霹靂
翌朝、僕たちはまた制服の男の粗暴なひと声に起こされた。慣れない二段ベットの上段の寝心地と、あのシャワー室での出来事のせいであまり眠れた気はしなかったが、身体の方は幾分疲れが取れていたように思う。
昨夜の出来事については、レイもヘルムートも素知らぬ顔だった。朝食のことしか考えていないのか、普段どおり真っ先に作業着を受け取ってさっさと部屋を出て行った。アシュレーと僕もまた、制帽の下の監視の目の前では何事もなかったかのように装い、通路に出た。すると先行くアシュレーが不意に振り返った。何を言い出すのか思わず狼狽えたが、その視線は僕を通り越してその後ろへ注がれている。
制服の男は追い出した囚人たちのことは忘れ、一歩中に入って「早くしろ、後ろを向け」などと横柄に命令しながら、手の掛かる囚人の拘束衣を脱がせていた。僕は前方を塞がれ、アシュレーにつられてそれを眺めた。毎日見ているうちに、徐々にその手順や扱い方が解ってきた。
「今度、着てみないか」
「ちゃんと脱がせてくれるんだろうな」
少し驚いた僕が咄嗟にそう応えると、彼は片頬を歪めておどけて見せた。いつもと少しも変わらないその様子に、僕は密かに胸を撫で下ろした。
あんな風に人を罵ったのは初めてだ───。
それでも見放されなかったこと、殴られなかったことに、僕は今、ようやく安堵したのかもしれない。
アシュレーがそう願っていたのなら、あのカプセルを手放したことは、おそらく善い兆しだったのだろうが、僕はまだ時間を巻き戻したいような、不安と動揺が消し去ることができなかった。
今朝の食堂は妙に静かな印象だった。窓の外は明るいものの風はなく空は薄曇りに覆われていた。僕たちは、レイが暗黙の領地として確保している角の席を陣取り、もはや環境音と化した低い騒めきと食器の擦れ合う音の中で黙々と食事を摂った。彼らがどれほど永い期間ここに居るのか知らないが、あの“褒美の部屋”も初めてではないのだろう。特に感想もなければ、嬉しそうな様子もなかった。
しかし、この日のレイは何か様子がおかしかった。彼の好物である山盛りの白い肉を朝から次々と頬張りながら顎を引いて、獲物を品定めする黒豹のような目で僕たちの顔をひとりひとり見回している。僕は、時々彼の見開いた氷色の瞳と目があったが、固く口を噤んでいた。昨晩の出来事について、きっと何か言うつもりなのだろう。僕は落ち着かない気分でパンを千切った。
レイはチキンをすべて口に頬張ると、フォークスプーンを勢いよく置き、何やら含んだような顔でひと息ついたかと思うと、徐に身を屈めて低く唸るように言った。
「俺は決めたぜ」
僕たちの手はゆっくりと止まり、その勿体ぶった沈黙のあいだに疑問の視線が交わった。
「何をだよ」
痺れを切らしたヘルムートが大して興味も無さそうに隣のレイの方を見ながら、また食事を続けた。レイはぶっきらぼうに彼の肩を抱き寄せてから、僕たちにも近付くように小さく指の先で示した。僕とアシュレーは怪訝に顔を見合わせたが、そっと見遣った隅の看守が顔を背けた拍子に、素早くレイの方に顔を寄せた。間近に顔を突き合わせたレイは、再び揃った顔ぶれをじっくりと眺めた。
「俺は、この島を出るぞ」
その表情は、まるで悪戯を思いついた子どもだった。僕たちの表情は一瞬で固まり、また、お互いを探り合うように目だけが忙しなく動き回った。レイはそのひと言を告げると、満足そうに上体を起こして胸を張って、ヘルムートの身体を離した。
「・・・冗談だろ」
ヘルムートは困惑のあまり縒れたシャツのまま、その真偽を勘繰ってレイを疑った。しかし、当の人物は穏やかな湖面に後ろ手で小石を投げ込んだような、涼しげな顔をしている。
「諸君、とりあえず、今日も仕事だ」
レイはただ独り、ニヤニヤとほくそ笑みながら席を立った。残された僕たちは波紋の波に揺られながら見つめ合っていたが、ヘルムートが突然食事を中断して立ち上がり、浮かない顔で頻りに頸を振りながら去って行った。
「あれが本気なら、下手したら終わりだな」
僕とアシュレーはその場にポツンと取り残され、揃って茫然と前を見つめていた。
「─── 確実に僕たちも巻き込む気だろうな」
僕はレイの唐突な爆弾発言に漠然とした膨大な不安に見舞われながらも、心の奥底では純粋な期待の雛が微かに殻を突いていた。これはもしかすると、あわよくば、この鎖ざされた世界から飛び立てるのかも知れない。それは確実に自信家のレイに便乗した根拠のない他力本願の期待だったが、この無為に人生を削ってゆくだけの奴隷の暮らしを見るよりは、生きている意味を感じられそうな気がした。
隣に座っているアシュレーは特別何の反応も示さなかったが、驚く様子も、拒絶しているわけでもなさそうだった。
彼は「今日は調子が悪い」と言って、毎日欠かさないコーヒーも呑まず、テーブルには水しか持って来なかった。早朝から何度かシャワー室を出入りしていたのを知っているが、本人は気丈に振舞っているように見えたので、あえてそれには触れないでいた。
いつの間にか身についた早喰いのせいか、まだ少し時間がある。肩を並べて前を向いたまま、それとなくじっと隣の席の様子を窺っていると、アシュレーは僕の皿からハムを一切れ指で掴み取って口に含んだ。僕が皿ごと彼に薦めると、彼は頸を横に振って席を立った。
この日の密林の空気は纏わりつくように湿気を帯びていた。白濁の空にはだんだんと斑らの暗雲が立ち込め、暗く潜む樹々の合間から雨降の風が濃密な土壌と樹々の匂いを舞上げた。
「イヤな天気だな」
列を成して山道を登っているトラックの荷台で、アシュレーが紅い本を閉じて懐にしまいながら空を仰いだ。上着の中から出てきた右手は、また少し左腕気にしている。その仕草は、広場での朝礼が終わったあたりから続いていた。
「雨の日は汚れるんだよなあ、いつも以上に」
今日は一層気怠げなヘルムートは両膝を立ててレイの肩に背を預け、煩わしそうに深くため息をついた。
「おい、何してやがる」
頭上の枝葉の隙間からぼんやりと雨雲を眺めていると、その脅すような吼え声に驚いた。振り向くと荒々しく揺れる荷台の上で向かいに座るレイとアシュレーが睨み合って対峙していた。
目の前で彼らが揉めるのは初めてだ───。
僕は突然の緊張感にたじろぎながら、組み合っているふたりの様子を交互に窺った。
「お前、まさか・・・」
そう呟いたレイの視線を辿って目を凝らすと、彼に掴まれているアシュレーの左腕の素肌が少しだけ見えた。その皮膚は明らかに赤く、微かな腫れが見え隠れしていた。アシュレーは昨晩僕に見せたような尖った目つきでレイを睨み返してから、すっと腕を振りほどいて顔を逸らし、多少のざらつきを残して彼らの諍いは治った。
「───虫に刺されたんだよ」
アシュレーは、また枝葉に阻まれた空を仰いだ。レイはしばらく黙ってその横顔をじっと睨み据えていたが、やがて諦めたようにそっぽを向いた。ヘルムートも横目で少しだけアシュレーの方を見遣ったが、さほど気にする様子もなく、無造作に前髪を掻き上げただけだった。
僕は独り、複雑な気持ちで彼らを傍観していた。遠巻きに見護る僕の目には、互いの肚の内は解りきっているような遣り取りに映った。彼らがどれだけお互いのことを理解しているのか、僕はまだ識らない知らない。
運ばれる家畜のような男たちが詰まった荷台の空気は、どんよりと澱んでいた。居心地は最悪だったが、彼らから目を背けても救いは無い。荷台の男たちは、このふたりの小競り合いに虫の喧嘩を見るような顔や、暇潰しの無関心を向けていた。
高台に乗った四角い顎の制服の男の怒号で、今日も戦場での労働が始まった。制服の男たちだけが雨に備えて足元まである黒艶のレインコートを羽織っている。デルタ班の仕事は、今日は土石の運び出しだそうだ。
僕は、掘削、運び出し、積込、運搬と、ここでの仕事はもうひと通りこなしていたので、すべての要領は解っていた。罰と死の恐怖から逃れるために、耐えて、耐えて、耐え続けた結果、貧弱だった僕の身体には筋肉と体力が付き、それから多少根性据わってきた。それでも決して楽にこなせるような仕事ではないが、徐々に身体が馴染んできたようだ。過酷な一日を終えた時は、寧ろ以前よりも少しだけ男らしくなったような気分だった。
作業を止めると攻撃されるため、他人を顧みる必要もなくなり、亡骸にも慣れてしまった。今朝肩がぶつかって睨んできた顔が、昼頃には蒼白くなって転がっていても何も感じず、ただの人形のように引き摺って死体置場に投げ込むだけだった。時には“ああ、こういう男はもう終わりだろう”と予測できた。看守に媚びて鞭打たれ、誰かに救われたいと縋りながら戦場に居ること自体が甘えであり、惨めな死に様へと繋がるのだ。───いつから僕はこんな考えに至ったのだろう。頭ではそれが明らかに異常だと解っているはずなのに。苦痛を繰り返すだけの退屈な日々に精神を蝕まれ、他者を蔑み、死を軽んじることに愉しみでも憶えはじめたのか。人間の適応能力と生存本能というものは、恐ろしい。
レイは軍人だったと聞いたが、彼の居た戦場はいつもこんな光景だったのだろうか。
そして、僕はまた向こうの世界で、平然と“普通の人間“のふりができるのだろうか。
労働が始まって二時間ほど経過した頃だった。重い土石を一輪車に積んで坑道を抜けたところに雨がぽつぽつと降りはじめたかと思うと、それはやがて雷雨に変わり、辺り一体は水溜りだらけになった。泥に降り注ぐ大粒の雨水が跳ね返り、藍鼠の作業着はいつになく汚れ重く張り付いてゆく。
制服の男たちは二、三人が隅のテントの下に猟銃を片手に避難していた。四角い顎の男は土砂降りの中でも厳格を気取って仁王立ちを崩さず、悪天候に緩んだ囚人たちに向かって、ここぞとばかりに鞭を振るっている。僕は何度も泥濘で足を滑らせたが、ぐしょぐしょに濡れた軍手を握り締め何とかバランスを立て直して作業を続けた。作業の合間に何度掻き上げても前髪を伝い落ちてくる雫で目を開けているのがやっとだ。
アシュレーとは何度も行き違ったが、その顔は見る度に蒼白になっていた。腕捲りをしているのは相変わらず右腕だけだったが、泥か何かの見間違いでなければ、ある時、やけに黒ずんだ袖口と軍手の間に滴る不穏な血を見た気がした。
それは、雨が叩きつける中、僕が洞窟の奥から手押し車で土石を運び出しトラックの向こうの集積所に運んでいた時だった。荷車への積み込みの順番を待つ間、雨水に目を瞬かせていると地面でやけに白く目を引く物がある。靴紐を直すふりをして身を屈めると、泥水の中に見憶えのある透明なものが覗いていた。手を延ばしてそれに触れた瞬間、はっとして、すぐさま拾って素早く辺りを見回した。囚人の男たちは黙々と作業に没頭しており、雨の帷の向こうに目を凝らすと、怒号を散らす制服の男たちの正面顔は見えず、猟銃もこちらに向いていない。
僕は急き立てられる衝動を堪えて順番を待ち、急いで土石を荷車に流し込み、手押し車を放って死体置場を必死に掻き分け、俯せに横たわった蒼白いアシュレーを掘り起こした。そしてもう一度背後を振り返った。降り頻る雨と必死さに駆られて何も見えない。僕は意を決して彼の腋の下から腕を回し、泥の中を何とか引き摺って荷車の陰に回り込んだ。焦るままにその身体を揺さぶり、頬や鎖骨の辺りや腕のあちこちを闇雲に叩くうちに、アシュレーが力無く頸を動かして目を開けた。ほっとしたのも束の間、瞼はまた自動的にゆっくりと閉じられてゆく。ここに居ては危険だ。背後に伸びる叢の方を振り返った。
僕は、決断を迫られた───。
もし見つかれば、ふたりとも一巻の終わりだ。
まだ息のある彼を見捨てるわけには───。
でも、僕独りで、あんなところまで運べるのか・・・。
切迫した僕に容赦なく降り注ぐ豪雨が、いつしか雑念のすべてを洗い流した。
僕は力の限りを振り絞ってアシュレーを起き上がらせると、肩の下に身を潜らせて持ち上げ叢の中へ担ぎ込んだ。
草を踏む音は激しい雨が掻き消してくれる。僕たちの姿は雨霧が隠してくれる。ひたすらそう信じた。
意識も朧げなアシュレーは縺れた足取りでほとんど引き摺られる格好だったが、その脚はまだ歩くことを諦めてはいなかった。僕はのし掛かる重さに耐え、残る力を振り絞って視界の悪い中密集した硬い草の茎や葉を掻き分けてさらに奥深く進み、やっとのことで、無意識に目印にしていた巨木の下まで辿り着いた。その巨人の足元は大きな傘のように広がった枝葉に護られ、落ちてくる雨粒はまばらだった。
アシュレーをその絡まり合う幹の根元へ降ろして、頭を低く保ったまま元来た道を振り返った。しかし激しい土砂降りで、人影は煙のようにぼやけている。どうやら、無事気づかれなかったようだ。
僕はアシュレーの顔に張り付いた前髪を掻き分け、肩を揺すった。
「アッシュ、大丈夫か、怪我は」
薄くぼんやりと目を開けたかと思うと、アシュレーは突然起き上がって、飛び退いた僕の目の前で嘔吐しはじめた。朝食もろくに食べていない彼は胃液らしきものを吐いただけで、僕が背中を摩る中、ただ苦しそうに腹を抱え、やがて落ち着いたかと思うと傍へ倒れ込んで仰向けに寝転がった。ずぶ濡れで疲れ切った僕は両膝をつき、苦しそうに目を瞑った蒼白い顔を遣る瀬ない思いで、ただただ茫然と見つめていた。
「僕は昨日、君にひどいこと言ったよな。謝るよ」
すると彼は虚ろな目をこちらに向けて、苦笑いにも似た笑みを浮かべ右腕で口元を拭った。
「まるで、ガキの喧嘩だな」
僕はその軽口に少し安心して、彼の横に回って体勢を下げて腰掛けた。時折目を凝らして作業場の方を見たが、雨は弱まる気配もなく誰も見向きもしない。頭数が減っても気にも留めない杜撰連中だ。本当は誰かが逃げたとしても追う気などないのかもしれない。この島から脱出する術が無いと確信したうえで、その余裕を見せつけられているような気さえする。
ふと、アシュレーが僕の袖を引いた。何か震える声を漏らすアシュレーの方を振り向くと、彼は真っ直ぐ伸ばした左腕から目を逸らすようにして、怯えた瞳を揺らしながら僕の顔を見上げていた。
「どうかしたのか」
「・・・何かいる、何か這ってるんだ、なあ、俺の腕、見てくれよ」
気味の悪い虫の類いが苦手な僕は一瞬躊躇したが、懇願する彼に絆されて仕方なく恐る恐る彼の左腕を持ち上げ、その袖をゆっくりと捲り上げた。そして僕は絶句した───。
その腕には無数の傷痕があった。爛れた皮膚は滑らかさを失い、浮き上がった歪な筋が幾重にも絡まり、うねり、不気味な模様を描いていた。手の甲から手首の辺りにかけては、古傷を抉って強く引っ掻いた新たな傷が血を滲ませていた。
僕は息を呑んで、思わず歪めそうになった顔を誤魔化し、笑顔の形に表情を作って別人のように怯え切ったアシュレーの顔を見た。
「何もいないよ」
「いるよ、ほら、見ろよ、うじゃうじゃいる、取ってくれよ!」
アシュレーは突然身体を跳ね起こし、悲痛な声を上げながら傷だらけの腕をさらに激しく掻き毟りだした。思わず、目を背けてその場から消えたい衝動に駆られた。それでも顔は目を疑うようなその光景に張り付いたまま、身体も縛りつけられて動けなかった。
今、目の前に居る男は、本当にあの冷静で穏やかだったアシュレーなのか。
僕が・・・僕のせいで、壊してしまったのか。
僕は彼を助けて良かったのか・・・。
あのまま終わりにしておけば、苦しまずに済んだんじゃないか・・・。
本当に、僕は、助けるべきだったのか ───。
「─── 騒いだらだめだ、見つかるだろ、何もいない、何もいないよ、大丈夫だから静かにするんだ」
込み上げる涙に頽れそうになりながら振り乱す腕に掴みかかった、ちょうどその時 ───。
カラカラカラ・・・と、崖を転がる石か何かの音の直後、龍の咆哮のような豪雷が轟いた。僕は咄嗟に彼の上に覆い被さり、その踠く腕を抑え込んだまま慎重に頸を延ばして、また作業場の様子を窺った。暗雲の降り頻る雨の向こうで稲妻が空を駆け、白金に光ったその一瞬、労働の男たちが影絵のように小さく映った。ため息を吐いて急に大人しくなったアシュレーの顔を覗き込むと、彼は呻くような嗚咽を溢しながら、泥に混じった涙で白い頬を汚していた。
「今まで、何度もやめようと思ったんだな」
僕は上体を起こし、その夥しい傷だらけの左腕にそっと手を添えた。血の滲む傷の周りは熱を帯び、冷たい雨に打たれてもなお熱く腫れていた。赤紫色に黒ずんだその腕に静かに手を触れていると、その確かな脈動が薄い皮膚を通して伝わった。
彼はまだ、生きようとしている───。
アシュレーは声を殺して、血と泥だらけの手で顔を覆って泣いていた。僕は頬にあたたかいものが伝うのを感じながら、彼の左手を強く握った。
「ここから出よう、そしてもっと自由に生きよう」
僕はそう言いながら、すぐさま自分を憫笑していた。
空っぽで、ちっぽけなお前が何を言うのだ。
大した人生も知らず、自由とは何かも語れないくせに。
お前に一体、何が出来る。
それでも、ここに居るべきではない。
こんなところで、終わらせてはいけない。
ここを出て、身体を治して、自由に羽ばたいて、清々しく笑って生きる。
そんな景色を、見てみたい。
僕の胸中など知る由もないアシュレーはゆっくりと手を退け、赤く潤んだ切れ長の瞳で、その強がる顔を見て震える声を吐露した。
「俺には無理だ・・・どうせまともに生きられない・・・俺はもうここで死ぬ運命なんだ」
「───どうせ死ぬならいいじゃないか。僕は今まで、人に逆らったことがないんだ。だから死ぬ前に、思い切り逆らって生きてみたい。相手が運命だろうと、何だろうと。でも、レイだけはゴメンだけどね」
精一杯おどけて彼の方を振り向くと、アシュレーは泣き崩れて困惑した顔で、汚れた片頬をわずかに持ち上げた。それは、少し気取ったいつもの彼の、微笑みのようにも見えた。
降り止まない雨の中、遠雷に耳を傾けながら神秘的な傘を見上げ、名前も知らない奇妙な巨木の根元に寝そべっていた。時折、生い茂る雑草や枝葉を叩く雨音に混じって、金属の無機質な音や悲鳴、銃声や水溜りに斃れるような瑣末な音が水膜の向こうに聞こえている。まるでこの木陰だけが護られた別世界に在るような穏やかさに包まれていた。アシュレーは疲れ果て、ささやかな眠りについていた。濡れそぼって泥に塗れた僕は、不思議と気持ちが安らいでいて、気まぐれに落ちてくる雨粒を数えていた。すぐそこに地獄が見えているのに、ここには小さな天国が在る。
どうか、もう一度、僕たちに人生を与えてほしい ───。
夢現の移ろう意識の中で、何処かにいるはずの僕の神さまに、僕は強く、そう願った。




