第十九章 優等生は自分の魔法を取り戻す
学園祭二日目。つまり、公開試験当日、空が晴れていた。
お昼どきにわたしはリオと食堂で食事をした。
「本当に、見に行くの?」
リオは確認するように問いかけた。
「うん」
「あたしも行っていいですか」
少し意外だった。
「もちろん」
「なんか、ルカが見に行くって言った時から、行った方がいい気がして。うまく言えないけど」
「来てください。観覧席、広いはずだから」
「了解」
リオが頷いた。
食事をしながら、わたしは今日のことを頭の中で確認した。
試験は午後二時から。名家継承者が四人。順番は成績順で、セレスが最後。観覧席から陣を読む。崩れそうな気配があれば、何か方法を考える。
崩れない、という前提で話した。でも、万が一のことを考えていないわけではなかった。
五十秒届いた陣が、今日は成立まで届くかどうか。
向こうが応えていた。毎回、確かに応えていた。
それだけを信じることにした。
わたしは上手くできる魔法を知らない。でも、届きかけて届かなかったものの気配だけは、見失ったことがない。
試験会場は、学園の中で一番大きな実技棟の中央ホールだった。
普段は全校集会などに使われる場所で、中央に広い術式展開エリアがあり、その周囲を観覧席が囲む形になっていた。二時前に着くと、観覧席はすでに半分ほど埋まっていた。
教師が何人かいた。生徒も来ていた。九条家の使者の水嶋さんが、来賓席の方にいるのが見えた。その隣に、知らない顔の大人が数人いた。他の名家の関係者かもしれなかった。
エリスもいた。生徒会の席に座って、手元に記録用の羊皮紙を持っていた。
わたしとリオは観覧席の中段に座った。術式展開エリアが正面に見える場所だった。
「緊張する」
「わたしもです」
「ルカが緊張するの珍しい」
「珍しくないですよ」
「いつも、なんとなく落ち着いてるじゃない」
「今日は落ち着いていない」
リオがわたしの顔を見た。
「大丈夫?」
「大丈夫じゃないかもしれないけど、大丈夫です」
「訳が分からない返事だけど、まあ、ルカがそう言うなら」
二時になって、試験が始まった。
最初の一人が術式展開エリアの中央に立った。別の名家の継承者で、炎系の継承魔法を持つ家の出身だった。詠唱が始まって、術式が展開された。
わたしは観覧席から気配を辿った。
整った術式だった。力強くて、安定していた。完成した形で展開されて、継承魔法が成立した。会場から拍手が起きた。
二人目、三人目と続いた。どちらも同じように、きれいに成立した。
名家の継承者たちは、みんな自分の継承魔法を使えた。
それは当然のことのはずだった。でも今のわたしには、当然のことに見えなかった。
成立する、ということがどれほど遠いところにあるかを、この数ヶ月で知っていた。
三人目が終わって、短い間があった。
四人目が中央に進んだ。
九条セレスだった。
会場の空気が少し変わった。分かる人には分かる、という種類の変化だった。名家継承者の中で最も注目されている人物が、最後に出てきた。
白い制服に、九条家の紋章の入った礼服を重ねていた。銀に近い黒髪が、照明の下で少し光った。姿勢が完璧で、足音が静かで、中央に立った時の立ち姿が、他の三人と少し違って見えた。
違って見えた理由が何か、わたしには分かった。
他の三人は自分の継承魔法を使える。セレスは今日、誰も見たことのない形式でやろうとしている。その違いが、立ち方に出ていた。
覚悟の立ち方だった。
セレスが羊皮紙を展開した。
会場がざわめいた。
陣を見た人間が気づいたのだと思う。今の九条家の継承形式と、陣の構造が違う。今まで継承者が使ってきた陣の形と、全く別の形が広げられた。
来賓席の方が動いた。水嶋さん以外の大人が、何かを言おうとしていた。
水嶋さんが手で制した。
会場が静かになった。
セレスが詠唱を始めた。
古い術文だった。今の標準語とは少し違う、古い発音で書かれた術文。旧資料棟で何度も確認してきた、感応型の召喚の詠唱。
一層目が起動した。
わたしは気配を辿り始めた。
観覧席から、少し距離があった。でも読めた。今日の陣は今まで試みてきた中で一番完成に近い形だった。昨日の夜、最終調整をした時に確認した気配と同じだった。
二層目が起動した。流れが続いていた。
三層目。
会場が完全に静かになっていた。音がなかった。
わたしの隣でリオが息を詰めているのが分かった。
四層目。
ここで今まで何度か揺れた。今日は揺れなかった。流れが滑らかに続いていた。
五層目。
わたしは気配を読みながら、心の中で言った。
大丈夫。届いている。
六層目に入った。
接続が始まった。今日の中心は開いていた。昨日の夜に確認した時と同じように、受け取る準備ができていた。
流れが届いた。
光が現れた。
今まで見てきた光と、同じものだった。でも今日は違った。形がはっきりしていた。今まで輪郭がぼんやりしていたのが、今日は明確な形の気配があった。
会場が、また少しざわめいた。光が見えているのだと思う。
詠唱が続いた。
光が大きくなった。形が整い始めた。
三十秒が過ぎた。
わたしは息を止めて読み続けた。
四十秒。陣が揺れた。でも崩れなかった。
五十秒。先週と同じ時間に差し掛かった。
ここで先週は崩れた。
今日は崩れなかった。
六十秒。
光の形が、さらにはっきりしてきた。輪郭が定まり始めた。
わたしは気配を読みながら、陣の状態を確認した。
第五層と第六層の接続部分に、わずかな揺れがあった。
揺れていた。でも崩れていなかった。
詠唱の声が、少し変わった。
セレスの声が、術文の意味を追いかけるのではなく、その言葉の向こうにあるものに向かっていた。形式を守る詠唱から、何かに届けようとする詠唱に変わった。
その変化が、気配に出た。
光が揺れた。
揺れながら、広がった。
今まで見てきたものと、違う広がり方だった。外周に向かって広がるのではなく、中心から外へ向かって螺旋を描くように広がった。
古い形式の陣の構造通りだった。
七十秒。
光の中に、形が現れた。
はっきりとした形だった。
輪郭があった。存在の気配があった。向こうが、完全に応えていた。
わたしは観覧席で、声を出さなかった。でも心の中で分かった。
届いた。
第五層と第六層の接続の揺れが大きくなった。
わたしは立ち上がりかけた。
でも、止まった。
揺れているのに、崩れていなかった。
セレスの詠唱が変わった。揺れている接続部分に向けて、詠唱の方向が変わった。補強するのではなく、揺れを受け入れながら続けるような変え方だった。
それはわたしが教えたことではなかった。
セレスが自分で判断した。
揺れが収まった。
光が安定した。
八十秒。
形が完全になった。
会場が静まり返っていた。
光の中に、九条家の召喚対象が現れた。今まで九条家が継承してきた形式で召喚されたものとは、見た目が少し違うかもしれなかった。でも、召喚が成立したことは、術式の知識がある人間には分かるはずだった。
本物だった。
わたしの目には、本物だとはっきり分かった。
形の中に、モコの気配に似たものがあった。
正確には、モコとして留まっていたものが、今この瞬間に、本来の形の中に戻っていく感覚があった。
消えているわけではなかった。
形が変わっていた。
水嶋さんの言った通りだった。消滅ではなく、完成だった。
モコが本来の形を取り戻していた。
セレスが詠唱を終えた。
光が少し収まった。
でも消えなかった。
召喚が、成立したままだった。
会場がもう一度静まり返って、それから誰かが息を吸う音がして、それから拍手が起きた。
一人分の拍手が最初に聞こえた。
エリスだった。
来賓席ではなく、生徒会の席から立ち上がって、エリスが拍手していた。微笑んでいた。今まで見てきたどの微笑みとも少し違う、何かを認めた顔をしていた。
それに続いて、会場全体の拍手になった。
リオがわたしの腕をつかんだ。
「ルカ」
「うん」
「成立した?」
「した」
「本当に?」
「本当に」
リオがわたしの顔を見た。
「ルカ、泣いてる」
「泣いてないです」
「泣いてる」
目が熱かった。拭うと、濡れていた。
「少し」
「少しどころじゃない」
「失礼な」
「泣いていいじゃない。ルカが泣くくらいのことがあったんでしょ、ここまで」
わたしは会場の中央を見た。
セレスが立っていた。
姿勢は変わらなかった。完璧に整っていた。でも、今日の立ち方は今まで見てきた中で一番違って見えた。
自分の魔法で、自分の形で、ちゃんと立っていた。
誰かの定めた完璧さではなく、自分自身として立っていた。
水嶋さんが立ち上がった。
来賓席から、ゆっくりと術式展開エリアに向かって歩いてきた。
セレスの前に立って、少し間を置いた。
「成立を確認した」
水嶋さんは言った。会場に聞こえる声だった。
「形式は九条家の現行形式と異なるが、召喚としての成立は本物だ。九条家への報告は、私がする」
セレスが頷いた。
「祖父が届かなかった場所まで、届いた」
水嶋さんは言った。今度は小さな声だった。会場には届かなかったかもしれない。でもわたしには、気配で分かった。
セレスが水嶋さんに向かって、深く頭を下げた。
会場の拍手がまた大きくなった。
わたしは観覧席に座ったまま、術式展開エリアのセレスを見ていた。
モコはもうそこにはいなかった。
でも、セレスの周囲の気配の中に、温かいものがあった。
なくなっていなかった。形が変わっただけで、そこにあった。
リオがわたしの隣で「すごかった」と言った。
「そうですね」
「何かすごいことが起きたのは分かるけど、何がすごかったか全部は分からない」
「全部説明できないですが、すごかったことは確かです」
リオが笑った。
「ルカ、今日のこと、いつか話してくれる?」
「話せる時が来たら」
「待ってる」
わたしは会場の中央を見た。
セレスが、教師たちに囲まれていた。水嶋さんも近くにいた。来賓の大人たちも何人か、セレスの方へ向かっていた。
エリスが、その少し離れたところに立っていた。
セレスを見ていた。
表情が今日は少し違った。悔しさと、認めた気持ちが両方ある、複雑な顔だった。でも拍手したのはエリスが最初だった。
それが、エリスという人のことを表していると思った。
わたしは立ち上がった。
「どこ行くの」
リオが訊いた。
「少し、あとで合流しますから、先に教室に戻っていてください」
「うん、気をつけてね」
わたしは観覧席を出た。
術式展開エリアの方へ向かった。
人が多くて、セレスのすぐ近くには行けなかった。教師と来賓に囲まれていた。
それでいいと思った。
今すぐ話す必要はなかった。
ただ、見ていたかった。
人の輪の中で、セレスが質問に答えていた。
完璧な優等生の顔をしていた。
でも今日の完璧さは、今まで見てきたものと少し違った。誰かの求める完璧さではなく、自分で選んだ形での完璧さだった。
セレスが視線を動かした。
人の輪の向こうにいるわたしを見つけた。
わたしは何もしなかった。ただそこに立っていた。
セレスの表情が、ほんの少しだけ動いた。
笑ったわけではなかった。でも、何かが緩んだ。
わたしは頷いた。
セレスも、ほんの少し頷いた。
それだけだった。
でも、それで十分だった。
廊下に出ると、夕方の光が窓から差していた。
旧資料棟の方向を見た。
いつもの古い石造りの建物が、今日の光の中にひっそりとあった。
モコはもうあそこにはいないかもしれない。でも、あそこで過ごした時間はなくならない。
いなくなったのではなく、やっと本来の場所へ届いたのだと、今は思えた。
あの部屋で、セレスの陣を読んだ日々。失敗の痕跡から、向こうが応えている気配を辿った日々。モコが棚の奥から変なものを引っ張り出してくる騒動。
全部が、今日のこの瞬間に繋がっていた。
廊下を歩きながら、わたしは思った。
落ちこぼれ魔女のわたしの力が、誰かの大事なものを守れた。
それが今日、本当になった。




