帰還
やさしい光。
穏やかなそよ風。
やわらかなぬくもり。
甘い微睡に、とろける頬。
なんて心地の良いベッドだろう。
雲に包まれているようだ。
身体が軽い───あの心から、解放されている───。
もう、このままずっと眠っていよう───この、甘いしあわせを、ずっと───。
淡く、揺れる、カーテン。
目を閉じているはずなのに、何故見えるんだろう・・・。
ふわりと、頬を撫でた。
在る ─── 腕が、脚が、身体が、重たい・・・。
音が聞こえて来る─── 何かが擦れるような、絡まるような、乾いた音だ。
この匂いは知っている・・・草と土と、それから・・・。
追いかけて来る臭いだ。
痛い・・・腕が、燃えるように痛い・・・手の平も、これは、きっと腫れているんだ・・・。
ああ、残念ながら、もう目を開けなければならないようだ。
しかも、あれは現実で、それに、僕はきっと、まだ、外にいる───。
瞼をこじ開けると、擦りガラスのような、点描画のような、不思議な光が目の前を覆っていた。
草とも、土とも違う、もっと複雑で、生々しい、懐かしさと拒絶が混濁する、思わず避けたくなる、臭い。
他人の臭いだ───。
熱い腕の痛みを堪え、手探りで顔に掛かった布を引き摺り下ろすと、青々と茂る、見たことがあるようでないような雑草の葉が、珍客を覗き込むように取り囲んでいた。そして、その遥か上空には、まるで天地を覆した、根のようにうねる枝葉が絡まり合い、傘のように拡がっている。
僕は、どういうわけか、何処かの叢の中に寝ているようだった。
後頭部が痛い───。
最後の記憶を呼び起こすと、同時にあの瞬間の気分と痛みがぶり返して思わず身体を竦めた。あの時、僕の上に載せられた石か土は取り払われていて、多少の砂利と誰かの藍鼠の作業服だけが顔に掛けられていた。そして、持ち主はここに居ない───。
草がさわさわと擦れ、囁き合う繊細な音の合間から、奪い、破壊し、放り投げる、傲慢な人間の気配がした。幸か不幸か、あの場所からは、そう遠く離れてはいないようだ。ゆっくりと頭を起こしてみようかとも思ったが、風が止むと、怒声と猟銃の応酬が鮮明に届いて来た。嫌な記憶がまざまざと甦る。残る気力を削がれて、僕はまた叢に頭を埋めた。
“お前が逃げれば、班の連帯責任となるぞ”
僕は疲労と気怠さに揺れる意識の中で、しばらく、ぼんやりと草や枝葉を眺めていたが、また、いつものように現実から離れ、夢の奥に逃げた。
目醒めはいつも、いつも、苦痛と不快を伴う───。
「おい起きろ、引き上げだ」
重い瞼を開こうとした瞬間、耳元で音が弾けた。あまりの衝撃に頸が驚き、一気に目が醒めた。何が起こったのか解らないまま、水面のような世界を茫然と見渡すと、真近に僕を見下ろす氷の目があった。強面の顔は鼻を鳴らすと、片頬をにやりと持ち上げた。
「初日からサボるなんてな、いい度胸してやがるぜ」
頬が脈打ってじんじんと膨張しはじめ、舌が不快にざらざらと砂利を舐めた。また、錆びた鉄の味がする。彼は、手加減というものをまるで知らないようだ。大股で屈むレイのすぐ後ろで、気のないヘルムートが立ったまま黙って僕を傍観していた。
「死んで運ばれたのかと思って死体置き場を捜したんだぞ」
遅れて到着したアシュレーが言い、傍に片膝を立てると、僕の背中に手を添えて身体を起こすのを手伝った。起き上がると、頭が鉄球のように頸にのしかかり、身体が鉛の玩具のように重かった。そして、今の台詞を聴いて、せっかく遠退いていたあの凄惨な“戦場”が、今度は、確実に現実となって脳裏に刻まれた。
「おい、それ、誰の服だよ」
起き上がった際にずり落ちた上着を指差してヘルムートが言った。彼は疲労と土汚れのせいか、さらに痩せこけて見えた。
「わからない、助けてくれた人のかも」
僕は座り込んだ脚に被さる上着を持ち上げてみた。袖口や襟のあたりは破れ、擦り切れ、繊維が毛羽立っており、藍鼠の生地は血や泥に塗られ、ほとんど元の色が失われていた。「貸してみろ」と、僕の手から服を取り上げ、レイは襟のプレートを見るなり爛々と目を瞠った。何か、面白いものでも見つけたようだ。
「おい、嘘だろ」
「何だよ、レイ」
ヘルムートが半笑いのレイの手から服を乱暴に奪い、悪戯に口を開けて僕とレイの顔を交互に見遣っていたが、しまいに、レイと一緒になって笑い出した。僕は無感情の画面越しに、ふざけているふたりをぼうっと眺めていた。子どもの頃から見慣れている、その、繰り返される光景に、もはや懐かしさすら憶えた。そして、歪んで、欠けて、止まりかけてる頭の歯車で、何故彼らがここで、こんなにも悠長に遊んでいられるのか不思議で仕方がない、と考えていた。
「見ろよ、アッシュ」
投げられた上着を、アシュレーも言われるがままにそっと見た。彼は少し驚いてはいたものの、あの二人のように嗤いものにははしなかった。僕は疲労で口をきく気にもならず、ただ、問い糺すように黙ってアシュレーの顔を見つめた。
「トルソーだよ」
「・・・え?」
「お前本当に気に入られたみたいだな、危険を冒してまで、お前を助けたんだもんなぁ」
「上着を返す時、付き合わせてくれよ、あいつがどんな顔するのか愉しみだ」
ヘルムートが揶揄い、二人は何やら嫌な余韻を残して、叢を声のする方へと歩いて行った。
さっきまで死線を彷徨っていたというのに、随分と能天気なヤツらだ───。
僕は放心状態で地面に腰を沈めていた。身体が限界を越え過ぎたのだろう。腕も脚も言うことをきかず、指を動かすのすら億劫だ。このままここに、根が生えてしまうかもしれない。
「もう戻ろう。用を足すって言って離れて来たんだ」
「・・・戻るのか?」
「点呼に遅れる。あいつら、銃をこっちへ向けてるぞ」
“もう、このまま・・・”と言いかけて、砂と一緒に言葉を呑み込んだ。アシュレーは少し向こうを気にしながら僕の手を取って、ろくに顔も見ずに有無を言わさず立ち上がらせた。相変わらず、腕捲りは左腕だけだった。
「死ななくてラッキーだったな」
返事を返さない僕の顔を覗き込んで来たが、彼は、それ以上は何も言わなかった。
重い足が草根に絡まって倒れそうになると、アシュレーは僕の腕を自分の頸に回して半分担いで歩いた。「ありがとう」と呟くと、彼は少し僕を気にして儚く笑った。
何故、アシュレーがやさしくしてくれるのか、僕には解らなかった。
でも、解らない方がいいような、何処かで、そんな気もしていた。
夕映えの中、僕たちは元来た凸凹道を戻り、何とか形を保っているぼろぼろの身体で石の監獄へ戻った。
僕はトラックの荷台でトルソーに上着を返した。レイとヘルムートが仕掛けておいた悪戯の行方を見護る子どものような顔つきで、その一部始終を窺っていたが、トルソーはすべての期待を裏切って、僕と面と向かっても変わらず冷淡だった。レイは、口籠る僕を辛抱強く待っていたが、次第につまらなさそうに白けはじめ、到着する頃には飽きてすっかり顔を背けていた。何か、ひとつくらい訊ねてみようと思っていたのだが、助けられた恩にかまけて大した覚悟も用意していなかった僕は、トルソーの縮れた針金のような髭に阻まれ、ひと言でも間違えば目を抉り取られそうな物々しい眼光に圧されて、敢えなくすぐに諦めた。
太い丸太が連なる門扉を重々しく押し開けて、僕たちを乗せた最後のトラックが通り終えると、門は奇たたましい怪鳥の叫喚を上げ、地鳴りのような轟音と共に沈黙した。
監獄の敷地へ降りると、牢のある棟ではなく、今度は反対側の棟へと促され、連れて行かれた。向かいの棟にも変わらず同じ色をした石の壁が並び、まるで迷路のように狭く折り曲がり、入り組んでいた。
僕は頭ひとつ飛び出たレイの背中を目印に、後をついて歩いていたつもりだったが、足取りが覚束なかったためか、途中から逸れてしまったようだ。人波に流されて角を曲がると、途端に狭くなった通路に無理矢理一列に押し込まれ、蒸れた熱気に挟まれた。目の前のざんばらな後ろ髪が鼻に当たり、後ろの吐息を後頭部の毛先と頸筋で感じる。汗や皮脂や呼吸が放つむさ苦しい臭いに、息をするのが嫌になり、既に吸い込んでしまった空気で、僕は一分としないうちに気分が悪くなってきた。石の中に顔を埋めた方がまだマシだ。
少しでも彼らを避けるようにと列の横に顔を出し、前方で一体何が行われているのか覗き見た。
数人先に、ヘルムートとアシュレーの頭と腕が見える。すると、その前方から後方へ伝染するように、動きの波が押し寄せて来たかと思えば、彼らはいそいそと上着やシャツを脱ぎはじめ、無防備な姿になった。怪訝に思いながら、さらにその先へ目を凝らしてみると、裸の囚人たちは順番に石の柱の間に消えていた。あの先は───。
「お前、新入りか?」
咄嗟に頸を竦めた。不快な息が髪を揺らしたのだ。聞き覚えのない声だ───。思わず顔の筋肉が引き攣り、僕は振り返らずにじっと息を呑んだ。真後ろのざらついた声は、僕の懇願とは相反して、ゆっくりと耳元に声を近づけて続けた。
「何か持って来たんだろ。こうして出逢ったのも縁だ、俺にも分けてくれよ、仲良くしようじゃないか」
「・・・何も、持ってない」
「シャワー中は監視の目がない。断るなら・・・解ってるな?」
「僕は、本当に・・・」
その瞬間、ひゅっと息を吸い込んだかと思うと、後ろの男はぴたりと静かになった。不快な体温が耳元から離れてゆく。胸を突き破って逃げ出しそうなほど動揺している心臓を抱え、背後にすべての意識を集中して耳を欹ていると、急に前の男が進みはじめたので反射的に身体が前に引っ張られ、後ろのヤツを一気に離すように速足で進んだ。その後も足音はぞろぞろと続いて来たが、それ以降、後ろの男は話しかけては来なかった。しかし、心臓はすっかり元のリズムを失い、小さな安堵と肥大した不安がぐるぐると頭の中を迴っている。
早く牢に戻りたい。あの中の方が安全だ───。
「次の十人、入れ。シャワーは三分間、時間厳守だ」
順番が近づくに連れ、僕の緊張は今度は前一方に注がれていた。執拗に先行く囚人たちの動きを観察していたので、前に倣って一気に服を脱ぎ、仕分けされた籠に上着、シャツ、ズボン、下着と順に投げ込んだ。そして看守の冷たい命令を聞き、裸を曝した十人が、剥き出しのシャワーヘッドとパイプだけが並ぶ、石の四角い部屋に放り込まれた。あの男の言った通り、確かに、監視の姿は無かった。
男たちは部屋に入るなりすぐに壁に向かった。僕は何となく残されていた、枯れたひまわりのようなシャワーヘッドの前に立ち、そわそわと左腕を摩りながら“三分、三分”と気持ちだけが先走っていた。しかし、いくら目を這わせて探しても古びた配管に蛇口やバルブは見当たらない。すると突然、勢いのないぬるい雨が黒い穴から降り注ぎはじめ、男たちは一斉に、まるで競うようにばたばたと急いで身を清めはじめた。出遅れた僕は斜め前の石の窪みに残っていた、濡れそぼった白い石鹸取ると、傷めた手の平であちこちの痛みに堪えながら、大急ぎで身体中を洗った。
三分後、奥の扉が開かれ、戸口に立つ看守に指図されて、まだ何処か洗い足りない、びしょ濡れの裸のまま端から順に連れ出された。そして今度は小さな鏡の前に立たされると、監視の下、小さな剃刀で何とか髭を剃り、また染みのついたシャツとズボンを手渡された。そして、押し寄せる囚人に何度もぶつかり、突き飛ばされ、そのまま流されるように棟を蹴り出された。
外気を肺に吸い込むと、ほんの少しだけ気分が良くなった。樹々を感じる空気はひんやりと静まり、微かな夜の香りが混じっている。今朝、見惚れるほどに神々しかった、あの高々と聳える山は、宵闇に佇む死神のような、黒い裾を広げた真黒な影になっていた。すっかり夜の迫った薄暮の中庭には、猟銃を持った制服の男たちが僕たちを睨みつけて待ち構えており、また、痛む脚に酷な鞭を振るった。執拗に追い立てられながら向かいの棟に移り、僕はまた今朝の食堂に連れて行かれた。
夜の食堂は、今朝と同じように豊富な食べ物が並び、今朝と同じように、ざわついていた。朝と違うのはランタンの灯で部屋が褐色の影と琥珀色に浮かび上がっていたことと、少し人が減っているように感じたことくらいだ。そこに、白い光の解放感はなく、窓は濃紺に塗り潰され、まるで地下室か防空壕のようだった。
僕は適当に食べ物を取って同獄の彼らと隅の席に座っていたが、食欲は無かった。黙り込んで俯いている僕を慰めるように、彼らは何も言わず、ただ、そこに居た。
目の前で片肘を突いて、がつがつと喰べていたレイが、空になったトレイを持って立ち上がり、僕の肩を軽く叩いて立ち去った。ヘルムートは僕の方を気怠げに眺めていたが、僕に掛からない程度の控えめなため息をついて、彼もまた席を離れた。みんな、あの牢に戻るようだ。
アシュレーは、喰べ終えても何故か僕の隣に残っていた。視界の端でゆっくりとカップを持ち上げる、穏やかな白い手が何度か見えた。それでも彼は最後まで、僕に声をかけて来ることはなかった。




