第十六章 モコの正体
翌日から、研究の方向が変わった。陣の修正を続けながら、並行して記録庫の資料を読み直した。今まで個別に読んできた資料を、全部並べて繋ぎ合わせようとしていた。
感応型の召喚記録。九条家の古い研究日誌。学園の公式記録。定型型への移行の経緯。そしてモコの存在。
これら全部が、一本の線で繋がっているはずだった。
『召喚の歪みについての記録』をもう一度広げた。
歪みとして現れた存在は、術者の感情や願いを媒介にして不完全な形をとり、術者の近くに留まる傾向がある。歪みは、術式が完成した際に本来の形に戻ることがある。
「ここを起点に考えます」
わたしは伝えた。
「歪みの定義から」
「モコが歪みだとしたら、いつ現れたかが問題です。セレスさんが入学してから研究を始めた記録には、最初の頃から応答があったと書いてありました。でも」
「でも?」
「モコが旧資料棟に住み着いたのがいつかは分からない。灰崎先生に聞けば分かるかもしれないけれど」
「聞かなくても、私には分かる」
わたしはセレスを見た。
「入学して最初の夏休みの前、放課後に一人でここに来て、初めて陣を組んだ時。その時から、モコはここにいた」
「最初から」
「最初から、棚の奥にいた。あの時は何も考えずに、旧資料棟に住み着いている魔法生物だと思っていた」
「でも今は違う」
「違う」
わたしはモコを見た。
モコは棚の上にいて、こちらを見ていた。黒いビー玉みたいな目が、今日もきらきらしていた。
「セレスさんが最初に陣を組んだ時、何か強く思っていたことがありましたか?」
セレスが少し間を置いた。
「入学してすぐ、九条家から手紙が来た。継承者として召喚魔法を修めること。それが家への義務。と、書かれていた」
できなかったことより、できないまま見られる未来の方が、ずっと怖かったのだと思う。
「だから、早く証明しなければと思った。使えることを、ちゃんと形にしなければと思った。その手紙を読んだ日の夜、ここに来た」
「その手紙を読んだ時に、何を感じましたか?」
「怖かった。今まで感じたことのない種類の怖さだった。でも、それと同じくらい、どうしても成功させたいと思っていた。恐れと、切実な願いが、同時にあった」
「感応型の召喚は、術者の感情状態と強く連動する。特に、切実さが高い時に応答が得られやすい。それが先応答に繋がる」
「最初の陣を組んだ時、先応答があった気がした。でも陣はすぐ崩れた。形にはならなかった。それで終わりだと思っていた」
「終わりじゃなかった」
「モコがいた」
わたしは少し考えた。
「感応型の先応答で、召喚対象が一瞬触れた。でも陣が崩れたから形にはなりきれなかった。その触れた痕跡が、形を取れないまま、旧資料棟に留まった」
「それがモコ」
「そう考えると、全部が繋がります。モコが失敗した術式の残滓を食べること。召喚に関係するものに反応すること。セレスさんの傍を離れないこと。わたしの力と相性がいいこと」
「あなたの力と相性がいいのはなぜ?」
「感応型の先応答の痕跡だから。失敗の痕跡に近い。わたしが読めるものに近い種類の気配を持っている」
セレスがモコを見た。
モコは棚の上から降りてきた。机の上に乗って、セレスの前に来た。
二人は見つめ合った。
「もしそれが正しいとしたら、モコは私が呼んだもの」
「正確には、呼びかけた痕跡から形になったもの」
「私が呼んだのに、私に懐かない」
「セレスさんにとって制御できない存在だから、かもしれない。感応型の召喚で呼んだものは、術者と個別の繋がりを持つ。でもその繋がりは、定型型のように術者が制御できる性質のものじゃない。むしろ対等に近い」
「対等」
「うまく言えないですけど、感応型で繋がったものは、術者の命令に従うのではなく、術者と繋がっている。違う種類の関係」
セレスがモコを見た。
「だから私の言うことを聞かない」
「聞かないけど、離れない。そういう関係だからだと思います」
モコが一度鳴いた。
セレスが手を出した。
モコは逃げなかった。手の甲に鼻先を当てた。昨日よりも、少しだけ長く触れていた。
「ここまでは仮説です。確認するために、もう少し資料を読む必要があります。でも、矛盾しているところが今のところ見当たらない」
「確認できる資料は、記録庫の中?」
「あそこと、もう一つ」
「もう一つ?」
「モコから直接読めるかもしれません。今まで外側の気配しか読んでいなかったので、もう少し近くで読ませてもらえますか」
セレスがモコをわたしの方へ向けた。
「モコ、倉橋さんのところに行って」
モコはわたしを見た。それから、するするとわたしの方へ歩いてきた。わたしの手の前に来て、ちょこんと座った。
わたしはモコに向かって、気配を辿った。
今までと違った。
近くで読むと、外側から読んでいた時より、ずっと多くのものが流れてきた。
感応型の先応答の痕跡が、確かにあった。一人の術者が、強い感情を持って呼んだ何かが、形になりきれないまま留まっている。その術者の感情の名残も読めた。
怖さと、切実な願い。どうしても成功させたいという思いと、それが成立しないかもしれないという恐れが、同時にある。
入学したばかりの、一人で旧資料棟に来た少女の感情の名残だった。
「読めます」
「何が」
「感情の名残。最初に呼んだ時の、セレスさんの気持ちの残滓がモコの中にある」
セレスが黙った。
「怖かったこと。でも、それ以上に、どうしても成功させたいという気持ちが強かったこと」
「…………」
「その気持ちが、呼んだものに届いていた。だから先応答があった。そしてその痕跡が、モコとして形になった」
セレスはしばらく何も言わなかった。
わたしもモコを読み続けた。
そこで、一つ別のものが流れてきた。
「あともう一つ」
「なに」
「モコの中に、もう一つ別の感情の名残があります」
「別の?」
「最初のものよりあとの時期のものだと思います。怖さや切実さとは違う。もっと温かい、柔らかいもの」
「何の感情」
わたしは読み続けた。
それが何かを言葉にするのに、少し時間がかかった。
「誰かがいてくれること、という感じがします。一人じゃないことへの、安心みたいなもの」
セレスがわたしを見た。
「それは」
「たぶん、わたしがここに来るようになってからあとの時期のものだと思います。最初の感情とは別の時期に、モコの中に加わったものだから」
部屋が静かになった。
セレスは少し下を向いた。
わたしはモコを読むのをやめて、手を引いた。モコはその場にそのまま座っていた。
「記録庫を確認します」
わたしはそう伝えて、立ち上がった。
隠し通路を通って、記録庫に入った。
今まで読んでいなかった棚の、右側の段を確認した。
一冊の薄い綴じ物があった。表紙に、『感応召喚の先応答と残存事例』と書いてあった。
机に戻って広げた。
読み進めると、先応答の残存について詳しく書いてあった。
先応答が生じ、術式が崩れた場合、応答を返した存在が完全に戻らないことがある。この場合、応答した存在の一部が術者の近くに残存し、時間とともに形を獲得することがある。残存した存在は、術者の感情状態を媒介にして存在を維持するため、術者の感情変化に敏感に反応する。
「感情変化に敏感に反応する」
わたしは読んだ。
「モコが、私の様子で鳴き方を変えることがある」
「危険な魔力に近づいた時も鳴き方が変わると言っていましたよね」
「そう」
「術者の感情と、周囲の魔力状態の両方を読んでいる。残存した存在の特性として一致している」
さらに読み進めた。
分かった方がいいはずなのに、分かるほどモコが遠くなる気がした。
残存した存在が完全な形を取るためには、本来の召喚が成立する必要がある。本来の召喚が成立した時、残存した存在は本来の姿に戻り、召喚された存在と合一する。これは消滅ではなく、完成として解釈すべきである。
「消滅ではなく完成」
わたしは呟いた。
「モコが消えるのではなく、本来の形に戻る」
「なくなるわけじゃない。最初から呼ばれるべきだったものが、ちゃんと形になる。モコが今の形でいられなくなるかもしれないけれど、それは終わりじゃない」
セレスがモコを見た。
モコはセレスを見た。
「本来の形に戻ったモコが、どうなるかは分からない」
「分からないです。でも、記録には消滅ではなく完成と書いてある」
「信じるの?」
「信じます。失敗痕は嘘をつかないのと同じで、古い記録もだいたい正直に書いてある。都合のいいことを書かない」
セレスがモコからわたしに視線を移した。
「もう一つ確認したいことがある」
セレスが伝える。
「なんですか」
「公開試験で、私がやるべきことが分かった」
「感応型の形式で、本来の召喚を成立させること」
「それだけじゃない。記録を全部読んだ上で、一つ分かったことがある」
「なんですか?」
「今の九条家の形式で召喚を試みる継承者の中に、私と同じ特性を持つ者が今後も出る可能性がある。感応型の特性が強い術者は、今の定型型の形式では成立しない。それは私だけの問題じゃない」
「学園の制度の問題」
「そう。公開試験で感応型の形式を使うことは、九条家の現行形式への異議申し立てになる。それは私一人の問題ではなくなる」
「家や学園が認めない可能性がある」
「高い。でも、やらなければ何も変わらない」
わたしはセレスを見た。
昨日泣いた人と、同じ人だった。でも今日は、何かが決まった顔をしていた。
「公開試験で、感応型の形式で召喚を成立させる。それが私のやること」
「やります。一緒に」
「あなたは関係ない形にもできる。公開試験の場にいる必要はない」
「います。外から陣を読みます。崩れそうになったら言います。二人でなければ届かないと分かっているので」
セレスが少し間を置いた。
「灰崎先生に相談する。術式の登録について、何か方法があるかもしれない」
「先生は知っていると思います。何かを」
「知っていると思う」
モコが立ち上がった。
机の上で一度伸びをして、それからセレスの方へ歩いていった。
セレスの手の前に来て、止まった。
セレスが手を出した。
モコが手の甲に乗った。
今まで一度も、そんなことをしたことがなかった。
セレスはモコを見た。手を動かさなかった。
モコは手の上にそのまま座って、丸くなった。
部屋が静かだった。
西日が窓から差し込んで、セレスの手の上のモコを照らしていた。
「本来の形に戻ったとしても」
セレスの声が低かった。
「今のモコが、どこかにいてくれたらいいと思う」
「います。呼んだものと合一するなら、形は変わっても、モコの中にあったものはなくならない」
「そう」
「モコの中にあった、怖さと切実さと、それから」
わたしは少し言葉に詰まった。
「一人じゃないことへの安心も、なくならないと思います」
セレスがわたしを見た。
目が少し赤かったけれど、今日は泣かなかった。
「一人じゃないことへの安心が、モコの中にある」
「あります」
「それはあなたが来てから加わったものだと言った」
「はい」
「つまり、あなたがここに来なければ、モコの中にそれはなかった」
「……そうですね」
「分かった。公開試験で、感応型の形式で召喚を成立させる。モコの本来の形を取り戻す。それが、私のやること」
モコが小さく鳴いた。
セレスの手の上で、丸いまま、一度だけ鳴いた。
窓の外で、夕暮れの光が傾いていた。




