劫火
その日は、奇妙なほどに静かに過ぎていった。空気が研ぎ澄まされたように、砂利を踏む靴音が、錆びた金属の摩擦音が、丸太の軋み、石臼の搗ち合う轟音が、張り詰めた鼓膜の奥まで冴え渡って聞こえていた。虎視眈々と神経を欹てる男たちの胸に秘めた緊迫感が伝播したのか、石垣の外界に生い茂る樹々はひっそりと息を潜め、時に、俊敏な獣たちが枝葉を飛び交うように激しく騒めき立てたかと思うと、また、しんと静まり返った。
最後の作業場は、広場での巨大な木馬の世話だった。それは貴重な体力を容赦なく削られる、最も過酷な労働のはずだったが、精神は既に浮き足立っており、地に着いた身体だけが労働のためだけに造られた器械のように、黙々と慣れた作業をこなしていた。
そして、ついに、終業の号令が聞こえた。
巨大な白い帆布の角にぶら下がる錘を天高々と放り投げて、トロイの木馬に雨除けの覆いを被せるあいだ、不用意に企てを悟られぬよう顔ごと背けていたにも関わらず、意識するあまり、一瞬、タープテントの下に気を引かれた。疲弊しきった男たちが、代わる代わる使い終えた作業道具を片付けているその隙間から覗き見ると、手前の雑多な道具置場の向こうには、地面に敷き詰められた木製パレットの上に並ぶ苔色のポリタンクや、注ぎ口の付いた燻銀の金属缶、そして、木目に丸い烙印の掠れた木箱などが幾つも在った。
ヘルムートはあのどれかに、印をつけてくれたのだろうか ───。
焦燥に揺れる視線は、目敏いレイの警告の表情に捕まり、さっと隠れた。そして今見た並びを脳裏に焼き付けながら固唾を呑んでどうにか平静を保たせた。
片付けを終えると「きびきび歩け!」と鞭を振る番犬どもに四方から追い立てられ、すぐさま祭壇に背を向けさせられた。靴底を引き摺ってぞろぞろと歩き出した囚人の群れに紛れながら、叛乱の熱鉄を手の内に握り締めた僕たちは、互いの位置をそれとなく把握して東の塔へと足を進めた。
肩や腕を当然のようにぶつけ合い、押し合って歩く疲弊した男たちの息苦しく蒸れた陰から、ふと顔を上げてみると、世界が熱病に罹ったように火照って見えた。乾いた地面から舞い上がる砂埃や鉛色の監獄までもが蜃気楼のように淡く生暖かい丹色に暈やけている。その奇妙で幻想的な美しさに恍惚と導かれ、さらに見渡した遠くの空には夕闇が混じった紫炎の雲影が禍々しく波状に広がり、その果てと石屋根のわずかに見える狭間には、一線の夕照が溶けた鉄を流したように、ぎらぎらと赫いていた。
明日は雨が降るようだ。もしくは嵐か ───。
その直感は、放火の罪悪感を甘やかすと同時に、無防備な船旅の念慮を一層掻き立てた。
頭上や足元で空砲を撃ち鳴らされているような破裂音は、たとえ互いの足を踏み合うほど押し合っていても群れを乱すことを片時も赦さない。頻りに鞭を振るう横暴な牧羊犬たちに急きたてられ、群れの先頭が東の棟に詰め込まれはじめたころ、石垣の向こうで大太鼓のような衝突音が辺りに響き渡った。小柄なことをいいことに肩口から右後方をそれとなく振り向くと、正門の有刺鉄線を載せた太い丸太が連なる頑丈な門扉が、鈍重な地響きを引き摺って重々しく開き、砂埃や泥跳ねに塗れた四角い厚顔が現れた。鉱山から囚人を載せたトラックが戻ってきたのだ。すると不意に、目の前を歩いていたレイの大きな背中が左に逸れ、慌ててよそ見から正面へと向き直った。開けた視野の前方には、無秩序な藍鼠の群れが強制的に窄められて東の回廊の低い階段を順番に登ってゆく姿が見え、その大きく開かれた両扉から漏れ出る琥珀の灯りは、ほんの数メートル先まで迫っていた。
僕を先へ行かせるつもりだ、つまり、僕が合図なのだ ───。
次第に呼吸は浅く、鼓動だけがみるみる激しく駆け回り出した。左側を肩越しにさっ振り返ると、手頸に八の字の錆びた枷鎖を嵌められたルシレフが老いた奴隷のように歩いてるのが見えた。その鎖を腰のベルトに繋いでいる四角い顎の男は僕に気づかず、後方に怒号と唾を飛ばしながら、使い慣れた黒い鞭を巧みに振り上げ、過激な恫喝を執拗に繰り返している。俯く男たちは顔を上げることもできず、破裂音が弾ける度に反射的に身を竦めていた。
「おいのろま!ぐずぐずするな、前に詰めろ!」
ついに、大扉の下まで来てしまった。その動作に飽きたような番犬が耳元で煩く吼え、片手に構えた黒い銃身で手荒に腕を叩いてきたが、張り詰めた神経は、ひたすら琥珀の灯りだけを睨み据えていた。頬を引き締め、扉の敷居を跨ぐや否や重い圧迫感が背中に圧しかかり、縺れる足が勝手に何歩か前に進んだ。すると今度は警棒で左側から肩を突かれ、その番犬の顔を見る隙もなく反転した身体は、連なる列の後方へとまた強引に押し込まれていった。
猫背の男と出張った腹に胸部を挟まれる中、この異様な速さの鼓動を悟られやしないかと息を止め、窮屈な圧迫感の中から頸を横へ逃がし、前の男の腕と石壁の隙間に片目を覗かせて三人目辺りの左手に捉えた琥珀の灯りに狙いを定めた。─── その途端、背後が騒然と暴れだし響動めきに乱れた男たちの体重が一気に押し寄せて来て、思わずその勢いのまま前の猫背に被さるように倒れかかった。
レイが、動いたのだ。
崩れた姿勢のまま逆さに背後を確認すると、出張った腹の男は足元に崩れ込み、打ちどころが悪かったのか既に気を失っているようだった。突然、鈍い衝撃が頭にぶつかった。見上げると前に居た男たちが真っ赤な顔で取っ組み合って狭い通路を塞いでおり、さらにその奥の方から口々に混乱と怒号を叫ぶ声が巻き起こっている。石壁に相手を叩きつけ合って激しくなりつつある争いに巻き込まれるのを避けながら、石壁の窪みを支えにして何とか体勢を起こすと、頭を上げたまさにその場所で、膨れた硝子のその中に明々と炎える火種と目が合った。
その、ほんのわずかのあいだ、時間が、思考が、呼吸が、静止した ───。
次の瞬間、僕は右手でそのランタンを引っ手繰り、左手は向かいの壁のランタンを掴んで身体は先に出口の方へ駆けていた。正面には頭を斜めに垂れた番犬だけが間仕切りに凭れ、だらりと座り込んでいる。レイは何処だ ───。地べたに重なっている数人を避けきれず、その肩や背の上を四つ足で這うように踏み越えていると、表で低い発砲音が鳴り響いた。そして、わずかな静寂の後、まるでそれが号砲かの如く、雄々しい咆哮が響き渡り、次々と銃声が飛び交いはじめた。焦って足を滑らせながら急いで大扉から飛び出ると、広場は既に異様な光景と化していた。
蹴り上げられた砂埃が舞う憤怒の朱い瘴気の中で、色を失っていた囚人たちが狂暴な復讐鬼に取り憑かれたように闘争心を剥き出しにして、揉み合い、殴り合い、雄叫びを上げて番犬の男たちに襲いかかっている。馬乗りになって顔を潰され、腹を蹴られ、手脚を折って武器を奪う惨状に動転したのか、その乱闘の中に一台のトラックが正門から一直線に突っ込んで何人かを扇形に撥ね飛ばして停車し、駆け降りた黄鼠の男たちは上擦った怒号を張り上げ、ところ構わずライフルを向けて発砲した。
すぐ目の前には黄鼠の制服の男が頭から階段をずり落ちて絶命している。その傍らでふたりの男が黒い警棒を奪い合っていたかと思えば、死角から躍り出て来た三人目に顎を殴られ血が噴き上がり、片方は階段の石に頭を打って動かなくなった。よく見ると、そんな身体が足元に幾つも転がっている。警棒を手に入れた落ち窪んだ目の怨霊のような顔つきの男は、頭蓋骨が割れた男をじっと見下ろし、ゆっくりと段上の僕を睨んだ。
「イアン!走れ!」
その声を聴いた途端、脈動が再び戻ってきた。立ち竦んでいた僕を見つけてレイが叫んだのだ。棟の壁を背にした彼は独りライフルを背負い、両手で拳銃を構え、挑もうとする連中に威嚇射撃を的確に見舞いながら、もう既に広場の中腹を越え、正面のテントの方へとおおかた近づいていた。瞬発的に駆け出した僕は狂気から逃げるように階段を斜めに駆け下り、壁沿いを走りながら混乱の中にルシレフの姿を探した。目を凝らすと、砂埃の中からひと際突き出た警帽が浮いて見え、その傍に背後から回された腕に頸元を掴まれ、振り乱されているルシレフの縮れた白髪が在った。枷鎖のせいで、思うように身動きが取れないのだ───。そのうえ、ふたりは暴徒たちに圧されてか、次第に向かいの棟の方へと流されている。あるいは、制圧を諦めて一旦屋内に退避する気だろうか。そうなってしまえば、もう手が出せない。
ルシレフを見失わないよう何度も無事を確かめながら全力でレイの待つ方へと駆けていた足が、現実を見つめるうちに、徐々に失速していった。荒れ狂う暴動の凄惨な音は遠退き、助ける筋道を必死に模索する見開いた瞳孔が、眼前の歪んだ景色だけを在るが儘に受け入れようとしていた。
ある者は流れ弾に斃れ、ある者は鞭に血飛沫を上げ、またある者は銃弾に撃ち抜かれてもなお突進し、黄鼠の男の頸を掴んで顔面に殴り掛かっていった。反動で銃口が上向きに逸れ蹌踉けたところへ押し寄せて来た暴徒に蹴られ殴られ、男はあっという間に取り囲まれて藍鼠の集団に喰い潰された。それを見て慄いた残る黄鼠の制服は、トラックの方へ踵を返すも逃げそびれ、前のめりに倒れた所で足を掴まれ引き摺られ、武器を奪われ衣服を剥がれ、警帽だけが虚しく宙へ放られた。その群がる藍鼠もまた、石壁の小窓から突き出た銃口や無作為に飛び交う銃撃に被弾して、ひとり、またひとりと地面に突っ伏してゆく。また突然屍の中から突き出てきた藍鼠の腕がむくりと起き上がり、闇雲に引き鉄を引きながら西の小窓の方へと駆け出し、その身体も銃弾に引き裂かれて虚空を仰いだ。そして、崩れた手から零れ落ちた拳銃を、また別の男の手がふらりと拾い上げ、近寄って来た藍鼠の男に咄嗟に向けて発砲した。
みんな、ただ殺せばいいと思っている─── 誰も、この闘いの目的を理解していないのだ───。
「おい、イアン!何してやがる!」
思考の天秤ががたがたと震え、諦めに振り切ろうとしたまさにその時、西の大扉が蹴破られ、騒ぎを聞きつけたらしき黄鼠の男たちが加勢に現れた。その赤い目の不気味な蝿のような顔面と、両手に抱えた恐ろしく太い筒状の銃を目にした瞬間、喉元を、ひたりと嫌な冷たさが伝った───。
「レイ、これを頼む!」
僕はランタンをその場に置いて、衝き動かされるように烈しい暴動の渦中へ走った。道を遮る暴徒を掻き分け死体を跳び越え伸びる腕を跳ね除けて、銃声に身を屈めながら一心不乱にルシレフの元へ駆け込んだ。巧みにウラドの背後を取って奴の視界を掻い潜り、あと一歩のところで驚いたルシレフと視線を交わしたその直後、頭上のウラドがぎろりと両目を剥いて僕の方を睨みつけた。しかし僕は怯むどころか、これまでの憎悪や屈辱に火が付いたように猛烈な勢いで突進した。間に合わぬ鞭を放ってウラドが拳銃を抜こうとしたその時、無抵抗だったルシレフが四角い顎に頭突きを喰らわせ半身を捻り、頸を締め上げていた腕からその身を解放した。蹌踉めくウラドの脇腹へ渾身の激突を見舞って巨躯を地面まで突き飛ばすと、僕は肩で息を切らしながら猛然とルシレフの前に立ちはだかった。
激昂に青褪めた苦々しい顔を見下ろし、落ち着きのない地面と僕の顔を移ろう妙な目遣いにはたと勘づいた僕は、ウラドを睨み据えたまま、足先に転がっていたそれを手探りで拾い上げた。その手にした者を狂わせる多くの魂を吸った凶器は片腕が下がるほどに重かったが、僕はその重さをしかと握り締め、地面に寝そべるように倒れ込む、怨めしい目つきの暴君を睨みつけながら、揺れ動く黒い銃口の闇を向けた───。
ボンッ
「───いかん、走れ!」
鈍い破裂音の方を驚いて見遣ると、回廊の段上から突き出たあの恐ろしく太い銃口から薄っすらと白煙が昇っており、何かが白く不気味な尾を引いて暴動の中心部へと吸い込まれるように落ちていった。
─── 次の瞬間、僕はルシレフに袖を掴まれわけも解らず必死でテントの方へ駆け出していた。ウラドの執念だろうか、ライフルの低い轟音が何発も傍を掠めた気がした。乱れ撃つ銃声に混じって次第に悲痛な喚き声が後ろ髪を引くように追い掛けて来る。振り返るな、振り返るな、振り返るな───。ひたすらそう念じながら、テントの陰でライフルを右肩に構えて待つレイだけを見つめて、僕は全力で手足を駆動させた。
─── 死にたくない。
それは、あらゆる混沌と騒音を一直線に劈いて、僕の一条の琴線を強く明瞭に弾いた。
気がつくと、立ち止まり、僕は広場を振り返っていた。朱い大気の中に濃霧のような恐ろしい白煙が濛々と立ち込め、煙に呑まれた男たちは次々と頽れ、猛々しさは一斉に咽び泣き、助けを求める阿鼻叫喚へと変貌していた。───声など到底届くはずがない。しかし、僕は確かに聴いたのだ。
「アシュレー!」
東の棟の壁際である人影が動いた。片腕で腹部を覆い、石壁に片手を沿わせながら、その姿は何かを手にして確かにこちらに向かって駆けようとしている。
「レイ、木箱を見てくれ、ヘルが印をつけてくれてるはずなんだ!すぐ戻る!」
返事を待たず、重たい拳銃を放り投げた手でテントを指差して、僕はすぐさま袖で口元を塞ぎ地面を蹴って人影に向かった。肺はもう限界を越えていた。脚の筋肉が灼き切れたように熱く、口の中まで鉄の味が滲んでいる。それでも僕の魂は走った。
偽善者でも身勝手でも傲慢と罵られてもそれでもいい。僕はどうしても、諦めたくなかった。
「アッシュ、怪我はないか」
壁沿いを突っ切って駆け寄ると勢いのまま両肩に掴みかかり、素早く上着の上から腕や脚や顔を見回し傷がないか確かめた。幸い出血は見られないものの、アシュレーは骨でも折れているのか片腕で腹部を抱え|両目を細めたまま静かに僕の顔を見ていた。その目をまともに見た時、ふと一瞬、興奮が凪いだ。
その無防備な双眸は、朱い大気にも狂気にも決して染まることはなく、遠浅の海のような蒼碧の涙を湛えている。
「イアン、俺はこんなところで、死にたくない・・・死にたくないんだ」
声を震わせ、徐ろに、懐中に隠していた手から差し出された物を見て、思わず胸が熱く張り裂けそうになった。
僕が置き去りにしたランタンの灯りは、砂埃に塗れてもなお、まだ消えずに炎えていたのだ。
「───ここから出よう、自由になるんだ、アシュレー」
白煙の中を突き抜けて一発の流れ弾が頭上の石壁を弾いた。それを合図に、わずかに頷いたアシュレーの肩を抱えて、僕たちはテントの方へ急いだ。すると、銃弾が矢継ぎ早に飛んで来て、服や顔や踏み出した足元を掠め、思わず怯んで咄嗟にアシュレーを腕で制した。煙の中を睨み、さらに不穏な気配を感じて背後を睨むと、恐らく東の棟から炙り出された男たちが今頃広場の惨状を目の当たりにして、わけも解らずわらわらと後をついて来ていた。無性に苛立ちが湧き熾った。何の覚悟もなく追い縋って来る顔という顔が、やたらと卑しく醜く歪んで見えた。この蟲のいい連中のせいで、僕たちまで蝿男の標的だ。
「こっちだ、走れ!」
限界まで目を細めアシュレーの袖を引き、僕は急激に方向転換して何の遮蔽物もない広場の中央へと躍り出た。その直後、ボンッ、という気味の悪いあの音が聞こえ、瞬く間に苦しみ喘ぐ絶叫が逃げる背中を襲って来た。
朱い瘴気を突き抜けて紫炎の空へ黒々と聳える巌山に、僕は真正面から立ち向かって行った。あの麓に侍る巨石の門は見果てぬ闇の大口を開け、煉獄と成り果てた崩壊の最中を奔走する小さな人間たちを静謐に見下ろし、最後まで、ただ厳かに君臨し続けていた。
「レイ、あったか!」
どういうわけか倒れているテントの間へ滑り込むと「ああ」とアシュレーの顔をしかと見て、レイは返事をしがてら突然ポールを蹴ってタープテントを薙ぎ倒し、力任せに引き摺って広場への退路を塞いだ。バリケードか、と察した僕はすぐにテントに向かったが「こいつもだ、覆いを取れ」とレイが顎をしゃくったので、僕とルシレフは木馬の巨体から白い帆布を剥ぎ取り、あまりの大きさに煽られながらバリケードの上にばさっと被せた。レイはその上から苔色のポリタンクを傾けて透明な液体をトクトクと注いで回っている。燃料か、と記憶にあるテントの下に潜りタンクを見つけて飛びついた。するとその片隅に白い布がはみ出た、ほかより少し小振りな木箱が目に入った。気が急いているものの思わず近づいて蓋をずらし、その厚手の生地を手繰ってみると、途中で使い古された“トルソー”の拘束衣だと気がついた。さらに木屑だらけの二重の木箱に手を突っ込んで中身を探ると、大振りの葉巻のような物をしかと掴み上げ、ふと、ヘルムートの誇らしげな顔が脳裏に浮かんだ。
僕はダイナマイトを何本か掴んで腰に挿し、拘束衣を肩に掛け、ポリタンクの蓋を開けて持ち上げようとしたが、慌てたせいで地面に転がしてしまい、仕方なく隣にあった多少小振りな金属缶を持ち上げて急いで外に駆け出た。
そこには頭から油を被り、艶と迫力を増した巨大な木馬の姿があった。ルシレフは空のポリタンクを足元に放り、アシュレーは銃弾に木片を散らす木馬の陰から放心したように広場の混乱を見つめている。その視線の先には藍鼠も黄鼠も入り混じって口々に罵声を浴びせる男たちが僕たちを囲むように迫っており、中には東の棟の壁際で振り返った時の顔も見えた気がした。───急に、熱い胸の奥底から同情と拒絶と“僕の”呵責が粘質な手足でしがみついて、引き留めようとする蟲がぞわぞわと頸の方まで這い上がって来る。
裏切者だと云いたいのか、同じ穴の狢だと、あの薄暗い牢獄の奥へ戻るべき同類だと。
─── 僕は厭だ。絶対、絶対に、それだけは厭だ!
突然暴発した狂気に衝き動かされ、僕は金属缶を広場へ鉤繰り棄てた。
高々と宙を舞う注ぎ口から液体が弧を描いて吹き出るのを見送るあいだに、脆弱な蟲たちは無惨に吹き飛び、灼けた鋼の芯だけが僕の中に突き立てられて熱く残っていた。
「おい危ないぞ、お前らは先に行ってろ」
肩を怒らせて佇んでいた僕を引っ張って、鬼気迫る顔のレイが親指で後ろを指した。慌てて奥の階段の下まで走ったものの、誰もレイを置いては行く気にならず僕たちは石柱の陰に避難しただけに止まった。レイはその場で片膝を立て、ランタンのホヤを慎重に薄く開け、揺れる火でダイナマイトの垂れた紐に着火を試みた。しかし、じりじりと湿気た音を出すばかりで一向に火が付く気配はない。一本目を投げ捨て、次を取り出して辛抱強く待っていたが、しまいに「クソ!」と吼えて、レイはランタンごと油まみれの倒れたテントの方へ叩きつけた。
「それは無意味だ───」
冷静なルシレフが、そう不吉に呟いた。
ガシャン、と音を立てて生成りのテントに衝突したランタンは、硝子の破片とともに小さな火花を散らしただけで、ルシレフの予言どおり、火種は弛んだ窪みに溜まった油の中に虚しく沈んでいった。
「まだあるぞ、レイ!」
躍起になったのか、背負っていたライフルを構えて独り立ち向かおうとしたレイの背中に、僕は腰のダイナマイトを引き抜いて駆け寄った。
もうひとつのランタンで一本、また一本と両手で火種を護りながら慎重に着火を試していると、三本目にしてようやく導火線が
生き返ったように炎えはじめ、僕とレイは間近で顔を見合わせた。歓喜でルシレフの方を見遣ると彼は悠然と微笑み、低く嗄れた厳かな声でそっと警告した。
「それを投げたらためらわず、走れ───」
レイの豪腕によって力いっぱい上空へ放り投げられたダイナマイトが、か細い導火線からほんの小さな火花を散らして飛んで行ったのと同時に、僕は拘束衣にランタンを包み、広場に背を向けて全力で砂を蹴った。
そして前を行くレイが、足が、地面が、真っ白に色が飛んだその瞬間、空に亀裂が走った───。
強大な甲高い炸裂音が鼓膜を劈き、見えない塊に圧し潰されて前のめりに突っ伏したかと思うと、凄まじい雷轟が大地を割って響き渡り、身体が爆風に浮いて吹っ飛んでいった。
肩や背中を叩きつけられながら地面を転がり、何かにぶつかってようやく止まった身体は、だらりとその場に垂れた。気が動転してすぐに起き上がらなければと思ったが、手足が想像の数倍重くなっており、一旦諦めて、苦しさと悶えるような熱さに朦朧としていた。金槌で打たれているような眩暈とキーンと響き続ける耳鳴りの向こうで囂々と恐ろしい唸り声を上げている怪物が居ることにだんだんと気づき、訝しさに瞼をゆっくりと開けてみた。そして僕は、その光景に自分の目を疑った。
辺りは昼間のように眩しく燦然と照らし出され、劫火の海の上空を焔の翼を広げた火の鳥が火の粉を散らして翔び交い、巨大な嘶く馬が黒い憤怒の鼻息を上げて烈しい火柱を纏って炎え盛っている。
ああ、人間に怒った太陽が、堕ちて来たのか───。
「いい炎えっぷりだ。これで残った連中も遊んでられるな」
唖然と口を開けたまま頸をぎこちなく回して見ると、煤と砂に塗れて額に傷を負い、多少強がった声のレイが片頬を歪めていた。
「立てるか」
声の方へ顔を戻して見上げると、アシュレーが僕の顔を覗き込んでいた。その後ろに見えるごつごつとした影は、この石の大屋根を支えている石柱らしい。───ああ、これもまた、現実なのか。
頭の整理が追いつかないまま背中を支えられてゆっくりと抱き起こされている途中で、僕は腹の上に両手で拘束衣を抱えていたことに気がついた。急に焦って布を捲ってみると、幸いランタンはまだ形を保っており、微々たる焔は息を吹き返して、煌々とまたしぶとく炎えだした。
「先を急ごう」
爆風の威力を読んでいたらしきルシレフは、ひと足先に階段を登って暗がりから僕たちにそう呼びかけた。レイが不服そうに鼻を鳴らし、ライフルを地面に突いて起き上がり大股で颯爽と階段を登りはじめた。僕もアシュレーの腕に掴まりながら痛みを覚悟して脚に力を込めると、重さはあるものの不思議とすんなり立ち上がることができた。掴んでいた包帯の巻かれた腕を辿り、ふと、その顔を見ると、アシュレーは険しく儚い眼差しで炎え盛る焔の海を見つめている。
「アッシュ、どうしたんだ」
ここに来てまさか、と思いながらも、一歩、また一歩と熱風に吸い寄せられてゆくアシュレーに不安を感じた僕は、咄嗟に離れてゆく背中に手を伸ばした。アシュレーはふとその場に歩みを止め、躊躇うように胸元を押さえてから、徐ろに懐中から紅い革張りの本を取り出した。その永いあいだ時を共にした時間を懐かしむように、革の紅い表紙を丹念に撫でていたかと思うと、アシュレーは唐突に本を手にした左腕を振りかぶって炎え滾る火の海を目がけて投げ入れた。
声を発する間もなく、小さな文字に埋め尽くされた白いページがパラパラと捲れながら火先に灼かれ黒く歪んで焦げてゆくのが見えた。そして囂々と唸り続ける焔に呑まれると、一瞬で新たな火の鳥となって眩しく炎え上がり、燦々と爆ぜる火の粉を赫かせて、あの紅い本は、もう跡形もなく消えていた。
その狂気的な美しさと、自分の一部を灼かれてしまったような、言葉にできない感情に息を呑んで、僕は烈しい劫火を前に佇む背中を、ただ、茫然と眺めていた。
「───これで、いいんだ」
身を翻したアシュレーは穏やかにそう告げると、僕の方へ戻ってきて肩を軽く叩いた。そして、遠い海の向こうを見渡すような力強い眼差しで真っ直ぐに前を向いて、先の見えない何処までも続く階段を、独り、軽やかな足取りで登って行った。
何故そんなことをしたのか、何故そうしなければならなかったのか、僕には解らない。
しかし、もうすべては炎えてしまった。
孤独や、葛藤や、苦悩や、屈辱や、復讐や絶望の過去はもう、自らの手で炎やしてしまった。
「イアン、行こう」
もう、進むしかない。
僕はもう、前に進むしかないのだ───。




