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美しき監獄  作者: 八尋 世暇
Verse

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5/24

労働

 鬱蒼とした密林を抜け、僕たちは半分裸になった山肌のすぐ傍の平地に降り立った。切り開かれた上空に陽陰(ひかげ)は無く、足元は踏み均(なら)され、萎えた草の生育の衰えに傲慢な人間の蹂躙(じゅうりん)を見た。それに立ち向かうかのように、目と鼻の先には先住の草たちが見事に繁茂し、中には二メートルを超えていそうな背高の草までもが伐採地を取り囲むように蔓延っている。その生い茂る多種多様な雑草の中に、奇妙な巨木がただ一本だけ傍観者のように佇んでいた。大きく広がった燃えるような枝葉を支える太く歪(いびつ)な幹に目を凝らすと、多くの細木が複雑に絡まり、ひと所に寄り集まって一本の巨大な大木と成っていた。その巨木と叢(くさむら)に阻まれた遠くの背景は、またしても空の一色だ。草や土の陸の匂いに混じって、濡れた潮の香りが風に漂い、時折鼻先を掠めた。ここへ来る道中海は見なかったが、登って来たということは、この先は崖にでもなっているのか ───。


“一度逃げてみれば、ここの有り難みがよく解るだろう”


あの台詞の意味がだんだんと現実味を増して、もうすぐそこまで躙(にじ)り寄って来ている。


トラックを降りるなり、囚人たちは指示を仰ぐでもなく習慣づいた流れで切り立った山肌に向かって班ごとに整列した。その動きを察知して、今度は遅れを取ることなく僕もアシュレーのすぐ後ろについて待機した。制服の男たちは既に荷下ろしを終え、何やら囚人たちの前方で木箱を並べはじめている。黒艶の制帽を被り、黄鼠(きねず)の上着をベルトで締め上げ、黒い長靴にズボンの裾まで入れ込んだ暑苦しい姿で作業するさまは、見ているだけで息が詰まる。ほかの制服の男たちを探すと、山肌の麓(ふもと)の方で別の作業に着々と取り掛かっていた。長い支柱を立てている様子からすると、あれはテントだろうか。

砂利を蹴る荒い靴音に気づいて正面に向き直ると、二人の男にに道を開けさせ、肩を怒(いか)らせた四角い顎の男が傲岸に胸を張って歩いて来た。足を踏み鳴らして木箱の高見に上ると、右には黒い鞭を巻いて持ち、左腕に沿わせていた猟銃を肩に担ぎ変え、顎を突き上げて優然と囚人たちを睨み回している。

僕の頭は既に、どうやってここから逃げ出すか、という考えで埋め尽くされていた。叢に逃げるか、密林に戻るか、海があるなら一か八か飛んでみるか、荷台から飛び降りて逃げれば良かったという後悔にも駆られた。あれは、あの悪趣味な凶器は何だ・・・ただの脅し道具なのかもしれないが、だとしてもこの状況は最悪な結末しか想像できない。


「今日の作業は第一坑道で行う!“アルファ”、“ブラヴォー”、“チャーリー”は採掘に向かえ!“デルタ”“エコー”“フォックスロット”は運び出しを、“ゴルフ”と“ホテル”は積み込み作業だ!直ちに取り掛かれ!」


囚人たちは命令が下ると同時に動き出し、各自持ち場につきはじめた。威勢を張る男の眼下で、僕の意識は必死に逃げ道を探しており、怯える身体は最後まで抵抗してその場に足を埋めていた。


「おい、ヘタな真似するなよ、少しでもサボってると容赦なくアレで撃ってくるぜ」


冷や汗を滲ませている僕の縮み上がった鼠のような鼓動に気づいたのか、いつの間にか傍に居たレイが頸(くび)を屈めて小声で言った。その追い討ちを掛ける言葉とは裏腹に、顔には余裕の表情を浮かべており、僕の思考はさらに混乱を増した。レイに言われて、制服の男たちが手にしている猟銃を恐る恐る見遣った。その往生際の悪い姿が、よりにもよって高台の四角い顎の男の目に留まってしまい、その右手にみるみる怒りが込み上がってゆく。


「何を突っ立ってる、さっさと動け!」


男が鞭を振り上げたかと思うと、凶暴な破裂音が瞬時に風を裂いた。反射的に閉じてしまった瞼(まぶた)を開けてみると、足元の草が無惨に千切れ、地面が痛ましく抉れている。宙で撓(しな)った黒い蛇の残像に締め上げられ、放心状態で立ち尽くす僕の横で、レイが声を押し殺して笑っていた。


「先が思いやられるな」


「レイ、あんまりふざけてるとあんたも危ないぞ」


ヘルムートが向こうから歩いて来て高台を背に監視を遮り、軍手と大きなシャベルをレイに押し付けて腕を小突いた。この状況で笑っているレイを理解するより先に、生存本能が保身と無難な行動を急き立てた。つまり無意識のうちに、目立たず、逆らわず、従順でいるという選択を下していたのだ。


「それ、要るのか、何処にあるんだ」


慌てて辺りを見渡していると、急に後ろから肩を掴まれた。


「こっちだ、ついて来いよ、指示が出たら先ず道具を持って歩き出せばいい。そうすれば目をつけられない」


振り向くと、前髪を後ろで大雑把に束ね、額を露わにしたアシュレーが半身を翻しながら喋っていた。彼は袖を肘まで捲り上げていて、爽やかな白い腕が陽射しの中に曝(さら)されている。しかし何故かそれは左腕だけで、もう片方は袖を手首まで下ろし袖口のボタンまできっちり留めていた。アシュレーは足速に歩き、トラックの傍に並ぶ道具入れの中から素早く適当な軍手とシャベルを取って僕に手渡し、またすぐに背を向けた。


「ありがとう─── 似合うね、それ」


無言で振り返る頭を一瞬指差すと、アシュレーは少し呆れたように口の端で笑った。


「俺や看守に媚(こ)びたって無駄だぞ。ここでは口を閉じてろ」


僕はまた、しくじった。しかし、項垂(うなだ)れている場合ではない。あの鞭が、銃口が、今も僕をつけ回し、監視している。入り乱れる藍鼠(あいねず)の作業服の囚人の中から随分先の方にレイとヘルムートの背中を見つけた。彼らはもう既に洞穴の入口付近に着いている。今し方目の前に居たはずのアシュレーは軽い駆け足で人混みをあっという間に掻い潜って行った。整列の時までは気配のあったトルソーも、いつの間にか姿が見えなくなっていた。


“だが、お前が逃げれば班の連帯責任となるぞ”


また、あの男の言葉が、晴天の空から黒い雨のように降り掛かってくる。

─── 僕は走った。重たい道具を担いで巌山(いわやま)へと前進する囚人たちの中で狼狽える新入りは僕だけに思えた。明らかにその場から浮いていたが、誰も僕に見向きもしなかった。こんな場面では揶揄(からか)われたり絡まれたりするのが僕の人生では当たり前だったが、ここではそれが無い。皆、誰の顔も見ず、無心というよりは放心に近い張り詰めた緊迫感が彼らを無関心で覆っている。

これだけの人間が同じ場所に居ながら、互いに見えていないような孤独な素振りは、何処か異様で不思議な光景だった。


藍鼠の作業服に混じって同獄の彼らの後を追い、剥き出しの山肌を穿(うが)った物々しい坑道の中に、意を決して入っていった。坑口は縦二メートル、横三メートルほどで、入口付近はまだ明るく、崩落防止に木枠を埋め込んである。しかし途中、三方向に分岐した地点を越えると、洞穴は奥へと向かうほど細く狭くなってゆき、進めば進むほど終焉に向かって歩いているような絶望が徐々に頭上から落ち迫って来る。低い天井に気を取られていると、突然無理に追い越して来た囚人に驚いて、ごつごつとした壁に肘をぶつけた。前をのろのろと歩く僕に我慢ならくなったのだろう。袖の下で皮膚が削れたような、嫌な熱さを帯びている。悠々と前を行く男の背中を、僕は人知れず憎んだ。最後尾が嫌だったのか、邪魔者が消えて気が済んだのか知らなが、割り込まれたせいで、僕はここから否応無しに脂っぽい髪を乱した猫背を追い続ける羽目になった。傷つけた壁にも八つ当たりを向けた。滑らかさとは無縁の粗削りの岩肌は、機械による掘削ではないことは明らかだ。密集した歪(いびつ)な影絵と、ざらざらとした凹凸が延々と続く不気味な洞窟からは、土と汗に塗れて過酷に労を為(な)した生々しい呻き声が岩という岩から滲み出ていた。


次第に、金物の擦り合う音や掘削の甲高い音が聞こえはじめた。黄土色と鋼色が入り混じる斑(まだ)らの壁には先の曲がった太い杭が打ち付けられ、灯りが途切れない間隔で、あの石の監獄よりも少し大ぶりのランタンが下がっている。ひとりすれ違うのがやっとの狭さで服を引っ掛けないように歩くのが厄介だが、その灯りのお蔭で洞窟の奥は思ったよりも明るい。

ひと際灯りが集まる突き当たりが見えて来た辺りで、トルソーとすれ違った。一輪の手押し車に土石を盛り、脇目も振らず引き締めた顎を引いて一直線に通り過ぎた。あっという間のことに、彼を知る情報は何ひとつ得られなかったが、精励な一面だけは伺えた。


明るさが閉塞感を鮮明に照らし出す袋小路に到達すると、男たちが鶴嘴(つるはし)や鍬(くわ)を手に、立ちはだかる山壁を果敢に掘り進めていた。彼らの背後には制服の男が二人、黒い拳銃と鞭を手にしており、変わらず横柄な顔つきで対極に見張っている。その足元には滑車に乗った木箱や、注ぎ口のついた缶、予備のランタンなどが転がっており、制服のひとりはその道具類を護る番犬のように、大股を広げて木箱のひとつに腰掛けていた。その退屈そうな視線の先で土石を積み込んでいたレイは、シャベルを壁に立て掛けて、山盛りの手押し車をひょいと持ち上げた。その場に留まり、手応えを確かめるように持ち手を何度か握り変えていると、その横で作業していたヘルムートもちょうど積み終わったようで、シャベルを置いて手押し車を持ち上げ、ふたりは着いたばかりの僕の方へと歩いて来た。レイは眼窩(がんか)の陰から僕を見つけて豹(ひょう)のようにじっと睨みつけながら近づいて来ると、目を泳がせて固唾を呑む僕に、一瞬ニヤリと片頬を歪めて通り過ぎて行った。行き場のない安堵と小さな怒りを滲ませる僕に、今度は冷ややかな駱駝(らくだ)の一瞥を浴びせ、ヘルムートもまた坑道の出口へ向かった。

誰も僕に作業の内容を教える気はないようだ。


アシュレーを探すと、彼は制服の男の前を堂々と横切り、奥の壁際で作業をはじめていた。そこには山を成す雑多な土石とは別に白濁した土石の塊が積まれている。壁に立て掛けてあった赤錆の目立つ手押し車を起こすと、シャベルを地面に擦るようにして土石を掬い上げ、手押し車へ積み込みはじめた。その様子を具(つぶさ)に観察していた僕は黙々と作業するアシュレーに倣い、空きの手押し車を見つけて、同じように白濁の土石をシャベルいっぱいに掬った。しかし、その負担は予想以上の重さで無防備な腕にのし掛かり、浮いたはずのシャベルが一瞬で地面を打った。早くも脆弱な脳裏に挫折が過(よぎ)った。しかし、レイやヘルムートたちを見失った今、命綱はアシュレーだけだ。僕は何度も何度も腰を屈め、その度に腕を振り上げ、口に砂塵を吸い込むのも構わず、少量の土石をせっせと積み込んだ。まだ山とは言えない程度に積み上がった頃に、アシュレーが動いた。手押し車の両端を持って大股で出口の方に向かっている。僕はすぐさま手押し車を回し、彼の後について行った。


煌々と照らす琥珀色に目が灼《や》け、わずかな闇にも巣食う黒い影に取り憑かれそうになりながら、次第に遠ざかってゆくアシュレーの背中を懸命に追った。両手を軽く広げた程度の手押し車だが、土石の詰まった手押し車は異様な重さだ。唯一の車輪は回りが硬く、油断するとすぐに蛇行し、そのうえ石を踏むたびに大きく傾いて何度も転倒の危機に直面した。その度に、前を行くアシュレーの背中がだんだんと遠くなり、不安が募る。大股で砂利を蹴り、力いっぱい押し進んだ。もう筋肉が千切れそうだ。貧弱な僕の両腕は、常に全力で必死だった。

そんな調子でどうにか進み続け、やっとのことで三本道の合流地点が見えはじめた頃だった。多少気が抜けたのか、合流付近に居た制服の男に気がつかず、足を緩めて思い切りため息を漏らしたところで「おい休むな、撃つぞ」と声がして、息を呑んで顔を上げた。壁に寄り掛かっていた男は腰の黒い拳銃を抜き、黒い鍔(つば)の下から下卑(げび)た目で獲物を睨んでいる。蛙のように蹲(うずくま)る見窄(みすぼ)らしい僕を疎《うと》ましく思ったのか、男が煩わしそうに銃口を振ったのと同時に、僕は手押し車に飛び掛かる勢いで、なり振り構わず出口の方へ急いで逃げた。


しばらく、虚しい金切り声のような車輪の音だけが聞こえていた。あれから、どれほど進んだのだろうか・・・。いつしか頸(くび)を垂れ、ただひたすら足だけを前へ前へと引き摺って歩いていると、足元に白い光が差しはじめた。突然生気が甦ったように晴れ晴れと顔を持ち上げると、あと十メートルほどのところに、清々しく開放的な出口が、白金の陽光に照らされて待っていた。


しかし、坑道の外に出ると、また次の困難が待ち受けていた。制服の男たちの怒号や鞭を振り鳴らす爆発音が降って来る中、行き交う囚人という囚人が、大荷物の相手を避ける気もなく行手を遮り、疲労した身体に平気で体当たりして来る連中に何度もよろけ、何度も土砂をぶち撒けそうになった。その度に、岩を起こすような気力を奮起して体勢を戻さなければならなかった。

藍鼠(あいねず)の障害物どもを押し除けながら、ぐらぐらと不安定な手押し車を睨みつけ、ちらちらと視線を上げて前方を確認していると、平地の端に駐車されたトラックの横に大型の荷車が見え、そこでアシュレーが足を止めた。どうやら、あそこまで辿り着けば一旦はこの腕の限界から解放されるらしい。

運んできた土石を荷車へ移しているその様子を観察しながら、僕は力を振り絞ってアシュレーの傍まで一気に歩み寄った。


アシュレーは遅れて来た僕を見ると、涼しい顔で軽く顎を上げて見せた。その示す先には地面から四十センチほど浮いた荷車と、そこへ斜めに立て掛けた木板がある。この限界の腕で、今からそこへ持ち上げろというのだ。僕が尻込みしていると、用を済ませたアシュレーが手押し車を押して歩み寄り、今度は視線で高台で見張る四角い顎の制服の男を指した。

男は凶暴な鞭を玩具のように振り回していた。土を抉り、宙を裂き、その度に轟音が弾け、囚人を掠めて呻き声を漏らすと、今度は「足を止めるな」と、さらに鞭を振って追い立てている。


“働くか、死ぬか、逃げ場はないぞ”


そう、言われたような気がした。

灼けるような腕の痛みを堪え、がむしゃらに踵(かかと)を踏ん張って手押し車を押し上げた。土石はごろごろと雪崩れ込みはじめ、似たような土石の山に混じり、僕が必死に運んだ石たちはもはや、どれがどれだか見分けがつかなくなった。ただただ積み上がってゆく瓦礫の山を虚しく見つめていると、雲間から気まぐれに覗く陽射しで、時折、白濁した土石の中に、ざらざらとした輝く黄色いものが見えた。不審に目を凝らしていると、重みで傾いた手押し車に引っ張られ、危うく一緒に自分も投げ込みそうになった。


それから、延々と同じ作業が続いた。何度も何度も同じ道を往復し、荷車が満杯になると、今度はそれを四人がかりで大型のトラックへ荷車ごと積み込み、車輪を固定した。そして、また新しい荷車が現れた。その空っぽの荷車を見る度に、僕は達成感よりも無常の切なさを味わった。

八往復ほどで、もう体力の限界を感じていた。歩いてはいるようだが、誰の顔も見えず、誰かの声も音も、何処か遠くの方で聞こえていた。背後で怒声とともに鞭の衝撃波が髪を掠め、思わず頽(くずお)れかけたが、何とか根性で持ち堪えた。誤って転ぼうものなら、あの鞭か銃弾が飛んでくる。緊張で口が渇き、呼吸も浅くなってきた。粗悪な軍手に擦れる手の平と、徐々に千切れてゆくような灼(や)ける筋肉の痛みに歯を喰いしばり、冷や汗を滲ませ、必死に意識を保った。そして、眩暈に視界が暗みはじめた頃だった───。


「休憩!」


気のせいか、そんな怒声が響いた。空耳を疑って作業を続けていると、坑道の奥から手ぶらの囚人が亡霊のようにぞろぞろと歩いて来る。手押し車を橋に寄せておき、彼らに紛れてついて行くと、テントの下の木箱にステンレスのコップが並べてあり、先に着いた囚人から班ごとに一杯の水を呑み干し、また順に作業に戻って行った。口から溢れ出すのも構わず、浴びるように水を流し込むその男たちの様子を見ていると、ますます渇きが増し、唾を何度も呑みながら待ち構えていた僕についに順番が回って来た。慌ててコップを掴もうとするが、痛みと震えで力が入らない。言うことをきかない指を諦め、両手の平で大事にコップを抱えて一口含むと、干涸びた身体にじんわりと染み渡り、枯れ草が瑞々しく甦るように気力が湧いてきた。しかし、余韻に浸る暇もなく、すぐに作業の再開を命じられたが、その一杯で、僕は命を救われたような気になった。


その後は、あの潤いの機会は二度と訪れず、汗と疲労で涸れ切った身体で気の遠くなるような作業だけを続けた。当然、時計なんてものは無く、太陽の位置だけがこの世界に時間を存在させていた。時折すれ違うアシュレーは、相変わらず淡々と作業を続けている。陽焼けで肌が赤らみ、額に汗を滲ませ、あちこち土埃で汚れてはいるが、監獄暮らしとはとても思えないほど清涼な空気を纏(まと)っていた。見かける度に意識を向けたが、彼が目を合わせることは、ほとんどなかった。

レイは両袖を捲り上げ、筋肉隆々の逞しい腕で、僕の倍量の土石を積み上げた手押し車を平気で運んでいるのを見て絶句した。ある時、向こうから歩いて来たその胸元に光った銀色のプレートのような物に目が行った。屈んだ際にシャツの下から出てきたのだろうか、あんな目立つ物に今まで気がつかないはずはない。近くまで来ると、それはおそらくドッグタグだろうということが見て取れた。しかし、それにしては枚数がやたらと多い ───。シャツの張り付いた胸元に釘付けになっている僕の視線に気づいレイは、厚い唇を思い切り歪め、怪訝な目つきでまた僕を睨んだ。

ヘルムートは折れそうなほどに細く長い腕に、筋と血管をありありと浮かび上がらせながら、荷車へ土石を移している所を見かけた。傾斜の板を降りると、顔に垂れた長い黒髪をさっと耳に掛け直していた。その様子を遠くから見つめていた僕に気づき、真顔でじっと見つめ返しながら、ずり落ちた袖を捲し上げていたが、それが終わると興味など欠片もない様子で、真横を通って立ち去った。

彼らはもう慣れてしまっているのか、疲労も苦痛も恐怖すらも超えた、別の世界に生きているようだった。


陽が傾くにつれ、状況はますます悪化した。僕が耳にした銃声は数知れない。皆、藍鼠の服に黒々と血を滲ませていた。洞窟の奥で鞭に打たれ裂けた生々しい皮膚を見た。土に染み込んだ赤錆の臭いも嗅いだ。さっきまで鶴嘴を握っていた手が、手押し車からだらりと覗いているのも見た。地面は、だんだん歩き辛くなった。それでもさすがに、人を踏むのは気が引けた。何処かを撃たれ、うつ伏せに倒れ込んだ土塗れの男に足首を掴まれたりもした。しかし僕は、憐れみの視線を向けてそっと振り解いただけで、手を伸ばす期待を滲ませたものの、結局実際の行動には移せなかった。すぐ傍の頭上から、四角い顎の男の威圧をひしひしと感じていたからだ。僕が成す術もなく立ち尽くしている目の前で、足掻く男の背中を目掛けて発砲し、壇上の男は平然とした顔で僕を見た。


「お前の代わりは幾らでもいるぞ、足を止めるな!」


人目があろうと無かろうと、誰もが黙約を結んだように言葉を殺していた。陽の下では怒号と発砲音が轟(とどろ)き、悲痛な呻き声が神経を追い詰めた。逃げ込んだ洞穴では、不規則な金属音が洞窟中を緊張感で満たし、投げ込まれる土石の崩落音、油の切れた車輪の悲鳴、荒い砂利を踏み荒らす徒労の音だけが、繰り返し、繰り返し、延々と鳴り響いた。


僕はあれから何十往復もした道のりを、疲れ切った覚束ない足取りで手押し車を押していた。歩み進んでいると先端が何かにぶつかり、脳が遅れて荷車に辿り着いたことに気がついて引き摺る足を止めた。そして、気休めに大きく息を吸い込んで、板の傾斜を上ろうとしたその時、右足が滑って肩から体勢を崩し、手を突き損ねてばらばらと身体中に土石を浴びた。しまった、と頭を起こしかけた瞬間、さらに重い衝撃が潰れた腹の上にのし掛かってきた。後に続く囚人は転んだ僕を迷いなく蹴り落とし、黙々と作業を終えて去って行った。土石と一緒に荷車の横に投げ出された僕は、積み重なった囚人たちの背に覆い被さっていた。

起きなければ・・・起きろ、起き上がれ!・・・ あの男たちが来る、とどめを刺しに来るぞ ───。

口の中まで砂と錆びた鉄の臭いに塗れていた。どんどん息が苦しくなる。気力を奮い立たせようにも焦るばかりで、力は底を尽き、身体に思うように力が入らない。


“アシュレー、助けてくれ・・・レイ、ヘルムート、誰か ─── ”


唯一動かせる指で石を押し除けようと踠(もが)き続けたが、あまりの苦痛に、ふと、力が抜けた。


もう、ここで、人生を終えておくのもありか ───。


その瞬間、突然腕を掴まれ千切れそうな痛みが襲って来た。そして一気に身体が浮き上がったかと思うと、どさっと尻もちをついた。無意識に腕で顔を覆ったが抵抗する間も無く黒い陰が降って来て、また胸や腹に土か石の感触がどさどさと積み上がるのが解った。

僕はもう声を上げる力もなく、辛うじてか細い息だけを続けていたが、朦朧(もうろう)とする頭の隅に、何度も見つめては、何度も目を逸らした空っぽな人生の、本当の終わりを意識した。


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