幻滅
「君たちはずっとここに居て、どうしてそんなに平気なんだ」
アシュレーは繊細な縁の大ぶりなレンズ越しに僕を見た。眼鏡をかけている時の彼の透明な視線は、一層心の内を見透かされているような気がする。
「記憶が戻ったのか」
僕は、少し顔を背けた。
あの叢で目醒めた時、微睡んだ夢と現実の狭間で、思い出したくもない断片を見た。それ以来、日に日に記憶が鮮明になり、夢も現実もどちらにも逃げ場がなくなった。
僕は、無口な父と、明るい母の元に生まれた。
子どもは僕ひとりで、物心ついた頃から大きな白い犬が一緒に居た。名前は、バディだ。
家は片田舎の、白塗りの広い家で、庭に母親が好きな黄色い花がたくさん植えてあった。
僕はいつも独り遊びが好きだった。
両親が言い争いをはじめた時は、バディを連れて裏の森を散歩することに決めていた。
動物と植物の澄んだ息吹の中に包まれていると、自然と気持ちが和んで安心できた。
学校がはじまると、僕は少し変わっていて、それと、内気だということがわかった。
時々、揶揄われるれることは嫌だったが、特別、過保護にされることも嫌だった。
そのうち多くの失敗から〝誰も刺激しない術”を身につけた。
成績は人並みで、スポーツは苦手だったが、上手く立ち回るのが得意になった。
大学に上がると二つ年下の彼女ができて、僕の人生は明るく色づいた。
僕は、父親の会社に就職することが決まっていた。
いわゆるレールを敷かれた人生だ。
家庭を持って、父親になって、立派な男になって、僕も人並みの幸せを手にできるんだと夢を見た。
卒業の少し前に、就職したら結婚しよう、とプロポーズした。
でも、“退屈な人生は嫌だ”と言って、彼女は去った。
僕は、空っぽになった。
父親の会社では、与えられた業務を淡々とこなした。
社長の息子というだけで疎まれたり妬まれたりもしたが〝誰も刺激しない術〟が僕を護った。
ある日、仕事を終えて帰宅すると、両親の言い争う声が聞こえた。
僕はスーツを着たまま、玄関の前で引き返して裏の森に向かった。
バディはもう居なかったが、森の息吹はいつでもあたたかく迎えてくれて、僕の心を癒してくれた。
しばらく歩いて家に戻ると、庭先に見慣れない黒い高級車が停まっていた。
不審に思って窓から家の中を覗くと、見憶えのない黒いコートの男たちが立っていた。
その足元には倒れている母親と、跪いて頭に銃を向けられた父親が居た。
窓を離れて、僕は、森に逃げた ───。
暗い森は、何処までも同じ景色が続いた。
何度か銃声が聞こえても振り返らず、足を止めなかった。
森を駆け抜けて、心臓が千切れそうになって、足がもつれた。
突然、遠くの方から呼ばれた気がして、僕はその時、一度だけ振り返った。
僕の体はバランスを崩した。
枯れ葉の流れに足を取られ、斜面を滑り落ち、枝や幹に打ちつけられて、やがて止まった。
散々身体を打ちのめされたあとも、僕のしぶとい心臓は、まだ動いていた。
朦朧とする意識の傍に、枯れ葉を踏む靴音が近づいてきた。
そこで、意識は途切れた。
あの時、家に帰らなければ、森に逃げなければ、あの時、振り返らなければ ───。
僕の人生には、こうならない道もあったのかもしれない。
「でも僕は、何処で選択を間違ったのか、解らない」
虚しい沈黙が漂った。アシュレーは何も言わず、寝台に片手を突いて少し退屈そうに石の地面を眺めていた。僕は別に何かを過剰に期待していたわけではないが、彼のあまりの無反応につい躍起になった。
「僕はこれでも真面目に生きて来たんだ、両親を殺してなんかないし、会社にあんなヤツらが関わってたなんて知らない。僕は無実だ、これは、冤罪なんだよ」
「みんなそうさ」
声高に熱くなっていた感情は、水をかけられたように怯んだ。その口ぶりは、まるで興味がないどころか、煩わしのかとも思える言い草だった。溢れ出した発露の行方を見失った僕が、執拗に言葉を重ねようとすると、それを阻んでアシュレーは冷たいため息をついた。
「俺は、あんたみたいに恵まれた人生じゃなかった。だから、抵抗しなかっただけだ」
僕は思わずその皮肉にも反論しかけたが、それをぐっと呑み込んで、少しお座なりだった理性を働かせた。こんな小部屋がすべての狭苦しい生活で、ほかの牢の連中みたいに誰かと険悪になるなんて最悪だ。そして、僕をそうさせたのは、尖った態度のアシュレーの瞳は少し寂しげで、何処か僻んでいるようにも感じられたからだ。
「君は、どうして捕まったんだ」
「殺人だよ」
「濡れ衣なんだろ」
「俺が殺したようなものさ」
アシュレーはそっぽを向いて黙った。レイは二段ベッドの柱に、ランタンをひとつだけ燈していた。このあとはどうせ眠るだけだ。そう思ったのだろう。夜に染まってゆく石の部屋に、少し遠くの方で滴る水の音だけが響いている。僕はレイたちがまだシャワー室から出て来ないことを祈った。
隣同士の間に流れる、永く気まずい無言の時間を根気よく耐えていると、アシュレーは膝に頬杖をつき、また溜息をついて、ゆっくりと記憶を辿りはじめた。
「俺には、二つ上の姉が居た。要領も頭も良くて、親のお気に入り。俺は奔放で反抗的な出来損ない。・・・親は金持ちだったが、周りは数字のことしか頭にない連中ばかりだ。家は俺たち姉弟にとって不自由でしかなかった。─── ある晩、姉が俺を誘ってきて、それから、宛もなく、ふたりで逃げた───」
「君の、お姉さんとか?」
「窮屈な家を出たかっただけさ。つき合う人間も好きに選べなかった。元々、俺のことなんて何とも思ってなかった。だから、ふたりで暮らしはじめて、すぐに男を連れ込んだ。外の世界を知って羽目を外したんだ。俺は要らなくなったのさ」
アシュレーは言葉を止めて、手の平で頬や口元を摩っている。その瞳は一点を見つめ、行き場のない怒りと悔恨を含んだように翳りを帯びていた。僕は息を呑んで、彼がまた言葉を紡ぎ出すのを静かに待った。
「その男は、アパートに入り浸るようになって、無計画で金のない俺たちの面倒を見てくれた。でも、その金は麻薬で得たものだったんだ。俺は黙ってたが、それを知った姉は逆上して、ふたりは揉み合いになった。─── そして、姉は死んだ」
「じゃあ、その人は───」
アシュレーは僕の方を一瞥してから、また視線を床の方へ落としたが、その口元は気のせいか薄っすらと微笑んでいるようにも見えた。
「俺の家族は、あの人だけだ。酒と煙草と麻薬に溺れるだけの堕落した日々だったが、俺は、生まれてはじめて生きてるような気がした。あの人は、俺を否定しないし、指図もしない。それに、何も知らない俺に色んな話をしてくれた。海に捨てられて、ギャングに育てられた名前もない男だったが、俺にとっては兄貴みたいな存在だった。───でも、ある朝起きたら部屋で死んでた。そこら中血まみれで、俺の手に、金を握らせて。───俺の人生は、そこで終わった。そのあとのことは、よく憶えてない。捕まって、親も俺を捨てた。何もかもが俺のせいになった。だけど、俺はもう、どうでも良かった」
徐に、アシュレーは手元の紅い聖書を縛っていた革紐を解いて開いてみせた。夥しい文字が密集した、透けるように薄いページがパラパラと捲られゆくのを眺めていると、突然、五センチ角ほどの深く窪んだページが現れ、僕は思わず目を瞠った。
「この本は、あの人がくれたんだ。ふざけて、ここに、アレを入れてさ。少年院にいた頃に、暇つぶしに読みはじめたんだが、結構面白いんだぜ。いつか切り抜いてある部分も読みたいよ」
感慨に耽っているのか、アシュレーは懐かしそうな表情でくり抜いた段差の角を撫でていた。想い出に浸るようにやさしく語り続けるその声は、青褪めた僕の耳にはほとんど届いていなかった。打ち解けあったアシュレーへの親しみと、それを阻む大きな何かとの間で、心が不穏に揺らいでいたからだ。
あのカプセルは、持病の薬か何かじゃなかったんだ。
薄々そんな気もしてはいたが、認めたくなかった。
彼はいつも落ち着いていたし、いつも周りを気遣っていて、おかしなことなんて何もなかったからだ。
いつも、あんなに“普通”だったのに。
僕は急に、彼が、恐くなった───。
「次、入れよ」
その時、レイとヘルムートが濡れた髪のまま奥の方から現れた。もちろんドライヤーなどありはしない。アシュレーと僕は目を見合わせたが、彼が「先に行けよ」と言ったので、僕は虚ろな返しで応えてシャワー室に向かった。背中に「先に寝るからな」というレイの声が聞こえたので、適当に返事をしておいた。
細い木板を打ちつけた旧びたドアを開けると、目の前に赤錆が滲む薄汚れた洗面台と黒点の死化が散った鏡が現れた。その上には石の隙間から杭が伸び、またひとつ、琥珀色のランタンが下がっていた。そのせいか、何もかもが黄ばんで見える。僕は、ようやく独りになれた安堵感に気を抜き、このあとに待ち受ける日々の暗鬱さに容赦なく落ち込んだ。
こんな世界の、こんな場所での、こんな生活で、心の拠り所は、もうなくなってしまった。
シャワーを浴びれば、少しは気が晴れるだろうか。
すぐ横には鉄棒に連なるリングに濡れそぼった化繊のカーテンが垂れ、奥に赤いバルブがついた鼠色の配管と無愛想なシャワーヘッドが取り付けてあった。決して広くはないが、独りでゆっくりシャワーを浴びるには充分だった。
僕は乱暴にシャツとズボンを脱いで鉄棒に引っ掛け、滑りの悪いカーテンを閉めた。そして赤いバルブを捻ると、細かい蜂の巣のような穴からちょろちょろと水が出はじめた。勢いが出るのを待つ間に、洗面台の角に無造作に置いてあった白い石鹸で身体を洗っていると、突然扉が開く音がして、人の気配に思わず固まった。
「誰だ」
僕は悪戯でもされるのかと思って、じりじりと壁際に寄って警戒していたが、黄ばんだカーテン越しに滲むシルエットからは何の返事もない。
「レイなのか、悪戯なら今はやめてくれよ」
突然、吹き出したシャワーを頭から浴びながら、僕は気もそぞろに手で泡を洗い流し、バルブを締めて、カーテンからそっと顔を覗かせた。
「───泡がまだついてる」
そう言ったのはアシュレーだった。彼は洗面台の横へ例の金属の小さなケースを置き、右手に小さなカプセルを持って口に運ぼうとしていた。そのうえ平然とした顔で僕を見て、少し微笑んだ。気に障った僕は笑顔で応えるわけもなく、彼の手にしたカプセルに目を奪われながらも、毅然とした態度でカーテンから手を差し出した。
「・・・それ、取ってくれ」
アシュレーは鷹揚に辺りを見回し、洗面台の横にあったタオルを見つけて、僕に放り投げた。
「もう終わりか?ゆっくり浴びろよ」
タオルを受け取ると、アシュレーがカプセルを口に含んだので、僕は素早くカーテンの中に顔を引っ込めた。頭を拭く手を止めると、アレを噛み砕く、不気味な乾いた音だけが耳に響いてくる。僕は自分でも理解できない焦りと憤りで、いい加減に頭と身体を拭いて、引き裂くように服を着た。そして勢いよくカーテンを開けて、アシュレーの方には目もくれず一気に部屋を出ようと扉に手をかけた時、静かな声が僕を引き止めた。
「なあ、ひとつ、どうだ、気分が良くなるぜ」
僕の手は震えていた。そして息を吸い込み、勢いよく振り返って露骨に彼を睨み上げた。
こいつは、平気で人に麻薬を勧めるような男だったのか。
僕が事情を知ったからって、すべてを受け入れてくれるとでも思ったのか。
「わざとなのか? 嫌がらせか?・・・要らないよそんなもの、死んだ方がマシだ」
吹き出しそうな怒りのままに軽蔑をぶつけて言い捨てた。アシュレーは相変わらず口元に薄笑みを浮かべたまま、そっと金属のケースをポケットにしまった。
「───君には幻滅したよ、もうそんなもの僕の前で見せないでくれ」
「あんたはしあわせだな」
背を向けて、今にも立ち去ろうとする僕を、彼がしつこく引き留める。
「こんな目にあってる僕の何処が幸せだって言うんだ」
「しあわせさ、こんなものに頼らなくても生きていけるんだろ」
「〝普通〟はそうだろう」
「〝普通〟か・・・。フツウって何だよ、何が基準だ。自分が正常で、まともだとでも言いたいのか?真面目で、従順だからか?それが正解だったのか?じゃあどうやったら〝普通〟になれるのか教えてくれよ!」
僕は驚いて、また振り返った。こんなにも取り乱した彼の声を聞くのは初めてだったからだ。
アシュレーはもう、笑っていなかった。肩で息をしながら、荒れた海のような潤んだ瞳で僕を真っ直ぐ睨んでいる。当惑している僕の前で、突然、アシュレーはもう一度ポケットから金属のケースを取り出し、逆さにして、中身をことごとく床にばら撒きはじめた。
「何してるんだ・・・やめろよ!」
転がったカプセルをパキパキと忌々しげに踏み砕いていく彼の腕に、思わず掴みかかった。ふたりの足元には、無惨にも踏み潰されたカプセルの破片と、白い粉が飛び散っている。
「あんたは俺を軽蔑してるんだろう、中毒だから、狂ってるから」
アシュレーは顔を覆った指の間から、刃物のように尖った哀しい瞳で僕を睨んだ。
「・・・僕なんかに軽蔑されたくらいで、何でこんなことするんだよ・・・君は、これが無いと困るんだろ」
「〝普通〟なら困らないんだろ」
「何言ってるんだ、急にどうしたんだよ、アシュレー・・・」
僕はふと、この興奮は麻薬のせいではないかと不安になった。そのうち手に負えなくなるのではないかと───。扉の向こうに、逃げてしまいたい衝動もあった。それでも真っ直ぐ僕の目に訴える、その哀願の眼差しからは逃れられなかった。
彼の張り詰めた心は、もう限界だったのかもしれない。
常に瀬戸際を彷徨っていた心に、僕が偶然、迂闊にも触れてしまったのだ。
不意に、アシュレーは大きく息を吸い込み、徐に鏡の方へ向き直った。僕は気になって鏡越しに覗き込んだが、項垂れていて顔は見えない。
「───悪かったよ。突っかかる気はなかったんだ、ただ、こうするきっかけが欲しかっただけだ」
小さく呟くように言い、アシュレーはもう一度肩で大きく息をした。僕は何故か不条理な罪悪感に苛まれて、立ち竦んだまま部屋を出られなかった。でも、もう取り返しはつきそうにない。足元の惨状は湿気でみるみる融けはじめている。
「もう寝よう、明日はまた仕事だろ。ああ、それよりここを片付けておかないと」
「俺がやるよ、あんたは先に寝てろよ。ついでにシャワーも浴びる」
アシュレーの顔は相変わらず見えなかったが、声だけは不自然なほど穏やかだった。僕は少し躊躇ったが、振り返らずに部屋を出て、濡れた頭でベッドに向かった。
「お前ら何を騒いでたんだ」
ベッドに登ろうと足を掛けたところで、背中にレイの声がした。緊張気味に振り向いてみたが、彼は後ろ手に頭を支え、寝そべったまま喋っていたので、その表情は窺えなかった。
「何でもない」と、短く応えて硬いベッドに身体を横たえて、壁の方に転がった。彼はもうそれ以上は追及してこなかった。
身体は疲労感に垂れすぐに目を閉じたが、すぐには眠れるはずもなかった。冷たく濡れた髪の毛が火照った頭に張りついて生ぬるくなった。
僕は、取り返しのつかないことをしてしまったような気がした。
彼にとって、あれは唯一の逃げ場だったのかもしれない。
僕にとっての夢のように───。
水が石壁を打つ音はまだ続いている。アシュレーは、あのシャワー室から無事に出てくるだろうか。
鼓膜の奥で、あの痛切な声が何度も何度も繰り返され、あの悲壮に満ちた蒼碧の瞳が、瞼の裏で延々と僕を睨み続けた。




