第二章 優等生は口止め代わりに命令する
翌朝、わたしはできるだけ普通に過ごした。
普通に。というのが思ったより難しかった。
朝のホームルームが始まる前、席に着いて東雲リオと話しながら、わたしはちらちらと教室の入り口を気にしていた。セレスのクラスは隣の二年A組で、廊下ですれ違うことはある。今日すれ違ったとして、自分がどんな顔をすればいいのか、まだ決めかねていた。
「ルカ、聞いてる?」
リオに肩を叩かれた。
「聞いてる、聞いてる」
「どうせ聞いてない。補習どうだったって聞いてたんだけど」
「……あー」
補習。昨日の補習を、わたしはまるごと無断でさぼっていた。担当の教師から朝一番でお小言をもらうと思っていたのに、廊下でも職員室の前でも会わなかった。今日の午後にはさすがに呼ばれるだろう。
「逃げた?」
「逃げてない。迷子になった」
「この学園で迷子?」
リオが呆れたように笑った。
「五年目なのに?」
「旧校舎の方まで行ったら帰れなくなった」
これは半分本当だった。嘘をつくのが得意じゃないので、できるだけ本当のことを言う方向で誤魔化すことにしている。リオは「信じる」とも「信じない」とも言わず、「そのうち本格的にまずいことになるよ」と言った。心配しているのに口調が軽いのがリオらしかった。
一時間目の魔術理論が始まっても、わたしの頭は半分くらいよそにあった。
昨日見た崩れた陣のことを考えていた。
あれは召喚陣だった。六重構造の、かなり精緻な。普通科の教科書には載っていない形式で、図書室で一番厚い参考書を引いてもあそこまでの複合陣は見たことがない。それを一人で組んで、何度も試して、失敗を重ねていた。
九条セレスが。学年首席の、完璧な優等生が。誰もいない旧資料棟で、床に崩れた陣の残骸を前に、立ち尽くしていた。
失敗の痕跡から流れてきた気配を、わたしはまだ覚えていた。ぼんやりとした輪郭だけど、それは確かに何かだった。呼ばれかけた、遠い何か。遠い、というのは距離のことじゃないと思う。もっと別の種類の遠さで、うまく言葉にできない。
「こら、倉橋。先生の話聞いてるか」
「あっ、はい」
先生に名前を呼ばれて、わたしはあわてて黒板に顔を向けた。
昼休みが終わって五時間目が始まる少し前、廊下に出たわたしは声をかけられた。
「倉橋さん」
振り向くと、そこにセレスがいた。制服の着こなしが完璧だった。髪も乱れていない。廊下を歩く姿勢が、周囲の生徒と少し違う。視線を向けてくる生徒が何人かいるのに、セレスは気にした様子もなかった。
「少しいい?」
話しかけられた生徒が何人か目をまるくしているのが、視界の端に見えた。無理もないと思う。セレスが落ちこぼれのわたしに話しかけている、という構図は、どこから見ても自然には見えない。
「はい」
「こっちに来て」
セレスは短くそれだけ言って、廊下の奥、普段あまり人が通らない渡り廊下の方へ歩いた。わたしはその後ろをついていった。
渡り廊下の突き当たりは窓になっていて、中庭の木が見えた。ちょうど午後の日差しで葉が光っている。時間がなければ少し好きな場所だと思ったかもしれない。
セレスは立ち止まって、こちらを向いた。
「昨日のことは話した?」
「誰にも言っていません」
「そう」
短い沈黙があった。廊下の向こうから、五時間目の始まりを告げる予鈴が聞こえた。
「言わないと約束したから言わない、ということでいい?」
「そうです」
「分かった」
セレスはそれから少し間を置いて、
「旧資料棟には、これ以上近づかないようにしなさい」と続けた。
口調は命令形だったけど、強引というよりは、確認を取っているような言い方だった。
「はい」
わたしは言いかけて、止まった。
昨日の陣の最後の接続が、頭の中に浮かんでいた。
六重陣の、最外周と内周の繋ぎ目。そこが逆だった。逆、というのは正確じゃないかもしれない。位相が反転していた、と言う方が近い。あれは計算ミスとか注意不足とかじゃなくて、元になっている術式の参照先が古い形式のものなんじゃないか、と昨日からずっと引っかかっていた。
「……あの」
口に出してから、少し後悔した。
「なに」
「昨日の陣なんですけど、最後の接続が逆でした」
セレスの目が細くなった。
「逆?」
「正確には逆というか、位相の向きが内向きになっていて、だから最外周との接続で反発が起きた気がして。参照している術式が、もしかして学院図書室に入っていない古いものですか? そっちの方だと位相の定義が今と違うことがあるので」
しゃべってから、ようやく気がついた。
セレスがわたしをじっと見ていた。さっきまでと少し違う目だった。「口止め」という用件だけで来たはずなのに、その前提がどこかにいってしまったような顔。
「どこで学んだの?」
「学んでないんですけど」
「失敗陣の読み方を」
「ああ」
わたしは少し考えた。
「なんか気配で分かるんですよね。うまく言えないんですけど、失敗した術式から何をしようとしたかが流れてくる気がする。昨日の陣からも、召喚しようとしていたのが分かって、それで接続の形を逆に辿ったら」
「逆に辿ったら」
「位相がそこだけ反転してるのが見えました。他は全部正確だったのに、最後のそこだけ古い形式のまま書いてあって、だから崩れたんだと思います」
セレスはしばらく黙っていた。
わたしは少しだけ後悔した。言わなくてもよかったかもしれない。昨日の秘密に自分から踏み込んでしまった。
でも、セレスが長い時間をかけて組んだ陣が、たった一箇所の参照ミスで崩れているのを知ったまま黙っているのは、なんとなくできなかった。
「確認するけど、あなた、昨日の陣の細部を覚えているの?」
「だいたいは」
「だいたいで、術式の参照形式の違いが分かるの」
「陣というより、痕跡から読んでいる感じなので、正確かどうかは分からないんですけど」
また沈黙があった。今度は少し長かった。
セレスが窓の外に視線を向けた。中庭の木が午後の風に揺れている。彼女の横顔は、何かを計算しているのか、それとも決めようとしているのか、よく読めなかった。
「倉橋ルカ。二年B組だったわね」
「……知ってるんですか」
「名前くらいは。あなたは、良くも悪くも目立つから」
「悪い方ですよね」
「否定はしない」
「ですよね」
「実技の評価は」
「下から数えた方が早いです」
正直に言ったら、セレスが少し目を細めた。嘲笑ではない。何かを確認したような、そういう顔だった。
「不思議ね。陣式は読めるのに飛べないの?」
「箒とわたしの相性が悪いみたいで」
「魔法全般が苦手なの?」
「発動まではできるんですけど、安定が続かないんですよね。制御がすぐ崩れるんです。だから派手に暴発することが多くて」
「それは」
セレスは言いかけて、止まった。
何かを言おうとして、やめたのだと思う。
リンゴーン♪
本鈴が鳴った。五時間目が始まる。
セレスは姿勢を直した。廊下を向く角度になると、また「氷の優等生」の顔になった。さっきまでとは少し違う、完璧に整えられた表情。
「放課後、旧資料棟に来なさい」
怒られているはずなのに、秘密の続きを知れることに、胸の奥が少しだけ動いた。
わたしは思わず聞き返した。
「え、でも、さっき近づくなって」
「言い直した」
セレスはきっぱり言った。
「今日の放課後。他言無用で。補習があるなら先に済ませてきなさい」
「……はい」
「遅れないで」
それだけ言って、セレスは廊下を歩いていった。足音が静かだった。後ろ姿が角を曲がるまで、わたしはその場に立ったままだった。
補習は結局、担当教師が今日は時間が取れないからと明日に繰り越しになった。わたしにしては珍しい幸運だった。
放課後、わたしは旧資料棟の前に立った。
昨日と同じ扉。同じ「立入禁止」の紙。ただ今日は昨日より少し緊張していた。
中に入ると、廊下の奥の扉が少しだけ開いていた。
部屋に入ると、セレスは机の前の椅子に座っていた。昨日と違うのは、崩れた陣が片付けられていること。代わりに机の上には大きな羊皮紙が広げられていて、細い線で構造図が書かれていた。
モコは棚の上にいた。わたしが入ってきた瞬間に耳をパタパタさせて、すぐに飛び降りてきた。昨日みたいに胸元に飛び込んでくる前にわたしが手を出すと、そこにちょこんと乗った。ずいぶん素直だった。
「昨日会ったばかりなのに」
「餌になるものを持っているから寄ってくるだけよ」
セレスの口調は冷たかったが、モコを見る目は少しだけ複雑な色をしていた。
わたしはモコを抱えたまま、机の前に立った。
「座りなさい」
椅子を引いて向かいに座ると、セレスは羊皮紙の端をわたしの方へ向けた。昨日崩れた陣の再構成図だった。
「あなたが言った接続の問題、ここでいい?」
わたしは陣を見た。最外周と内周の繋ぎ目に、赤い印がついている。
「そこです」
「なぜ位相が反転する」
「参照している召喚式が古いものだと、この接続点の定義が今の標準と逆なんです。今は外から内へ向かう流れを正位相と定義していますけど、古い形式だと内から外への流れを正位相と取る書き方があって。陣を組む時に二つを混在させると、ここで反発が起きます」
セレスの目が真剣だった。
「どこで学んだのと聞いたけど、本当に独学なの?」
「授業では習いません。自分で変な癖がついた感じです」
「変な癖」
「失敗した術式を見るのが好きで、それを読んでいるうちに色々覚えてしまいました」
「好き?」
「なんか、気配があるんですよね。失敗した痕跡に。何をしようとしたかが流れてきて、それがどこでどうずれたのかを辿るのが、パズルみたいで楽しくて」
セレスは少し間を置いた。
「普通は、失敗した跡を好き好んで見る人はいないわ」
「そうですね」
「あなたの成績が悪いのはなぜか分かったような気がする」
「なぜですか」
「発動した魔法を制御することより、崩れていく途中の方が面白いんでしょう」
正確に言い当てられた気がして、わたしは少しだけ黙った。
モコがわたしの腕の中で伸びをした。
「少し話す」
セレスはそう伝えると、机の上の羊皮紙を端へ寄せて、両手を組んだ。
「私には使えない魔法がある」
淡々とした口調だった。授業の説明をするみたいな声だったけど、その中にずっと力が入っているのが分かった。
「九条家の家名を継ぐ者が代々修める召喚魔法。私以外の九条の人間は全員使えたものが、私だけ使えない。これは九条の家にとっても、この学園にとっても、致命的な欠陥に映る」
「……はい」
「家にも学園にも隠している。誰にも知られていない。旧資料棟で一人で研究しているのも、そのため」
わたしは黙って聞いていた。
「あなたが昨日入ってきて、陣の接続の問題を指摘した。私は今まで何十回と陣を組んで、どこが問題か分からないまま崩れ続けてきた。参照式の位相反転の問題を誰かに指摘されたのは、初めて」
「…………」
「だから、条件を変える」
セレスがわたしを見た。
「昨日の約束、他言無用は変わらない。旧資料棟への立入禁止も取り消す。放課後、私の研究の補助をしなさい。あなたの特技が役に立つなら、使わせてもらう」
命令形だった。お願いでも、提案でもなく。
でもその声の奥に、少しだけ別のものがある気がした。誰かに頼んだことがあまりない人の、慣れていない声。
「期間は?」
「決めていない。研究が進むまで」
「内容は?」
「失敗した陣から問題を読んで、私に伝える。それだけでいい。直す作業は私がやる」
「わたしの都合が悪い日は?」
「事前に言いなさい。ただし補習を理由には認めない」
「先生にバレたら?」
「バレないようにするのもあなたの仕事」
わたしはモコを見た。モコはわたしの顔を見た。目が合った。
断る理由は、あるといえばいくらでもあった。補習はまだ残っているし、旧資料棟への無断立入は本来よくないし、九条セレスの秘密を知ることがどういう意味を持つか、まだよく分かっていない。
でも。
昨日読んだ気配のことを、もう一度思った。
あの陣の奥に、確かに何かがいた。呼ばれかけた、遠い何か。それが何だったのかが、少しだけ気になっていた。
「分かりました」
わたしがそう言うと、セレスは頷いた。表情は変わらなかったけど、肩の力がほんの少し抜けた気がした。
モコが棚の方へ飛んでいって、古い羊皮紙の束の上に乗った。ぴょこぴょこと跳ねている。
セレスが立ち上がって、部屋の奥の扉まで歩いた。
振り返りもせず、彼女は言った。
「今日からあなたは、私の失敗を見なかったことにする代わりに、最後まで付き合いなさい」
「はい」
わたしの返事が予想より早かったのか、セレスがほんの一瞬だけ足を止めて、また歩き出した。
旧資料棟の秘密の放課後が、この日から始まった。




