↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
美しき監獄  作者: 八尋 世暇
Verse

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

7/24

褒美

あっという間にひと月が過ぎた。

毎朝早朝に起きて、食欲の無い腹に無理矢理餌(えさ)を流し込み、朝礼と悪路に耐え、戦場に身を投じて、神経を張り詰め、吐き気がするまで働き、干涸びて帰って来た身体に慰めのシャワーを浴び、無心でまた餌を貪り、檻に戻れば硬く冷たい石の上に倒れ込む。そしてまた、朝を迎える。

来る日も、来る日も、来る日も、来る日も───その繰り返しだった。


でも、何故か、僕はまだ、生きていた。


時々、この監獄や島のことを彼らに訊ねてみたりもした。はじめは、適当にはぐらかして、また揶揄(からか)われているのだろうと思った。しかし、いくら訊ねてみても詳しいことは誰も知らず、あのアルグ何たらとかいうこの島の名前も性質(たち)の悪いレイのでたらめだった。

そして、そんな疑問や興味は、毎日の過密な時間割と疲労に追われて、だんだんと考えることを放棄してゆくのだった。


常に看取とほかの囚人たちに囲まれ、決められた時間に決められた場所を行き来するばかりの日々だったが、就寝前には少しだけ手持ち無沙汰な時間があった。消灯までの自由時間だ。食堂を出て監房に行くまでの短い通路と監房、そしてトイレの中は自由に過ごせる場所だった。しかし、湿気と陰鬱な空気の澱んだ狭く薄暗い物陰のような空間という場所は、何処であっても、それ相応な不道徳を好む連中の巣窟と決まっている。初日にほかの囚人に絡まれて以来、情けないことに、僕は怖気づいて独りでトイレにすら行けなかった。そんな時はそれとなく同獄の誰かの後をついていくか、誰よりも早く安全な檻の中に戻って朝まで腹を抱えて辛抱するのだった。牢の簡易トイレは、いつもトルソーが隅に座り込んでいるせいか、一度も使われるのを見たことがない。


僕の精神は、まだ正常を保っているように思えたが、この暮らしが永遠に続くのなら、いっそのこと狂ってしまいたいと願った。

そうすれば、未来など思い描きもしないし、きっと今にも何も感じなくなる。


あの、叢(くさむら)の向こうに走れば、ここから簡単に逃げられるのに、何故か誰もそうしない。

あの、毎日絶えず口にできる、奇妙なほど手厚い餌に、みんな飼い慣らされてしまったのだろうか。

それとも、みんな、既に何処かおかしいのか。

誰もが〝死刑囚〟で〝極悪人〟だから、みんな既に狂っていて、だから平気なのか。

そして、僕自身も───。


青黒い消灯後の檻の中で、ごつごつした硬い石の上に寝転がって、そんな鬱々とした思考を廻らせていると、それを遮るようにアシュレーが読んでいた聖書をパタンと閉じた。彼はいつも本を読むために檻のすぐ傍に腰掛けており、天高の小窓から差し込む月明かりに、ほどよく痩身な身体の半分が仄白く照らされていた。

アシュレーは夜になると笑顔が増え、いくらか饒舌になった。昔読んだ色々な本の話、同居していた友人の話、何処かで聞いたという神話の話、それから、聖書の中のちょっとした小話。静かな声で独り言のように紡(つむ)がれる、僕の知らないそれらの物語は、僕の拙(つたな)い想像力でも思い描けるほどの雄弁な語り口で、目を閉じれば情景が瞼の裏に浮かんでくるようだった。

壁に寄り掛かるヘルムートの足を枕に、レイは仰向けになって心地良さそうに目を閉じていた。隅に座るトルソーの耳にも、この声はきっと届いているのだろう。

僕は疲れ果てた身体を石の上に投げ出したまま、目を閉じて耳を傾けた。淡々と語られる枕頭(ちんとう)のひと時は、疲労と狂気で荒み澱んでいた心にしっとりと絹にような夜風を通し、いつの間にか穏やかな眠りの奥へと誘(いざな)った。

アシュレーは僕より幾つか若いようだが、僕よりもずっと世界を知っている。


彼の話を、もっと聴いてみたい───。


夢の狭間で、そんな小さな希望を抱きながら、僕は深い眠りに落ちた。



それからしばらく経って、苦痛は“いつもの苦痛”に変わった。

過酷で凄惨と思うべき光景すらも、もう見慣れた。

他人の死は他人の死で、他人の苦しみもまた、他人のものだ。

僕には関係ない。

不思議と冷静に、いつの間にか、そう思えるようになった。

誰も僕を見ないのは、僕が、誰も見る必要がないからだと気がついたのだ。



そんな僕に、ある日、思わぬ朗報が届いた。


「今夜からデルタには“褒美の部屋”を与える。欠員も出さず、いい働きぶりだ。悦べ」


起きがけに聞いた思わぬ言葉が、それだった。レイが「イアンの野郎運がいいな、まだ来てひと月だぞ」とぼやく声が聞こえた。“部屋”と聞いて、一体どんな場所なのか想像もつかないが、この寝起きの背中や腰の痛さが少しはマシになるのだろうかと期待した。

そして、あの恐ろしく憎らしい四角い顎の男から褒められたことを、心なしか嬉しく思ってしまった自分に生理的な嫌悪感を抱いた。


レイは朝から機嫌を損ね、部屋のことを訊ねても一向に教えてくれなかった。レイがそうであると、当然、ほかのふたりも口を出さない。お蔭でその日は“部屋”の想像で明け暮れた。


夜、汗を流して夕食を終えた僕たちは通路に集められ、監房の中央の路(みち)を四角い顎の男に連れられて列を成して歩いた。それは、まさしく凱旋だった。両側の開け放たれた檻や周りに屯(たむろ)する男たちの、ひそひそと羨(うらや)む声や妬みの視線が始終注がれた。僕は誰の目も見ないように俯いて歩いたが、卑しく誇らしげな優越感が、密やかに僕の何かを満たしていた。


期待に胸を膨らませて通路を進んで行くと、監房を抜け、大仰な“中世の大扉”を開けた辺りから、少し雲行きが怪しくなった。石の通路は一気に狭まり、天井も低く迫り、不安と窮屈さを増幅させた。

そして、案内されたのは、突き当たりの寂れた倉庫のような場所だった。通路は人がすれ違えるかどうかの異様な狭さで、扉を開けると制服の男は全員が入る間、扉の向こうに見えなくなった。


“褒美の部屋”というには大層だが、そこは確かに檻ではなく“部屋”だった。相変わらず石が全面に敷き詰められてはいるものの、元居たあの牢よりは広さもあり、そして何より簡素な木製の二段ベッドが二台もあることに、僕の心は躍り上がった。ちなみに、あの牢にあった唯一の寝台は、レイによって“不公平だから誰も使うな”というルールを強いられ、どんなに疲れていても、腰が痛くても、一度も使ったことがなかった。“交代制でいいだろ”とは、レイを相手に言い出せるはずもなく、渋々みんなと同じように我慢するしかなかったのだ。しかし、もうそんな葛藤とは無縁になる。


さらに、奥の石壁には灰青の風景が映る背の高い窓があった。手入れはされておらず、薄汚れ罅割(ひびわ)れていたが、外の景色が充分窺えるほどの大きさだ。僕は部屋をひととおり見渡すと、暗がりで制服の男から受け取った火種でランタンを灯しているレイの横を通り過ぎ、夕闇の滲む窓の方へ寄って外を眺めた。

手前には密林の生い茂った黒い樹々がひと塊に見え、遠くの方はやわらかな菫色(すみれいろ)に染まっていた。


その、彼方まで続く、壮大な美しき絶望は、正しく、海だった───。


僕はその時、ようやく運命を受け止めた。そして、もう逃げる必要はないのだと、ある種の諦めを悟り、僕のいつも絡まっていた猥雑な思考は、この美しい景色の中に融けて、あの海と空の境のように曖昧になった。


「監獄のくせに、綺麗な景色だな」


傍にヘルムートが来て、窓枠に筋の浮いた細長い手を添えて言った。珍しく話しかけてきた彼の方を、驚いてまともに見た。すらりと背の高い彼の横顔は前髪でほとんど隠れていて、上向(うわむ)いた睫毛の先だけが長く覗いている。その何処となく哀愁の漂う横顔の先には、太陽が消えた空で黄金色の残映が寂しげな別れの余韻をまだ水平線に残していた。

独りでいる時のヘルムートは、気怠げで、厭世的で、その冷めた目つきがいつも他人を拒絶していた。しかし、そのアンニュイな雰囲気は時に妖艶な表情を匂わせる。華奢な身体と緩慢な仕草は、監獄のあちこちから飢えた連中の下衆な視線を惹きつけた。強かな彼はそれとなく、しなやかにそれらを躱(かわ)し、いつもレイの傍へと落ち着くのだった。

ヘルムートは、ふと垂れ目をこちらに向けたが、また窓の外に視線を戻して紅く薄い唇をゆっくりと開いた。


「最近静かだな、もう慣れたのか?」


「騒いだら殴られるんだろ、彼に」


「誤解してるよ。レイは荒っぽいけど、ああ見えていいヤツさ。俺たちを護ってくれてるんだ」


「護ってるって、どう言う意味だ」


「どうって、本当に鈍いな。俺やあんたみたいなのがこんな所に来たら、どうなるか想像がつくだろ」


僕はその時、彼に漂う哀愁の原因をひとつ察した。僕には彼のような色気の類いとは無縁だが〝痩せっぽっち〟という言葉は馴染み深い。そして同時に、初日のシャワーへ向かう途中での、あの嫌な出来事を思い出した。弱そうな人間が慰み者として目を付けられるのは、何処の世界に行っても同じことだ。


「レイはここに来て、俺をカモにしてた連中を片っ端から痛めつけて、一気にのし上がったのさ。看取のヤツらも下手に近づかない。腕が立つんだよ、元軍人だからな」


もしかすると、あの通路で声をかけて来た男を止めたのは、後ろにいたレイだったのだろうか。トラックの連中が、ちらちら見てばかりで絡んで来ないのも、いつも食堂の壁際に僕を囲うようにして座るのも、もしかして、あれもそうなのだろうか ───。


はじめの印象は最悪だったが、ひと月経って確かに思うのは、彼らがそれほど嫌いではないという素直な感想だった。でも僕は、まだ彼らのことがよく解らない。もともと“人付き合いなんて、ごみ箱からまともそうな人間を拾うようなものだ”と、考えるほど陰気で卑屈な僕に、誰かを信頼することなど不可能に近いのだ。


「君は、どうしてここに来たんだ」


それでも彼にそんな質問を投げかけたのは、何故だろうか。ふたりで眺めている美しく壮大で儚げな同じ景色が、心を波のように彼の方へと静かに寄せたのだろうか。単なる興味だったのかもしれない。もし、冷たく突き返されたら、そう言おうと決めた。

ヘルムートはしばらく黙り込んだあと、何か永い間封じていた重たい蓋を開けるように、窓に向かって大きくため息をついた。


「弟を殺した。俺の、一番の親友だっだ───」


彼は不意に、僕の方に向き直って窓枠に右肘を預け、俯いて独り言のように呟きはじめた。偶然か、敢えてそうしたのか、幸いにも絶句している僕の顔は見ないままでいた。


「俺たちは孤児で、運良くふたり揃って里親に引き取られた。でも弟が難病に罹って・・・何の取り柄も無い俺は、身体を売って治療費を稼いだ。金が掛かるからって、里親が見捨てたんだ。俺たちを引き取ったのも結局は金目当てだったのさ」


ヘルムートは繊細な指先の爪やささくれを弄りながら、抑揚もなく言葉を溢(こぼ)し続けた。睫毛で瞳は見えず、長い前髪が顔を隠し両頬に重たく垂れている。


「どのみち助からないって、わかってたんだ。最期はもう話もできなかった。あの目を、必死に訴えてくるあの目を・・・俺は、もう見ていられなかった。だから俺はチューブを抜いた ───。それから、病院のヤツらに通報されて、あちこちたらい回しにされた挙句、いろんな濡れ衣まで着せられて、ここに来たのさ」


ヘルムートは沈む声をはぐらかすように、口の端を微かに持ち上げて軽い口調で終えた。

僕は面と向かったまま、こんな時に掛けるべき言葉が見つからず、口がまごついた。頭の片隅で、何の覚悟もなくはじめてしまったこの会話を少し後悔していた。


「・・・仕方なかったんだから、君は、何も悪くないよ」


躊躇(ためら)いがちに言葉を並べると、ヘルムートは途端に視線を上げ、頸(くび)を傾けて大きな鳶色(とびいろ)の瞳でじろりと僕を見た。


「俺は自分を責めてない。あの仕事だって俺が選んだ道だ。ただ、弟が死んで寂しいだけだ」


思い上がった同情を見透かされたような棘のある口調を突きつけられ、僕は、自分を恥じた。上っ面だけの陳腐な慰みの言葉は、哀れみと蔑みに変わって、彼を不躾に刺したに違いない。ヘルムートの話には驚きと衝撃を隠せなかったが、同時に彼を羨しくも思った。僕もそんな風に、強く、自信を持ってみたかった───。


「君はすごいな、潔く自分の人生を受け入れているなんて」


返事のないまま白々しく窓の外を眺めているヘルムートに向けて言葉を続けようとした瞬間、急に背後から重い腕がずしりと肩にのし掛かってきた。


「おい、ふたりでヒソヒソ何を話してるんだ」


僕の顔のすぐ横に、掻き上げた煉瓦色(れんがいろ)の髪の毛が迫っている。彼は彫の深い眉間に皺を寄せて色素の薄い片目を見開く癖があるが、間近で見ると豹に睨まれているような迫力だった。


「何でもない、勘違いだよ・・・」


次第に力が込められていく腕を退けようと身を捩(よじ)ってたじろいでいると、ヘルムートが悪戯に笑って「内緒だよ」と、さらにレイを煽った。彼の大きな瞳に色と輝きが戻っている。


「何だよ気に喰わないな。お前はあと回しだイアン。おい、シャワーだ、行くぞ」


「え、この部屋、シャワーつきなのか?」


僕は頸(くび)を押さえられたまま、思わず声を上げた。あのむさ苦しくて窮屈な通路で散々我慢した挙句、大勢と一緒に急かされながら浴びるシャワーの時間が、僕は心底大嫌いだったからだ。


「そんなに嬉しいか?」


レイは僕の頸(くび)から腕を解き「アッシュ、先に使うぞ」と言って、ヘルムートと連れ立ってベッドの奥に見える扉の中へ消えていった。アシュレーは右手の壁際に据えられた二段ベッドの下段に腰を下ろしており、レイの声には簡単に顎(あご)で返した。

通路で最後尾を歩いていたトルソーはといえば、部屋の隅に無造作に積んである木箱の上に、いつの間にか白い岩のように座っていた。彼はここに来ても両腕を巻きつけた拘束衣を着たままだ。

僕は夜に染まっていく景色から離れ、しばらく部屋の中をぶらぶらと歩いてみたが、窓側の壁辺りに積まれた木箱と埃塗れのランタンが数個転がっているだけで、興味を引くものは特に見当たらなかった。シャワーやベッドが備えつけてある、この気の利いた部屋は、以前は看守が使っていたものかもしれない。僕はトルソーを気にしながら、転がっているランタンをすべて傍の木箱に入れて蓋をした。動けないとはいえ、念のためだ。木枠のベッドはよく見ると年季が入っていて、今にも壊れそうなほどささくれ立って朽ちていた。そして、よく見るとその横に、ゴミ捨て場から拾ってきたようなマットレスが一枚立て掛けてある。彼が二段ベッドを使うとは思えない。これはきっとトルソーのためだろう。あの拘束衣ではこのベッドの昇り降りは困難だ。僕はそのマットの裏を何気なく捲ってから、ぎこちなく息を吸い込んで、トルソーの方を見た。


「トルソー、あの時どうして僕を助けてくれたんだ」


ようやく、勇気を出してもう一度彼に声をかけてみた。また容赦なく鋭い眼光が僕を睨んだが、当然、応戦する心づもりはあった。じっと堪えて、その不気味なハーフマスクの上に光る揺るぎない炯眼(けいがん)を見つめ返した。

この監獄で彼だけが拘束衣をつけ、彼だけが老齢で、看守の扱いも彼だけには特別だった。それでも、この瞳は決して光を失わず、誰にも“従順”ではない。

───しかし、一向に返答を得られる気配はなかった。彼は銅像のように頑なに姿勢を崩さず、瞬きひとつしなかった。やはり、薄弱な僕の方が揺らぎはじめた。もしかすると、そもそも彼は上着を使われただけで、僕を助けたのはトルソーではなかったのかもしれない。そんな揺らぎが生まれたからか、次第にそうしていることに耐えられなくなり、僕は「ごめん」と呟いて顔を背けた。


その一部始終を奥で見護っていたアシュレーは、情けない僕を一瞥して「気弱だな」とでも言いたげな目で呆れた苦笑を浮かべた。

僕は俯いて、とぼとぼとベッドの方へ退散し、アシュレーの横へと腰掛けた。木製の枠組みが、ぎちぎちと不穏な音を立てる。食堂ではいつも、僕の隣は彼と決まっている。だからきっと、傍へ行っても拒まれないことを知っていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。