摩擦
雨は夜になっても降り続いていた。荒々しく上空を駆ける風の遠吠えが、石の湿った洞窟の部屋に低く響き渡っている。それは夜が更けるにつれて激しくなり、雨粒が機関銃のような音を立ててばらばらと窓ガラスを打ちつけていた。目を閉じると、まるで弾丸が飛び交う戦闘最中の防空壕に潜んでいるかのような感覚に包まれた。逃げ込んだ独りの兵士が慄える身体を壁に押し付け、重い銃を抱いて、生きたまま身を裂かれる痛みを想像しては、孤独に暗闇の中で怯えている───。彼は見たのだ。鉛に砕かれる骨を、破れた皮膚を、そして赤黒い泥に塗れ、人が壊れた人形のように転がるその惨状を。苦痛に歪み、咽び泣き、懇願する、たくさんの痛ましい顔を。
僕は嫌だ ─── あんな風になりたくない、僕には無理だ、闘えない。
兵士の切迫した恐怖心が現実の指先から急速に迸ってきたので、僕は悪夢を振り払って目を開けた ───。落ち着くこうと、大きく息を吸い込んだが、湿気のせいか、重く澱んだこの場の空気のせいか、酸素は思うように肺まで届かずまだ息苦しい。もう一度気管を押し広げ、さらに深く呼吸した。
あんな空想が広がったのは、レイの頸にぶら下がる、剃刀の刃に似た銀色のプレートの事を考えていたからだろうか。
向かいの二段ベッドに腰かけるレイをちらりと見た。大きく開いた両膝に肘を乗せ、隆々とした肩の筋肉を怒らせて座っている様は、さながら出動に備えて待機する勇ましい軍人のようだ。しかし、その項垂れた頸筋には節榑立った手が力無くあてがわれている。
僕は彼に気づかれないよう顔を背けて、そっとため息をついた。シャワールームに閉じ籠ってしまったヘルムートはしばらく出て来そうにもなく、制服の男と廊下の奥に消えたアシュレーも戻る気配はない。部屋の隅で石膏像のように動かないトルソーがこの場を取り成してくれるはずもなく、僕は間話の糸口を探るように奥の扉や窓の方をひと通り見渡してから、特に遣り場もなくまたレイに視線が戻ってきた。彼は相変わらず俯いたままで、頭を傾け、自分を慰めるようにゆっくりと頸の後ろを撫でている。いつも堂々と胸を張り、片頬を上げ、斜に構えた余裕を湛えているレイが、今はまるで牙を抜かれた獣のようだった。
「お前ら、抜け駆けしようとしたのか?」
唸るような嵐の音と疲れ果てた囚人たちの低いざわめきが籠る食堂の窓際に僕たちは揃って座っていた。いつもは落ち着くこのレイの領地も、今夜は立て付けの悪い窓に脅かされている。否応なく奥の席へと押しやられた僕のすぐ耳元では、天井高く伸びた窓ガラスが暴風に揺さぶられ、頻りにガタガタと不穏な音を立てた。他の設備の建て付け具合から見ても、これも粗雑な取付に違いない。窓枠が外れて今にも倒れて来るのではと、僕は風が硝子を叩くたびに窓の方をちらちらと窺った。
それにはレイの圧力から気を逸らす意図もあったが、さして効果はないようだ。石壁を伝う鉄棒から落ちるランタンの灯りが、うねりを帯びた煉瓦の髪を焔のように猛々しく照らしている。眉間には険しい皺が彫り込まれているものの、氷冷の瞳は珍しく翳りを帯びていた。
彼は帰りのトラックからずっとこんな調子だ。
「二回も生きて戻るなんて、実はそういう才能に恵まれてるんじゃないのか」
僕は俯いたまま視線だけを声の方へ向けた。ヘルムートは食事を終えたらしく、細い顎を持ち上げ見下すように頬杖をついた。彼に落ちる琥珀の灯りはその顔に見る者を惑わす誘惑の艶を纏わせている。落ち窪んだ眼窩が濡れた瞼を縁取り、長い睫毛が頬にも繊細な影を描いていた。
「───でもどうして今ここに居るんだよ、イアン。怖気づいたのか?まさか、俺たちへの同情だなんて言わないよな」
悔しくも嫌味に勝る蠱惑的な目元に気を取られていた僕は、彼が台詞を言い終える頃にはその顔が見えなくなるほど深く顔を伏せていた。何を期待していたのか、ヘルムートが僕たちを庇うはずなどない。そもそも彼は今朝から何かとため息を漏らし、レイにすらぞんざいな態度を顕にしていた。虫の居所が悪いのだ。僕たちへの態度は半ば鬱憤ばらしにすら思えてくる。理由を訊ねたところで素直に答えてはくれないだろうが、彼を鬱屈させる何かがその肚の底に澱んでいるような気がしてならない。
ふたりから詰め寄られながらも何とか平気なふりをして、千切ったパンをぎこちなく口に含んだ途端、窓硝子にも怒鳴られ、飛び上がった喉に噛み損ねたパンが塊のまま降っていった。
まるで硬い粘土を喰わされているような気分だ・・・。
僕は手を止め、助けを求めて隣のアシュレーをそっと見遣った。皮膚の薄い頬は蒼白いままだが、静かな瞳は皿に残ったスープだけを見つめていた。その手が左腕の傷に触れようとするたびに緊張が走ったが、シャワーを浴びたお蔭か今はそれも落ち着いている。あの傷には触れないようきつく包帯を巻いておくべきだ。それに、感染症になる前に早く手当てをした方がいい。
いつもの冷静さを取り戻してゆっくりと食事を摂るその様子に安堵する傍ら、この孤立無援の針の筵の時間は、もうしばらく長引きそうだと腹を括った。
場を|わきえてか単なる嫌がらせなのか、僕たちふたりへの彼らの遠回しな攻撃の真意には気づいてはいたものの、当のアシュレーが頑なに口を噤んでいたので、僕もまた沈黙を押し通すことしかできなかった。
僕たちはあの雷雨の中、巨木の傘の根元で何時間か湿った地面に身を投げ出していた。アシュレーは悪夢でも見ていたのか、時折、目を閉じたまま寒そうに身体を震わせ、怯えたような呻き声を上げていた。僕はその隣で彼が急に起き上がったり暴れたりしないよう辛抱強く見張り続けた。そのせいか寝ていても神経はひと時も休まらなかった。
一か八か、このまま海に逃げてしまおうか ───。
そんな不埒な衝動が何度か脳裏を掠めたが、そのたびにレイとヘルムートのことが心に絡まり、思い留まった───。やはり、見捨てて行くのは気が引ける。僕を一応仲間として見てくれているようだし、口や態度の悪さはさておき、根はいいヤツらだ。それに、今のアシュレーには屋根とベッドが必要だ。そうやって、彼らを言い訳にした。
“死ぬ気なら何でもできるだろ”と大口を叩いた自分を納得させるには、そう考えるよりほかなかった。情けないことに、今の僕には何の計画も自信もなかったのだ。
アシュレーの様子が落ち着くのを待って、僕は作業場に戻る策を彼に持ちかけた。この悪天候の中、彼にこれ以上の重労働は無理だ。号令後、終礼前の片付け作業の合間に紛れて戻るのが得策だろうと考えてのことだった。
一度は諦め、朦朧としていたアシュレーは躊躇い、蒼い顔をして永く沈んでいたが、やがて意思を固めた瞳で僕を見上げた。その蒼碧色の瞳にはわずかに雲間から光が射したように見えた。
そして僕たちは、頃合いを見計らって叢の中を進んで作業場に近づき、制服の男たちが休憩していた雨が叩くテントとトラックの裏側をすり抜け、目立たないようひとりずつ囚人に紛れ、そうして無事片付けの作業に加わったのだった。滝のような雨と雷鳴は時間を追うごとに暴風を呼びはじめ、監視の視界を遮り、耳を塞いでくれた。まるで天と大地が味方してくれたかのように、その日の僕たちは幸運だった。
「─── それより、時々包帯をしてる人を見かけるけど、あれって頼めばもらえるのか」
ため息が混じっていたのは無意識だ。僕はふたりの尋問から逃れるように幾らか明るい声で話題を逸らしたつもりだった。何も言い返せないまま、ちくちくと針で小突かれ続けるのも耐え難かったが、それ以前に、昨日から立て続けに起こった目まぐるしい出来事のせいで、僕は彼らの機嫌も取れないほどに消耗していたらしい。不意をついた僕の言葉にレイは、はたと動きが止まり、そして、片眼を見開いてゆっくりと不気味に頸を傾けた。たちまちその豹の眼に気迫が漲り、みるみる片頬が吊り上がっていった。
ああ、僕は、いちばん避けるべき相手に喧嘩を売ったんだ───。
この“最悪な状況”を大人しく認め、僕は冷静に目だけが泳いだ。おそらく釈明と謝罪を待ち続けていた彼の期待は大きく裏切られた挙句、燻っていただけの小火に、よりによって僕は油を注いでしまったのだ。
ただならぬ空気を察したアシュレーの不安そうな気配を感じたが、僕はレイの形相から目を離せず、反発心と動揺の狭間でじっと押し黙っていた。目を逸らせばそれは負けを意味し、ひと息に捕って喰われる違いない。
「お前の前に居たヤツは骨折して抜けたんだ。銃声にびびって転んだんだとよ。間抜けなヤツだ。清掃班で可愛いがられてたぞ、山ほど包帯を巻かれてな。欲しけりゃ脚でも折れよ。何なら俺が今すぐへし折ってやるぞ」
「へぇ・・・清掃班?じゃあ、給餌係もあるのか? 僕は肉体労働よりそっちの方がいいな───」
「そうか、いい度胸だな。じゃあお前の望み通りにしてやるよ。腕か脚か選べ。指一本なんてつまらねぇこと言うなよ」
箍が外れたレイはその暴力的な身体中から威圧を放ち、火を吹くような唸り声で、思わず頭が仰け反るほどまで迫ってきた。腹を見せて媚びればその場はすぐに収まると解っていながら、妙に意固地な根性が頑なに引かず、怖気づく僕をレイの眼前に押し出した。
「でも、変だよな。痛めつけるくせに治療するなんて矛盾してるよ。だって僕たちはただの捨て駒だろ?」
「捨て駒だって数の内だ、補充は面倒だろうが。戦場にだって衛生兵はいる。使えるヤツはとことん使うんだよ。立てなくなるまでな」
「清掃班は食事の質も量も落ちる。そうなったら奴隷そのものさ、もうその後はないんだぜ。倒れずにここに帰ればその日はクリア、治療にもまともな食事にもありつける。明日また仕事ができれば、あいつらはそれで満足なのさ」
「根性のあるヤツだけが生き残って、壊れるまでこき使われるってことだろ。まるで、道具みたいに」
ヘルムートは虚な目つきで両肘をつき、指先を弄りながら独り言のようなため息混じりの横槍を入れた。僕は途中から半分上の空で口を動かし、視線は彼の顔ではなくその憂鬱の方へ奪われていた。ヘルムートの言葉の陰に漂う黒い靄のようなものが気になったが、探る間もなくレイの鉤爪の台詞で、すぐに顔を引き戻された。その我慢ならない様子は、僕の軽はずみな台詞が彼の神経をさらに逆撫でしたらしかった。
「わかった口を利くじゃねぇか。俺はお前みたいなヤツが無傷で生き残ってるなんて納得いかねんだよ。───ああそういえば、お前は前に一度弾を喰らったんだったよなぁ。残念だったな、今日もまた死に損ねたのか」
突然矛先を向けられたアシュレーはわずかに顔を上げた。牙を剥いたレイは今にも飛びかかりそうな剣幕で睨み据え、アシュレーもまた手負の獣のような眼つきで応戦した。その血の気の引いた頬や腕の筋肉がみるみる強張ってゆくに連れ、さすがに僕の頭は焦り気が動転し始めた。
執拗に責められ、耐えに耐えていたのは僕ではない、アシュレーの方だ。それなのに僕は彼を護るどころか矢面に突き出してしまった───。
その時 ───肚の底で沸々と小さく滾り初めていた何かが、次第に波立って膨張していくのを感じた。何故いつもの〝誰も刺激しない術〟を選ばなかったのか、それとも、もうその選択は出来なくなってしまったていたのか、とにかく、僕はもう限界だった。押し込めていた何かが一気に決壊し、僕は僕を世界に解放した。
「いい加減にしてくれよ!もううんざりだ!僕が行くよ!僕が行ってやる!もう君たちとは話したくない!」
驚くほどの声量が雨音と騒めきを劈いた。木の丸椅子が背後で鈍い音を立て、ごろごろごろ───と転がった。バネの如く立ち上がった勢いで鬱陶しい覆い被さっていた何かが吹き飛び、胸が空き、つかえが取れて広がった肺にはたっぷりと息を吸い込めた。
地中から飛び出たような清々しい余韻に浸っていると、ふと、辺りから人の声が消え、視線を一斉に浴びていることに気がついた。
何だ、みんな一体何を見ているんだ───。
顔の群れに丸い目だけが白く浮かんで見える。四隅の棒立ちの男たちまで僕を見ている。叩きつけた余韻と興奮で震える指を曲げ伸ばししながら眉を顰め視線を下げてゆくと、口を開けたまま僕を見上げる静止したレイと目が合った。唖然とする彼の表情を読み取ろうとした途端 ─── 歯車が急速に廻りだした。脳内にこの数秒の高速の走馬灯が一気に再生されたのと同時に、僕は垂直に縮んで僕を世界から消した。支離滅裂に叫んだ台詞が羞恥心をいたぶるように繰り返される。遅れた心臓がでたらめに飛び跳ね、頬が熱く火照りだした。
逃げたい、逃げたい、逃げたい、消えたい、ストレスのせいだ、僕じゃない、自分じゃない、今のは僕じゃない。
くだらない必死な言い訳を駆け廻らせながら僕は手探りで椅子を拾い、テーブルに顎を押し付けて平たく身を屈め、監視が近づいて来ないことだけをひたすらに祈った。時間を戻してやり直したい、全員の記憶から今すぐ僕を消し去りたい・・・そんな思いに潰れされた。
囚人に混じって豪雨に打たれて疲れていたのか雨音に流されたのか、今日の監視は少々の問題を見逃した。それとも気の狂れた無害な奇行に無関心だっただけなのか、徐々に騒めきが戻っても僕を取り巻く三人もまた顔を背けた無言のままだった。逃げるに逃げることもできず、おずおずと顔を起こして口を開こうとした時、アシュレーの静かな声が僕より先に沈黙を破った。
「包帯は、俺が自分でもらって来るよ」
夕食後はささやかな自由時間だ。とはいうものの、棟内の行き来は制限されているうえ、点呼に遅れると連帯責任を負わされ、班全員に懲罰という名の暴力を与えられるため、大抵は監視の目がないトイレに屯するか、自ら監房に戻って休む者が多い。持ち合わせたカードやなけなしのタバコを片手に聞こえてくるのは大抵、過去の武勇伝や悪さの虚栄の話、故郷や家族の郷愁の話、そして女や金にまつわる欲深な話だった。誰もが栄光と故郷はもう見限りがついているだろうが、消して消えないのは死ぬまでつき纏“欲と衝動”だ。
僕は初日にレイたちから“お前は独りでトイレに近づくな”と警告されたので、齢三十にして、もよおすたびに同獄の誰かを誘わなければならず、毎回気恥ずかしい思いをしていたが、そこは“欲と衝動”が渦巻いている陰湿で悪辣な連中の溜まり場だったので、今では羞恥心よりも彼らのお節介に感謝している。しかしそれも、昨日から少し気が楽になった。僕たちは食事を終えると、あのトイレもシャワーもベッドも備わっている“褒美の部屋”へ迷うことなく足を向けた。
アシュレーは、食堂の出口で後ろ手を組んだ制服の男に声をかけた。厳しい目つきで耳を傾けた男は彼の赤い左腕を覗き込むと、顔を顰め無言で警棒に手を掛けた。
その少し後ろからその様子を見護っていた僕の背筋に思わず緊張が走った。しかし男は手荒い素振りは見せず、アシュレーに手を挙げるよう命じると脚を開いて立たせ、警棒の先を揺らして腋下から股下、足首までを順に軽く叩いていった。その様子を横目に見ながら、僕はレイとヘルムートの間に隠れてそそくさと通り過ぎ、何事もなく無事食堂を抜け出した。
とんだ失態を冒してからはとても顔を上げられず、雨粒の走る窓や石壁や好き勝手に乱れた椅子や、残飯などに視線を散らした。いつ制服の男たちに呼び止められるかと冷や冷やしていたが、結局はそれも杞憂に終わった─── そうとも、僕は普段なら目立たない。幸い、見飽きた鼠の小競り合いにでも思われたのだろう。事実そうに違いなかった。
湿った石の廊下をしばらく進んでから後ろめたく振り返ると、遠くの灯りに琥珀色に照らされた制服とアシュレーの背中が見えた。僕たちとは反対方向へ連れだって離れて行っている。僕がまだ見たことのない通路の方だ───。
ヘルムートはあんな軽口を叩いていたが、道徳の廃れたここの連中が、まともな医師を雇って素直に介抱してくれるなんて考え難い。現に壊疽や感染症で弱った囚人を何人も見た。
不安がぞわぞわと沸き起こり、今すぐ引き返してあの背を追いたい気持ちに駆られたが、冷静な思考が、追いついたところであの警棒の餌食になるだけだ、と呟いた。僕はアシュレーの背中が大きな“中世の扉”の向こうに消えるまで、何度も、何度も後ろを振り返った。
あの倉庫のような“褒美の部屋”は食堂から少し遠かった。暗闇に続く天井には石のアーチ窓から雨が吹き込み、濡れた足元がランタンの焔で時々ぎらぎらと危うく光った。囚人たちは雨を避け、石柱の陰や牢の中に身を潜めている。密輸船の猿の檻のように並ぶ監房の大広間を通り抜け、大扉を越えて、さらに細く狭い通路を三人で縦一列に並んで進んだ。ただでさえ小柄な僕の背は無意識に丸くなった。天井が低く垂れ下がり、気が病むほどに窮屈な壁が迫る。僕はもうくたくたに疲れていた。食堂で残っていたすべての力を使い果たしたらしい。
前を行く僕より窮屈そうなふたりにも会話はなく、永いあいだ気不味いままだ。その空気は僕をさらに息詰まらせ、次第に足取りが重くなった。
独りで息をつけるのは、あの部屋のシャワー室ぐらいだ。少し独りになって、心と頭を整理したい。
重い瞼が閉じかけた時、ふと昨晩のシャワー室での出来事と鉱山での記憶が戻り、連れられていったアシュレーの背中がまた脳裏を泳いでいる。思わず、頭を退けた。レイの背中に前髪が触れかけたが、幸い気づかれなかった。いつの間にかもう部屋の前まで来ていたようだ。顔を上げるとドア横の灯りにありありと照らされた、レイの赤褐色の頸元が僕の目を惹いた。力強い曲線を滑る張りのある肌に引き攣った窪みが艶を帯びて浮き上がり、それは頸の付け根から背骨にかけて歪な弧を描いてシャツの中まで続いていた。酷い傷だ。何の傷痕だろうか ───。
大きな背中の向こうに立つ先頭のヘルムートは扉を開けるなり正面に見えるシャワー室に大股で向かって行った。その大仰な薄い背中は、後ろに居る存在たちへの苛立ちをありありと物語っていた。
あからさまな彼の態度に、レイはおもむろに歩みを止めたが、煩わしそうに頸を振りながら荒く前髪を掻き上げ、渋々彼のあとを追った。
ささやかな休息の望みが早々に潰えた僕は、そこに立ち尽くして大きなため息を吐くしかなかった。灯りのない部屋の隅を見遣ると、やはり既にトルソーがそこに腰掛けている。彼はどこで食事を摂っているのか、いつも誰よりも早く部屋に戻っていた。
レイは今朝ここを出ると大口を叩いていたが、トルソーのことはどうするつもりだろうか。
僕は湧いてきた思考を打ち消すように、もう一度大きく息を吐いた。もう頭が回らない。早く横になろうと壁際のベッドに足を掛けたその時だ。シャワー室の方から荒れた声が聞こえたかと思うと木製の扉が外れそうな勢いで開き、レイが後退るようにして跳び出てきた。
「どうせまた軍に戻るんだろ!俺なんてすぐに用無しだ!」
そのただならぬ様相に気を取られ、僕の片足は登ろうとしたベッドからずり落ちた。瞬時に閉まった扉を蹴りかけたレイは寸前で堪え、握り締めた拳を頸に回しながら、太々しい態度で歩いて来た。
ヘルムートの悲痛な怒鳴り声は、あの時感じた黒い靄を少しだけ教えてくれた。僕を睨むあの鳶色の瞳。複雑な色と傷が造るあの硝子の底に沈む深く暗い瞳は、僕の知らない痛みを識っている。
彼にとっては、逃げ場のないこの監獄がある意味救いなのかもしれない。“フツウ”の世界で在るが儘に生きる。それがどれほど難しいことか、彼はもう嫌というほど解っている。
ここを出て元の世界に戻ったら、僕たちはあの行き交う人たちの中に紛れてしまうのだろうか。
散り散りになって、それぞれの人生に戻り、すべてはただの記憶になってしまうのだろうか。
僕の中にそんな一抹の寂しさが芽生えた───。
他人に対してこんな気持ちを抱くのは初めてだ。それも、この狭い土地に追いやられた閉鎖的な環境がもたらす特異な心理状態なのだろうか。
でも、僕にとって、彼らはもうただの他人ではなかった。
レイは傍を横切って向かいのベッドの下段に荒々しく腰掛けた。気不味さをごまかしたいのか、僕の視線をあえて避けている。
この粗暴で自信家な男は僕たちのことをどう考え、一体何を感じているのだろうか。
身体は休息を要求していたが、僕は向きを変えて正面のレイとは少し横にずれてから、ベッドの下段に腰を下ろした。




