第十七章 祭りの前、試験の前
学園祭の準備が本格的に始まると、校内の空気は少しだけ浮つく。
廊下の隅には色紙と木材の束が置かれ、教室の前を通るたびに、絵の具や糊の匂いがした。中庭には仮設の舞台が組まれ始めていて、昼休みになると、実行委員らしい生徒たちが走り回っている。笑い声も多い。忙しそうな顔をしているのに、みんな少し楽しそうだった。
けれど今年は、それだけじゃなかった。
学園祭の二日目に行われる公開試験のことを、誰もがどこかで気にしていた。
継承魔法の公開実演。名家の生徒が選ばれ、外部の視察も入る特別な試験。普段なら上級生中心の話題で終わるはずなのに、今年は九条セレスが出ると決まってから、妙に校内がざわついている。
「ねえ、聞いた?」と、廊下の向こうで誰かが言う。
「九条家、今年は本家筋の人が来るらしいよ」
「視察だけじゃなくて?」
「うん。なんか、かなり厳しい人らしい」
聞くつもりがなくても、そういう話は勝手に耳に入ってくる。
わたしは教室の窓際の席で、配布された装飾案のプリントをぼんやり見ていた。クラスは喫茶店をやるらしい。看板係だとか飾りつけ班だとか、そういう文字が並んでいるのに、頭の中では別のことばかり考えていた。
旧資料棟。モコ。古い召喚記録。
それから、公開試験の当日にセレスが立つ場所のこと。
「ルカ」
名前を呼ばれて顔を上げると、リオが机の横に立っていた。紙コップのジュースを片手に持っている。
「さっきから三回くらい呼んでる」
「ごめん」
「考えごと?」
「ちょっとだけ」
「ちょっとだけの顔じゃないんだけど」
リオは勝手に前の席の椅子を引いて、そこに逆向きに座った。背もたれに腕をのせて、じっとこちらを見る。こういうときのリオは、妙に勘がいい。
「最近さ、ルカ、ずっと何か隠してるよね」
「隠してるっていうか……」
「ほら、それ。今の間」
誤魔化すつもりだったのに、間の悪さだけでだいたい伝わってしまったらしい。わたしはプリントを机に伏せた。
「危ないことしてない?」
「してない」
「ほんとに?」
「たぶん」
「たぶんって言う時点で怪しいんだけど」
リオはため息まじりに笑った。でもすぐ、少しだけ真面目な顔になる。
「ルカが変なことに首突っ込むの、今に始まったことじゃないけどさ」
「うん」
「今回は、なんか前と違う」
窓の外で、実行委員の生徒が大きな布を運んでいるのが見えた。白い布が風をはらんで揺れていた。
「前は、困ってるものを放っておけないって感じだった。道に落ちてるものを拾うみたいな」
「ひどい言い方」
「でも今は、それよりもう少し……大事なもの抱えてる顔してる」
わたしは返事をしなかった。できなかった、の方が近い。
リオはしばらく黙っていたけれど、やがて「まあ」と小さく言った。
「言えないなら言わなくていいよ」
「ごめん」
「その代わり、無理だけはしないで。ルカ、変なところで頑張りすぎるから」
「そんなことないよ」
「ある。すごくある」
言い切られてしまって、わたしは少しだけ笑った。
リオもつられて笑う。そのあとで、何でもない声を装うみたいに続けた。
「でもさ、最近のルカ、前よりちょっといい顔してる」
「いい顔?」
「うん。落ち込んでる時もあるけど、前みたいに“何にもできない”って顔じゃない」
「……そうかな」
「そう。だからたぶん、今のそれ、悪いことだけじゃないんだと思う」
教室の後ろで、係決めの声が上がった。誰かがリオの名前を呼んでいる。
リオは立ち上がって、椅子を戻しながら、わたしの肩を軽く叩いた。
「終わったら教えて」
「なにを?」
「その、今ルカが大事にしてるものが、ちゃんと大事にしてよかったかどうか」
そう言って、彼女は教室の後ろへ走っていった。
わたしはしばらく、その背中を見ていた。
ちゃんと大事にしてよかったかどうか。
その言葉が、思ったより深く残った。
放課後、校舎の中はいつもより遅くまで賑やかだった。
教室からは金槌の音や笑い声が聞こえるし、廊下には模造紙を抱えた生徒が行き交う。階段の踊り場で出し物の練習をしているクラスもあって、いつもの学園が少しだけ別の場所みたいに見えた。
その中を抜けて旧資料棟へ向かうと、急に音が遠くなる。
渡り廊下を渡った先は、空気の温度まで少し違う。石造りの壁、古い紙の匂い、窓から差す西日の色。扉を開けるたび、わたしは少しだけ息を整えるようになっていた。
部屋に入ると、セレスはもういた。
机の上には何枚もの羊皮紙が並び、黒板代わりの壁にはいつもより細かい式が増えている。公開試験が近づくにつれて、ここに積み重なるものも増えていた。
モコは棚の上から飛んできて、わたしの肩に着地した。最初に会った日と同じように、ふわふわの毛が頬に当たる。
「重い」
わたしが言うと、モコは気にした様子もなく耳を揺らした。
「その子、今日は機嫌がいいわ」
セレスが紙から目を上げずに言った。
「わたしが来たからですかね」
「ただ甘い匂いがするからかもしれない」
「言い方」
でも、そういうやりとりが自然に出るくらいには、わたしたちはここでの時間に慣れていた。
机の前に座ると、セレスが一枚の羊皮紙を差し出してきた。
「最終調整に入る」
「最終」
「ええ。公開試験で使う陣の、ほぼ最後の形」
受け取って見た瞬間、わたしは少し息を呑んだ。
以前のものより線が少ない。けれど単純になったわけじゃない。余計なものが削ぎ落とされて、必要な流れだけが残っている感じがした。古い記録にあった中心から外へ向かう構造が、今の形式の中に無理なく組み直されている。
「……きれい」
思わずそう言うと、セレスの手が一瞬止まった。
「評価として曖昧ね」
「でも本当に。前の陣より、ずっと自然です」
「自然」
「うまく言えないですけど、無理をしてない感じがする」
セレスはそれにすぐ返事をしなかった。代わりに、わたしの指先が止まっている箇所を見て、「そこは?」と聞く。
「第三層から中心部に入る流れが少し細いです。試験本番で緊張したら、ここで切れるかもしれない」
「太くすると外周が崩れる」
「じゃあ、外周じゃなくて第二層の干渉率を少しだけ落として」
「それだと保護が弱くなる」
「でも、今必要なのは閉じる強さより、届く方じゃないですか」
自分で言ってから、少しだけ黙る。
届く方。
その言葉を、セレスもそのまま受け取ったみたいだった。
「……そうね」
彼女は小さく答えて、ペンを取った。
それからしばらく、いつものように作業が続いた。
わたしが読む。セレスが直す。モコがたまに邪魔をする。
棚の上の方から紙を引っ張ろうとして、セレスに名前を呼ばれて止まる。止まったと思ったら、今度はわたしの膝に飛び乗って丸くなる。起きているのか寝ているのか分からない顔で、こちらを見ていた。
その時間が、今日は少しだけ静かだった。
校舎の方からかすかに笑い声や物音が流れてくるたび、学園祭前なんだなと思う。けれどこの部屋だけは、それと別の時間の中にあるみたいだった。
「クラスの準備はいいの」
ふいにセレスが聞いた。
「飾りつけ班に入れられました」
「入れられた」
「自分から入ったわけじゃないので」
「逃げたの?」
「否定はしません」
セレスが少しだけ口元を緩めた気がした。ほんの一瞬だったけれど、見間違いじゃないと思う。
「セレスさんは?」
「生徒会の手伝いで色々」
「忙しそうです」
「忙しいわ」
「それで毎日ここにも来てるんですから、すごいです」
「そうしないと間に合わないもの」
言い方はいつも通り淡々としていた。でもその声の奥に、少しだけ硬さがあるのが分かった。
わたしは羊皮紙から顔を上げる。
「緊張してますか」
「していない、と言ったら嘘になる」
セレスはペン先を整えながら答えた。
「でも、今さら怖がっても仕方ないでしょう」
「怖いんですね」
「倉橋」
「すみません」
「……怖いわよ」
あまりに素直な答えだったので、逆に何も言えなくなった。
セレスは窓の方を見た。西日が彼女の横顔に薄くかかっている。
「失敗したらどうなるか、考えないわけじゃない」
「はい」
「家も、学園も、たぶん簡単には見過ごさない。今まで隠してきたものが全部表に出るかもしれない」
「はい」
「それでもやると決めたのは私だけど」
そこで言葉が切れた。
わたしはしばらく黙っていた。下手な慰めは、たぶんこの人には似合わないと思ったからだ。
代わりに、机の上の陣を指で示した。
「でも、ここまで来たのはセレスさんひとりじゃないです」
「……ええ」
「わたしもいます。モコもいます」
名前を呼ばれたみたいに、モコが耳をぴくりと動かした。
「だから、失敗するなら三人で失敗です」
「それ、励ましているつもり?」
「半分くらいは」
「残り半分は?」
「本音です」
セレスが、今度ははっきりとこちらを見た。
その目の中に、最初の頃の冷たさはもうなかった。代わりにあるのは、簡単には言葉にならないものだ。信頼、と言い切るには少し早い。でも、少なくとも他人を見る目ではない。
「あなた、本当に変わらないわね」
「変わってますよ。前よりちょっとだけ、ここに来るのが上手くなりました」
「そういう意味じゃない」
「分かってます」
少しだけ沈黙が落ちた。でも苦しくない沈黙だった。
窓の外では、夕方の空が少しずつ色を変えている。
「公開試験が終わったら」
わたしは、なんとなく言った。
「少し休みませんか」
「休む?」
「ここで。何もしないで」
「何もしないで、旧資料棟に来るの?」
「だめですか」
「変な提案」
「でも、たぶん今まで、ずっと何かをしにここへ来てたでしょう」
セレスは返事をしなかった。
わたしは続ける。
「だから、終わったあとに一回くらい、何もしないで来るのもいいかなって」
「何もしないで、なにをするの」
「お茶でも飲みます」
「ここで?」
「持ってきます。甘いのがいいです」
「モコが寄ってくるわ」
「じゃあ三人分必要ですね」
しばらくして、セレスが小さく息を吐いた。
「……いいかもしれない」
「ほんとですか」
「まだ終わっていないのに、その話をするのは気が早いけれど」
「でも、終わったあとを考えられるのは、いいことです」
「そういうもの?」
「たぶん」
セレスはわたしを見たあと、ほんの少しだけ目を伏せた。
「終わったら」
彼女は穏やかな声で言った。
「その時は、そうしましょう」
わたしはうなずいた。
その約束がどれくらいの重さを持つのか、うまく説明できない。
でも、その瞬間、この部屋の空気が少しだけ変わった気がした。
最終調整が終わる頃には、窓の外はもう薄暗くなっていた。
セレスがペンを置く。わたしも読み返していた羊皮紙から目を離した。モコは途中からわたしの膝の上ですっかり眠っていて、丸い背中がゆっくり上下している。
「これでいく」
セレスが言った。
「はい」
「もう直さない」
「はい」
「本番で崩れるなら、それが今の私の限界ということになる」
「崩れません」
わたしは即答した。
セレスが少し驚いたようにこちらを見る。
「言い切るのね」
「言い切ります。ここまで読んできたので」
「責任重大よ」
「セレスさんもです」
「そうね」
部屋を片づけて、わたしたちは一緒に廊下へ出た。
旧資料棟の中は静かだったけれど、渡り廊下の向こうからは、まだ学園祭準備の音が遠く聞こえる。祭りの前のざわめきと、試験の前の緊張が、同じ夕方の中で混ざっているようだった。
扉の前で、セレスが立ち止まる。
「倉橋さん」
「はい」
「……ありがとう」
その一言は、思っていたよりずっとまっすぐだった。
わたしは少しだけ目を丸くして、それから笑った。
「どういたしまして」
「そこで笑うの」
「だって、セレスさんがちゃんとお礼を言うの珍しいので」
「失礼ね」
「知ってます」
モコがわたしの腕の中で目を覚まして、小さく鳴いた。
セレスはその声を聞いて、ほんの少しだけ柔らかい顔になった。
「公開試験の日、遅れないで」
「はい」
「それから」
「はい」
「……終わったら、甘いものを持ってきなさい」
「三人分ですね」
「ええ」
その返事が少しだけ嬉しそうに聞こえたのは、たぶんわたしの思い込みじゃなかった。
渡り廊下の窓の外では、学園祭の飾りの布が夜風に揺れていた。
祭りの前の日みたいな浮ついた空気の中で、それでも公開試験の日は、きっと大事な一日になる。
わたしはモコを抱え直して、セレスと並んで歩き出した。




