい方だと思うけど」
「違う明るさ。なんか、充実してる時の顔してる。放課後に何かやってる?」
「別に」
「嘘だ」
リオは情報通だ。学園内の噂に詳しくて、人の変化に気づくのが早い。中等部からずっと同じクラスで、それなりに見られてきた自覚はある。誤魔化せるかどうか、半々くらいだった。
「図書室で調べ物してる」
「何を?」
「陣式の古い形式。授業で使わないやつ」
これは半分本当だった。旧資料棟で見た古い召喚陣の参照式を調べるために、昨日の昼休みに図書室で一時間ほど過ごした。嘘はついていない。
「陣式?」
リオは少し意外そうな顔をした。
「ルカが自分から調べ物?」
「失礼な」
「だって補習の予習も大体ぎりぎりじゃない」
「それはそう」
リオが笑った。わたしも笑った。
「まあいいけど。何か楽しいことが見つかったなら、いいことだと思う」
それ以上は聞かなかった。リオはそういう人だった。気になっているのに踏み込まない、という距離感が自然にできている。
いつの間にか、わたしの言葉はあの部屋でだけ、ちゃんと届くようになっていた。
ホームルームが始まって、わたしは黒板に顔を向けた。でも頭の半分は昨日のことを考えていた。
六層目まで届いた陣。形のない光。モコの鳴き声。
そしてわたしが言ってしまった一言。
もしかしてモコって、セレスさんの魔法の続きなんじゃないですか。
昨日、セレスはその言葉に対して何も答えなかった。ただわたしを見た。それから窓の外を見た。しばらく黙っていて、「今日はここまでにしましょう」と言った。
答えがない、ということが答えなのかもしれない。完全に否定しなかった。
帰り道に考えた。モコが旧資料棟に住み着いている理由。失敗した術式の残滓を食べること。召喚に関係するものへの反応。セレスには懐かないのに、傍を離れない理由。
全部が繋がるとしたら、昨日見た光の記憶と重なる。
形のない、まだ何かになりきれていない何か。
三時間目は実技だった。今日の課題は属性制御の基礎、炎の維持だった。魔力で点火した炎を一定時間安定させる、二年生では基本的な内容のはずだった。
「倉橋、準備して」
名前を呼ばれてわたしは前に出た。
手のひらの上に魔力を集めた。点火自体はできる。問題はそのあとだ。
炎が灯った。小さいけど、形になった。
三秒、安定した。
五秒、まだ大丈夫だった。
七秒目に、ゆらりと揺れた。制御をかけ直そうとした瞬間に、炎が横に広がった。隣に置いてあった実習用の台座に燃え移りそうになって、補助の先生が急いで消火した。
「倉橋ルカ、制御の基礎から見直すこと」
「はい」
クラスの中に笑いは起きなかった。もう見慣れているからだと思う。笑われなくなったことを、悲しいと感じるか、慣れたと感じるかは、その日によって違う。
今日は、あまり気にならなかった。
席に戻りながら、さっきの炎が広がる感覚を反芻した。あそこで制御をかけ直そうとした時の、力の向きが逆になる感じ。今まで何度もやっている失敗なのに、今日は少しだけ、何がずれているのかが分かった気がした。
古い陣式の、外から内へ収束するのと、内から外へ広がるのの話を、昨日ずっと考えていたせいかもしれない。
わたしの制御は、収束させようとするとどこかで反発する。広がろうとしている力を無理に押さえつけているから、かえって暴れる。
それは、セレスの召喚陣が今の形式と合わないのと、構造として似ているかもしれない。
あとで考えようと思った。今すぐ解決できることではない。
昼休みに食堂へ行くと、廊下でセレスを見かけた。
こちらには気づいていなかった。向こう側を歩いていて、一緒にいる生徒もいなかった。
食堂の入り口のところで、わたしはそのまま立っていた。廊下を歩くセレスと、今の学園内でのセレスは、旧資料棟のセレスとは少し違って見えた。姿勢が完璧で、表情が整っていて、すれ違う生徒が自然と道を開ける。「氷の優等生」という呼ばれ方が、この廊下では正確に見えた。
陣が六層目まで届いたあと、羊皮紙の焦げ跡の前に立っていたセレスは、こんな顔をしていなかった。何かを正面から受け取って、整理しきれていない顔をしていた。
どちらが本物か、という問いを立てるのは違う気がした。どちらも本物なんだと思う。ただ、どちらを見せているかが、場所によって違う。
セレスが角を曲がって見えなくなった。
わたしは食堂に入った。
午後の授業が終わって、放課後になった。
廊下に出ると、リオが寄ってきた。
「今日も図書室?」
「うん」
「何時まで?」
「夕方まで」
「そっか」
リオは少し間を置いた。
「晩ご飯、一緒に食べれそうなら声かけて」
「うん、ありがとう」
リオが教室へ戻っていくのを見送ってから、わたしは廊下を歩き出した。
旧資料棟への道は、もう迷わなかった。
部屋に入ると、セレスはすでに机に向かっていた。今日は羊皮紙が三枚広げられていた。昨日の焦げた失敗痕の清書と、古い記録の一部の写し、それと新しい陣の下書きが並んでいた。
モコは棚の上にいた。わたしが入ってくると耳をぴんと立てて、すぐに飛んできた。今日は胸元ではなく、肩に乗ってきた。
「肩ですか」
モコはわたしの耳の近くで小さく鳴いた。
「セレスさん、こんにちは」
「来たの」
セレスは振り返らなかった。
「はい。今日は何から始めますか」
「座る前に聞きたいことがある」
わたしは立ったまま待った。
セレスが羊皮紙から顔を上げた。
「昨日言ったこと。モコが私の魔法の続きかもしれない、というのは、どこから来た考えなの?」
昨日の続きだった。昨日は答えがなかったから、考え続けていたのかもしれない。
「気配の話です。失敗した術式の痕跡から感じる気配と、モコから感じる気配が似ている。そして陣が六層目まで届いた時に現れた光の気配も、同じものに近かった」
「同じもの」
「向こうから応えようとしているもの、と言えばいいのか。形がなくて、まだ何かになりきれていない感じで、でも温かい。モコも、最初から完成した存在じゃない気がします。呼ばれかけたけど呼ばれなかった、途中のまま留まっている何か」
セレスは少し間を置いた。
「それが事実だとしたら、モコは私がいつ呼んだの?」
「分からないです。でも、今まで失敗し続けてきた記録に全部『応答あり』って書いてあったので、どこかで一度だけ、完全に届いた瞬間があったのかもしれない。その時に形にならなかったものが、留まっている」
「完全に届いた、でも形にならなかった」
「陣が崩れる前に、一瞬だけ応えた。でもそのまま繋ぎとめることができなかった。だからここにいる」
セレスが視線をモコに向けた。
モコはわたしの肩から降りて、机の端に乗った。セレスとわたしを交互に見ている。
「証明できない話ね」
「はい」
わたしは認めた。
「気配から読んでいるだけなので、正確かどうかは分からない。でも嘘をついている気配じゃないです」
「嘘をついている気配?」
「失敗の痕跡って、術者の意図がそのまま残るんです。きれいに見せようとしても、失敗した事実は消えない。だから読んだものは信頼できる。モコから読めるものも、そういう種類の気配なので」
きれいに完成した魔法より、崩れかけた魔法の方が、わたしには少しだけ正直に見えた。
セレスはしばらく黙っていた。
窓の外で風が通った音がした。旧資料棟の古い建物は、少し隙間風が入る。
「分かった。続きは研究が進んでから考える。今日は別の話をしたい」
「どうぞ」
セレスが新しい羊皮紙をわたしの方へ向けた。今週の学園の掲示板に貼り出されたものの写しだった。
わたしは見た。
中間実技査定の告知だった。
「来月に査定がある。それ自体は毎年のことだから問題ない。ただ」
彼女が羊皮紙をもう一枚出した。
「これが今年追加されたもの」
わたしは読んだ。
特別実技公開試験、と書いてあった。
学年の上位成績者を対象に、名家の継承魔法を含む高度術式の実演を求める試験。外部への公開あり、家族等の参観を認める、と書いてある。
わたしはゆっくり内容を読んだ。
名家の継承魔法の実演。
九条家の継承魔法は、召喚魔法だ。
「これは」
「そう。上位成績者を対象にした試験。私が外れる成績ではない」
「実演が必要」
「必要。外部への公開もある。家族等の参観、つまり九条家からも来る可能性がある」
わたしは羊皮紙を机に戻した。
セレスの顔を見た。今日は旧資料棟に来た時からどこか固い気がしていたけど、これが理由だったのかもしれない。
「いつ?」
「二ヶ月後。学園祭と同じ時期に設定されている」
二ヶ月。期限が決まった瞬間、旧資料棟の静けさまで少しだけ急かされているように思えた。
昨日初めて六層目に届いた。でも崩れた。形が現れて、消えた。そこから完全な召喚まで、二ヶ月で届くかどうか。
「研究を急ぐということですか」
「そういうこと。ただ急ぎすぎても崩れる。昨日みたいに一層ずつ確認しながら進める必要がある。あなたの力が必要な理由がまた増えた」
「分かりました」
「嫌なら、今なら断れる。二ヶ月で間に合わなかった場合のことを、考えた上で関わるかどうかを決めなさい」
「……」
わたしは少し考えた。
二ヶ月で間に合わなかった場合のこと。セレスが公開試験で継承魔法を実演できなかった場合のこと。九条家にとって、学園にとって、それがどういう意味を持つか。
わたしがその場にいたかどうかに関わらず、起きることは起きる。でもわたしがいれば、少しだけ可能性が変わるかもしれない。
「断らないです。六層目まで届いたので。二ヶ月あれば、もう少し先に行けると思います」
セレスは何も言わなかった。
でも少しだけ、肩の角度が変わった気がした。
モコが机の端から羊皮紙の上に乗ってきた。公開試験の告知の写しを踏んで、ちょこんと座った。
「モコ、そこは」
セレスが言っても、モコは動かなかった。
「聞いてないですね」
わたしは突っ込む。
「毎回聞かない」
「慣れましたか?」
セレスが少し間を置いた。
「慣れていない」
でもモコを退かせなかった。
わたしは作業の準備を始めた。今日の陣を読む前に、昨日の失敗痕をもう一度確認したかった。焦げ跡から読み直せば、六層目で何が起きたのかがもう少し分かるかもしれない。
その時、廊下の方から足音が聞こえた。
旧資料棟に人が来ることは、今まで一度もなかった。
二人とも動きを止めた。
足音は近づいてきて、廊下の突き当たりで止まった。
扉は閉まっていた。
しばらく沈黙があって、それから足音が遠ざかっていった。
わたしはセレスを見た。セレスは扉の方を見ていた。
「誰かいましたね」
「偶然通っただけかもしれない」
声は穏やかだったけど、少し注意が入っていた。
モコが告知の写しの上でしっぽをゆっくり揺らしていた。
帰り道、わたしは本棟の廊下を歩きながら掲示板の前で足を止めた。
特別実技公開試験の告知が、そこにも貼ってあった。
名家の継承魔法の実演。
学年首席の九条セレスが対象になる。それは誰の目にも明らかだった。この告知を見た人間が何を考えるかは、だいたい想像がついた。
わたしは告知を見ていた。
六層目の光を思い出した。形のない、でも確かに応えた何か。あれがちゃんと形になる日のことを、少しだけ具体的に想像した。
セレスが自分の召喚を成立させる日のことを。
廊下の向こうから、がやがやと生徒の声がした。
わたしは掲示板から離れて、歩き出した。




