第三章 放課後研究室と白い毛玉
旧資料棟の建物は古代魔術史の灰崎先生が管理していると、前に誰かが言っていた。
今日の最初の一時間は、ほとんど沈黙だった。
セレスは机に向かって羊皮紙を広げ、新しい陣の構造を書いていた。わたしはその向かいに座って、昨日指摘した位相反転の問題が修正されているかを確認するように言われていた。ただ確認するだけでいい、直すのはセレスがやる、というのが最初の取り決めだった。
モコは棚と棚の間の隙間から顔を出したり引っ込めたりしながら、わたしたちを交互に見ていた。
羊皮紙の上の陣は、見るたびに精緻だと思った。六重の構造が、細い線で丁寧に組まれている。わたしが授業で書く陣と比べると、線の密度も角度の正確さも、別次元だった。
「ここ」
わたしが示すと、セレスが手を止めた。
「また同じところ?」
「少し違います。今度は第四層と第五層の境界。位相は正しいんですけど、流量の計算が内側と外側でずれています。第五層の方が密度が高いので、ここで詰まる気がします」
「どこから読んでいるの」
「陣そのものよりも、書いた時の筆圧の流れから。線の勢いが変わるところに、意識が引っかかった場所が出るんですよね」
セレスが少し間を置いた。
「筆圧」
「はい」
「術式の読み方として、そんなことを教える本は見たことがない」
「教わったことじゃないので」
セレスはわたしの顔を見てから、ペンを置いて、第五層の境界に向き直った。
「修正する。少し待って」
わたしは指示通り待った。
モコが棚の隙間から完全に出てきて、わたしの足元まで飛んできた。ちょこんと床に降りて、上を向いてわたしを見ている。耳が長くて、しっぽが丸くて、全体的に「かわいい」という言葉しか出てこない形をしている。
わたしがしゃがんで手を差し出すと、モコは鼻先を近づけてから、手のひらに乗ってきた。懐かれているというより、何かを確かめられている気がした。
「この子、何を食べるんですか?」
「失敗した術式の残滓と、甘い匂いのする紙」
セレスは作業しながら答えた。
「羊皮紙も食べる。古い方が好みらしい」
「普通の餌は?」
「やったことがない。こちらが何も与えなくても、棚の奥から勝手に見つけてくる」
「水は?」
「飲んでいるところを見たことがない」
モコがわたしの手の中でひとつ鳴いた。ちょこ、という感じの小さな音だった。
「可愛いですね」
セレスの手が一瞬止まった。止まってから、また動いた。
「魔法生物だから」
「魔法生物でも可愛いものは可愛いですよ」
返事がなかった。
わたしはモコを手のひらの上で眺めた。黒いビー玉みたいな目がきらきらしている。こんなに懐かれる理由が分からないけど、懐かれること自体は嬉しかった。友達に懐かれているような、そういう気持ち。
モコが突然耳をぴんと立てた。
それから棚の奥へ向かって一直線に飛んでいった。
何かを引っ張り出す音がした。
「モコ、そこは」
セレスが立ち上がった。
棚の奥からモコが出てきた。口に何かをくわえている。
それは羊皮紙の束だった。正確には、束の中から一枚だけ引き抜いてきたもので、モコはそれを得意げにわたしの足元まで運んできて、ちょこんと置いた。
わたしは拾い上げた。
古い紙だった。端が茶色く変色していて、一部が焦げている。でも文字は残っていた。細い古い書体で、術式の記録と思しき数式が並んでいる。
「何ですか、これ」
セレスが近づいてきて、羊皮紙を見た。その目が少しだけ変わった。
「古い召喚記録ね。どこにしまったか分からなくなっていたもの」
「モコが知ってたんですか?」
「知っていたというより、こういうものに反応するみたいで。失敗した術式の残滓と、それから」
セレスは少し言葉に詰まった。
「召喚に関係するものが近くにあると、落ち着きがなくなる」
わたしは羊皮紙をもう一度見た。術式の下に、小さな紋章が入っている。
九条家の紋章だ、と気づくのに少し時間がかかった。家紋のようなデザインが、記録の末尾に押印されていた。
それからわたしたちは少し話した。
最初からそういう予定があったわけではなくて、モコが引っ張り出してきた羊皮紙をきっかけに、自然とそうなった。セレスが九条家の古い召喚記録の話をして、わたしが陣式の読み方について聞いて、気がつけばお互いのことを少しずつ話していた。
「九条家の召喚魔法は、代々継承されている。家の象徴みたいなもので、名家の継承者が使えることが前提になっている。学園でも、それは知られている」
「使えなかった人は今まで?」
「いない。少なくとも、表向きは」
表向きは、という言い方が引っかかった。でも深く聞くのは今じゃないと思って、わたしは黙っていた。
「わたしは高等部に入学してから一年以上、ずっと研究している。陣式の問題か、詠唱の問題か、制御の問題か、何が原因か探って、修正して、また崩れて。その繰り返し」
「何回くらいやりましたか」
「数えていない。数える気にならなかった」
その言い方に、何か重たいものが混じっていた。
「わたしの話、していいですか」
「どうぞ」
「わたしも入学してからずっと失敗し続けてます。箒は三秒で落ちるし、炎は暴れるし、陣式は崩れる。成績は毎回下から数えた方が早くて、補習は常連で、先生には申し訳ないと思いながら何度やっても上手くならない」
セレスは黙って聞いていた。
「でも、失敗した術式を読むのだけは、なぜかできる。それだけはどこにいても自然にできて、特に努力した記憶もない。役に立つかどうかも分からなくて、むしろ『変なところだけ器用』だって言われることの方が多い」
「そうね」
「それが昨日、役に立ちました。たぶん初めて、これが使えるかもしれないと思った」
短い沈黙があった。
セレスは羊皮紙の束を机の脇に置いた。
「あなたが落ちこぼれだと言われているのは知っている。学年の中で、そういう認識になっている」
「知ってます」
「腹が立たないの」
「立つこともあります。でも、まあ……わたしが失敗するのは本当のことだから、怒ってもしょうがないかなと思って」
「本当のことであれば何でも受け入れるの?」
「受け入れているというより、直せないことは一旦置いておくというか。で、できることだけ見るようにしてます」
セレスがわたしを見た。
「変な人ね」
「よく言われます」
「褒めていない」
「知ってます」
モコが机の上に飛び上がって、羊皮紙の束に鼻先を寄せた。ふんふんと匂いを嗅いで、一枚端を齧ろうとした。
「モコ、それは食べるものじゃない」
セレスが注意すると、モコは一瞬止まって、それからまた齧ろうとした。
「聞いてる?」
モコはセレスの方を見た。見た上で、もう一度端を齧った。
わたしは笑いをこらえた。こらえきれなかった。
セレスが立ち上がってモコを羊皮紙から引き離す間、わたしは口を押さえて笑った。セレスが戻ってきた時に「すみません」と言ったら、「何が可笑しいの」と返ってきた。声の温度は低かったけど、完全に冷たくはなかった。
夕暮れ時に、わたしたちは研究を再開した。
セレスが修正した陣を、わたしが読む。問題があれば伝える。セレスが直す。それを繰り返す。
単純な作業のはずなのに、やってみると面白かった。セレスの陣は精緻で、一箇所直すと別のところに影響が出る。それを探してまた伝えると、セレスがまた直す。パズルみたいで、時間が経つのを忘れた。
セレスはわたしの言ったことをすぐに理解した。説明が雑でも伝わったし、技術的な話ができた。これまで「失敗した術式を読む」ことを誰かに話したとき、「なにそれ」という顔をされることが多かったので、普通に話が通じることが少し嬉しかった。
作業の合間に、モコはずっと騒動を起こしていた。
棚の奥から見知らぬ羊皮紙を引っ張り出してきたり、机の上のインク瓶に近づいてセレスに怒られたり、わたしの膝に乗ったり降りたりした。
一度、棚の高い段から飛び降りようとして、少し失敗した。着地が横向きになって、くるんと転がった。
「大丈夫?」
わたしが尋ねると、モコは素知らぬ顔で毛を整え始めた。
「プライドが高い」
「魔法生物だから」
セレスが言った。
「二回目のそれ」
「事実だから」
またモコが棚の奥に向かって飛んでいく気配がした。
「モコ、そっちはだめ」
セレスが注意すると、モコは一瞬だけ止まった。それから方向を変えて、別の棚へ向かった。別の棚もだめだったかどうかは、しばらくしてから音で分かった。
「この子、本当にセレスさんの言うことを聞かないですね」
「聞いたことがない」
「懐いてないんですか?」
セレスは少し間を置いた。
「懐くとか懐かないとか、そういう生き物かどうか分からない」
その言い方が、少し不思議だった。懐いていないと断言しないのに、懐いているとも言わない。
棚の奥からまた音がした。モコが何かを引っ張り出してきた。今度は古い本の表紙だった。革の表紙が一枚だけ、本体から剥がれているもの。
「なんでそんなものばかり」
セレスが立ち上がって回収に行く間、わたしは窓の外を見た。西日がだいぶ低くなっていた。
戻ってきたセレスが、革表紙を机の端に置いた。それからモコを棚から下ろして、作業台の端に乗せた。
「ここにいなさい」
モコはぴょこ、と一度跳ねた。それから大人しく座った。珍しく聞いた、と思ったら、セレスが視線を外した瞬間にまた動き始めた。
「さっきより聞いてる」
「どこが」
「一瞬だけ止まった」
「…………」
セレスが溜め息をついた。本当に小さい、ほとんど聞こえないくらいの溜め息だった。でも聞こえた。
わたしはそれを聞いて、少し思った。
昨日会った時、セレスは怖かった。声が低くて、目が鋭くて、完璧に整えられた顔の奥に何も読めなくて。今日の廊下でも、命令形で話してくる様子は同じだった。
でも今、ここでは少し違う。
モコに振り回されていて、陣の修正に集中していて、わたしの変な読み方の話を黙って聞いていた。怒っているわけでも、余裕があるわけでもなく、ただここにいる、という感じがした。
完璧な優等生が無理をしている、というのとも少し違う。それも含めて、今のこの部屋の時間が、セレスにとって何か別のものになっている気がした。うまく言えないけど。
時計を見ると、もう夕方の六時近かった。
「今日はここまでにします」
「そうね」
二人で道具を片付けた。セレスが羊皮紙をまとめて、わたしが椅子を戻した。モコは作業台から棚の上に移動して、そこからわたしたちを見ていた。
帰り支度をしながら、わたしはふと机の隅に置かれた革表紙を見た。モコが引っ張り出してきたものだ。古い革に、押印が入っている。
「これも九条家の紋章ですか」
「いいえ」
セレスは少し間を置いて、こう伝える。
「学園の古い紋章。初代学園長時代のもの」
わたしはもう一度見た。確かに九条家の紋章とは違う形だった。でも、よく見ると、どこか似ている部分がある。
「初代の頃の資料って、今も残っているんですか」
「ここに残っているものだけ。表の図書室には置かれていない」
モコが棚の上から降りてきた。革表紙の上に乗って、匂いを嗅いでいる。
「モコ、それは食べるものじゃない」
モコはわたしを見てから、セレスを見た。それから革表紙の端を少し齧った。
「絶対に分かってやってる」
セレスは答えなかった。ただ、表情がほんの少しだけ、何かに似た形になった。笑っているわけではない。でも、さっきまでとは少し違う。
旧資料棟を出ると、外はもう夜だった。昼間とは別の場所みたいに、校舎がひっそりと立っていた。
わたしは振り返った。セレスはまだ中にいた。今日の作業で出た羊皮紙の切れ端を片付けているのかもしれない。モコも中にいるはずだった。
わたしは校舎に向かって歩き出した。
今日分かったこと、と頭の中で整理した。
セレスは九条家の召喚魔法が使えない。その理由を探して、一人でずっと研究していた。陣式の精度は高いのに、どこかで崩れる。今日わたしが見た範囲では、三箇所に問題があった。全部修正したけど、それで召喚が成立するかどうかはまだ分からない。
モコは失敗した術式の残滓を食べる。召喚に関係するものに反応する。セレスには懐いていないように見えるけど、なぜかそばにいる。
この二つが、どこかで繋がっている気がした。
繋がっているとしたら、どういうふうに繋がっているのか。
昨日の陣の痕跡から読んだ気配を、もう一度思った。呼ばれかけた何か。あの気配と、モコの存在が、全然違うものには見えなかった。
本棟の廊下に入ったところで、わたしは足を止めた。
モコがさっき棚の奥から引っ張り出してきた古い資料の束、あの中に一枚だけ焦げた羊皮紙があった。九条家の紋章が押されていた。
あれは何の記録だったんだろう。
明日聞いてみようと思った。聞いていいかどうか分からないけど。
廊下の窓から、夜の旧資料棟が見えた。石造りの古い建物に、窓からまだ明かりが漏れていた。




