第四章 失敗の痕跡は嘘をつかない
翌日の放課後、わたしは旧資料棟に着くなりモコに飛びつかれた。
扉を開けた瞬間に廊下の奥から白い毛玉が飛んできて、胸元に直撃した。受け止める前に顔に毛が当たった。
「っわ、モコ、待って」
モコはわたしの腕の中でちょこちょこ動いてから、満足そうに落ち着いた。耳がパタパタしている。
「昨日も会ったのに」
わたしがそう言うと、モコは返事の代わりに小さく鳴いた。
部屋に入ると、セレスはすでに机に向かっていた。昨日より早く来ていたらしい。羊皮紙が二枚広げられていて、一枚は昨日修正した陣の清書版、もう一枚は何かの記録の写しだった。
「来たの」
セレスは振り返らなかった。
「来ました」
セレスが作業していた羊皮紙の脇に、昨日モコが引っ張り出してきた、焦げた古い記録が置いてあった。九条家の紋章が押された、あれだ。
「昨日のそれ、読みましたか?」
「読んだ」
「何が書いてありましたか?」
セレスが手を止めた。
「座りなさい。今日はそこから始めましょう」
わたしは椅子を引いて向かいに座った。モコを膝に下ろすと、すぐに机の端まで歩いていって、焦げた羊皮紙の匂いを嗅ぎ始めた。
「それ、食べないでね」
わたしがモコに注意すると、モコはわたしを一度見た。見た上で端に鼻先をつけた。
「食べないでって言ってる」
モコは動きを止めて、しっぽをゆっくり揺らした。
セレスが羊皮紙をわたしの方へ向けた。
「九条家の記録の一部。かなり古い、おそらく三代か四代前の当主の時代のもの」
わたしは紙を見た。古い書体で、術式の記録と数式が並んでいる。端が焦げているせいで一部が読めないけど、全体の構造は分かった。
「召喚記録ですか」
「そう。ただし」
彼女は自分の清書した陣と、古い記録を並べた。
「見比べてみて」
わたしは二枚を交互に見た。
すぐに分かった。
同じ召喚陣のはずなのに、構造が違った。外から見れば似ている。六重構造も同じ、使用する素材の記述も同じ。でも、陣の内側に入ると、位相の定義が根本から違う。
「古い方は、中心から外へ向かう構造になっている」
「そう」
「今の形式は外から中へ収束する構造ですよね。向きが逆だ」
「逆、というより、変えられている」
その言い方が引っかかった。
「変えられた?」
「どこかで改変されたということ。九条家の召喚魔法は代々継承されてきたはずなのに、この古い記録と今の形式は、根本の構造が違う。いつ、誰が変えたのか、その記録は残っていない」
わたしはもう一度二枚を見た。
古い方の陣には、中心から外へ向かう螺旋の構造がある。今の形式にはそれがない。代わりに、外周を固める層が増えている。
「なぜ変えたんですかね?」
「分からない。制御しやすくするためかもしれない。均一な結果を出しやすくするためかもしれない。理由は記録に残っていない」
「でも変えたあとの方が、今まで使えていた」
「私以外は全員。私だけが、改変後の形式で一度も成立していない」
わたしは古い記録に目を戻した。
中心から外へ向かう構造。螺旋。これは何かに似ている気がした。感覚的なもので、うまく言葉にできないけど。
「昨日の陣の失敗痕を読んだとき、接続が逆、と言いましたよね」
「言った」
「あの感覚と、この古い形式の構造が、似ているんです」
セレスがわたしを見た。
「どういうこと」
「昨日の失敗痕から読んだ気配は、中心から外へ向かう流れに近かった。古い形式の陣の向きに近い。つまり、セレスさんの術式が向いている方向が、今の形式と逆になっているんじゃないかと思って」
沈黙があった。
セレスはしばらく羊皮紙を見ていた。
「それは……」
彼女は言いかけて、止まった。
「私が今の形式に慣れていないということ? それとも、私自身の資質が古い形式に近いということ?」
「分からないです」
わたしは正直に言った。
「でも、失敗痕の気配は嘘をつかないので。セレスさんの術式が自然に向かおうとしている方向が、今の形式とずれているのは確かだと思います」
またモコが動いた。
古い記録の上に乗って、紙面をちょこちょこと歩き始めた。
「モコ」
セレスが呼んでも、モコは止まらなかった。螺旋の中心あたりで立ち止まって、そこをじっと見た。それから小さく鳴いた。それは紙の上に座ったというより、そこが自分の場所だと知っている動きに見えた。
わたしはその様子を見ていた。
「モコって、召喚に関係するものに反応するって言っていましたよね」
「そう言った」
「さっきから、古い記録の上にいます」
セレスが視線をモコに向けた。
「それは、珍しくはない。こういう記録には残滓が染みついているから」
「今のところに止まっているのは?」
セレスは答えなかった。
螺旋の中心に、モコが座っていた。動かなかった。さっきまでちょこちょこしていたのが嘘みたいに、静かに座っていた。
わたしはもう一度、失敗痕の気配を思い出そうとした。
昨日読んだもの。呼ばれかけた何か。遠い、でも確かに存在する何かが、一瞬だけこちらに触れた感じ。それはどんな形だったか。
輪郭がなかった。形があってなかった。あえて言えば、温かくて、柔らかくて、それ自体はまだ何かになりきれていないような。
わたしは膝の上のモコを見た。
温かくて、柔らかくて、正体がよく分からない。
「セレスさん」
「なに」
「少し変なことを言っていいですか」
「どうぞ」
「昨日の陣の失敗痕から読んだ気配と、モコから感じる気配が、少し似ています」
部屋が静かになった。
西日が窓から差し込んで、羊皮紙の上の螺旋の陣を照らしていた。モコはその中心で動かなかった。
セレスはしばらく何も言わなかった。わたしも待った。
やがてセレスが口を開いた。
「それは、どういう意味で似ているの」
「形の話じゃないです。何かになりきれていない感じ、というか。呼ばれかけたけど呼ばれなかった、途中のままの感じ」
「モコが」
「モコから、そういう気配がします。ずっと気になっていたんですけど、この古い記録を見てから、どこかで繋がっている気がして」
セレスが立ち上がった。
窓の方へ歩いて、外を見た。背中しか見えなかった。
「私の研究記録を見せる」
机の引き出しから、別の束を出した。何十枚も重なった羊皮紙で、全部セレスの字で記録が書かれていた。失敗の記録だった。日付と、その日試みた術式の構造と、どこで崩れたかの記録。
「高等部に入学してからのもの全部。一年以上の分」
わたしはそれを受け取って、最初の一枚を見た。
入学直後の記録は、陣の構造がまだ荒かった。それが一枚ずつ精緻になっていく。失敗の原因も、最初は基礎的なものだったのが、だんだん細かくなっていく。ずっと研究してきた跡が、そのままここにあった。
読みながら、わたしは一つのことに気づいた。
「失敗の直前に、必ず同じ記述がある」
「どの記述?」
「応答あり、って書いてあります。全部の記録に」
セレスの背中が少し固まった。
「応答があった?」
「感じた、という程度のことだから」
セレスの声が少し固かった。
「実際に成立したわけではない。ただ一瞬、向こうから何かが触れた気がすることがあった。でも次の瞬間には崩れる」
「何かが触れた、というのは」
「呼んでいる対象が、一瞬だけ反応した感じ。でもそこで陣が崩れるから、続かない」
わたしは記録を見た。応答あり、という記述が、ほぼ全部の記録に入っていた。失敗し続けているのに、応答は毎回ある。
「それは成立していると思います」
セレスが振り返った。
「成立?」
「完全に届いていないかもしれないけど、応答が毎回あるということは、向こうに伝わっている。ただ、陣の構造が今の形式に合っていないから、繋ぎとめることができないで崩れる。呼べていないんじゃなくて、繋げ方が合っていないだけだと思います」
「それは、楽観的すぎない」
「楽観というよりも、失敗痕から読んだ話なので」
「失敗痕から」
「はい。失敗痕は嘘をつかないんです。何が起きたかを、そのまま残している。この記録全部の失敗の跡を読んだら、たぶん全部に応答の痕跡がある。成立しかかっていた跡が」
セレスはわたしを見ていた。
信じていないわけではない。でも、受け入れるのに時間がかかっている、という顔だった。
一年以上、失敗し続けてきた。その全部が「成立しかかっていた」と言われても、簡単には頷けない。それは当然だと思った。
モコが古い記録の上から降りてきた。セレスの方へ飛んでいって、足元に降りた。セレスを見上げている。
セレスはモコを見た。
しばらく、二人は見つめ合っていた。
「モコ」
セレスは低い声で呼んだ。
モコは鳴かなかった。ただそこにいた。
セレスがゆっくりしゃがんだ。手を出した。
モコは少し動いた。近づいて、セレスの手の甲に鼻先を当てた。それからすぐに離れた。懐いているわけでも、拒んでいるわけでもない、その中間みたいな距離だった。
セレスが立ち上がった。
「もう一度陣を組む。今日は古い形式を参照しながら、向きを変えてみる」
「セレスさん、やってみましょう」
セレスが新しい羊皮紙を広げた。わたしは椅子を引いて、読む準備をした。モコは机の端に戻って、二人を交互に見ていた。
作業は二時間近くかかった。
古い形式を参照しながら組んだ陣は、今の形式とは根本から構造が違った。セレスは一度手が止まった。今まで覚えてきた組み方の逆になるから、どこかで迷いが出る。
「止まりましたね」
「慣れていないから」
「ここの接続、今の形式だと外向きに書くところを、古い形式だと内向きに書きます。慣れるまでは逆に感じると思います」
「分かっている。でも、手が先に動く」
「最初だけです。一枚書ければ次は楽になる」
セレスはまた書き始めた。
わたしは陣が形になっていくのを見ながら、失敗痕から流れてくる気配を感じていた。今日はまだ失敗していないから残滓はないけど、陣そのものから、向かっている方向が分かった。
古い形式の陣は、中心から外へ向かう。螺旋が広がるような構造。今の形式が収束するのとは逆に、外へ向かって広がりながら繋げる。
そのほうが、セレスの術式の自然な向きに合っている。
一時間かけて、陣が完成した。
セレスが筆を置いた。
「読んで」
わたしは陣を見た。
今日初めて、問題がなかった。
「大丈夫だと思います」
わたしがそう言うと、セレスが少し間を置いた。
「本当に?」
「全部の層を見ました。位相の向きも、流量の計算も、接続の構造も。崩れそうなところが見当たらない」
セレスは陣をもう一度見た。
それから、ゆっくりと詠唱の準備に入った。
わたしは少し下がった。発動する時は離れていた方がいい。モコも机の端から後ろへ退いた。
セレスが詠唱を始めた。
今まで聞いたことのない古い形式の術文だった。言葉の響きが、今の標準語とは少し違う。古い発音で、でもセレスが読むと流れるように聞こえた。
陣が光り始めた。
六重の構造が順番に起動して、中心から外へ向かって螺旋が広がり始めた。一層、二層、三層。今まで見てきたセレスの失敗と違って、崩れない。流れが続いている。
四層、五層。
モコが鳴いた。
今までと違う鳴き方だった。小さいのに、鋭くて、何かを呼ぶような音だった。
六層目に入った瞬間、陣の中心に何かが現れた。
はっきりとした形ではなかった。光の集まりみたいな、輪郭のぼんやりした何かだった。一瞬だけ、確かにそこにいた。
次の瞬間、崩れた。陣が外周から順番に消えていって、最後に光が消えた。羊皮紙の上には焦げ跡が残った。部屋が静かになった。
セレスが一歩後ろに下がった。
わたしは今見たものを整理しようとしていたら、崩れた。でも今日は、六層目まで届いた。今まで全部の記録の中で、六層目まで届いたのはなかったはずだった。
「届きました」
セレスは答えなかった。
「今まで一番遠くまで届いたと思います。六層目に入ってから、向こうが応えた。見えましたか」
「見えた」
セレスは低い声だった。
「形はなかったけど、確かにいました」
「……そうね」
モコが陣の焦げ跡に近づいた。残滓を嗅いで、ひとつ鳴いた。さっきとは違う、いつもの小さな音だった。
わたしはモコを見て、また思った。
さっきの、形のない光。あの輪郭のなさ。温かそうで、柔らかそうで、まだ何かになりきれていない感じ。
「セレスさん」
「なに」
「もしかしてモコって、セレスさんの魔法の続きなんじゃないですか」
声に出してから、言いすぎたかもしれないと思った。
セレスがわたしを見た。
怒っているわけではなかった。ただ、何かを正面から受け取った時の顔をしていた。
窓の外はもう暗くなり始めていた。
モコは焦げ跡の上に座って、穏やかにしっぽを揺らしていた。




