惜別
ルシレフにはもう時間がない───。ヘルムートとの別れを惜しんだのち、朗報と危惧を抱えて僕は足早に監房に向かった。檻に差し掛かるや否や柵の外から牢の隅を覗き込むと、いつもの場所に灰白の影が見え、僕はどっと疲れたような安堵のため息をついて入口を潜った。しかし、中に入り影の傍まで近寄って行くと、掛けようとした声が詰まってしまうほどに再び重たい不安が喉元に降り積もった。血痕らしき擦れた染みの残る拘束衣の上に座する頸は、まるで白い灰を被った即身仏のように生気が枯れかかっていた。縮れた頭髪は擦り減り、乾いた表皮の年輪は痛ましいほどに亀裂を描いて罅割れ、髭に覆われた土色の頬は、随分と痩せ細って見えた。その痛ましさに声を失くしていたその時、一抹の不安が、勇気で厚く固めたはずの僕の脳裏に、致命的な穴を穿った。
ルシレフは、あと三日も、もたないのではないか───。
少し離れた石壁に寄りかかっているレイに、その懸念を露わにした視線を遣ると、レイは〝弱った老ぼれは足手纏いだからな〟と吐き棄てた時と同じ眼をしていた。しかし、この現状を目の当たりにした僕にはもう反感すら湧いて来ず、喉元に詰まった不安ごと呑み込んで消化してしまうしかなかった。
どんな決断でさえ、誰かにとっては残酷な結末を招く可能性がある。今、僕にできることは、それを認め、覚悟することだけだ。
僕は救世主でも、聖人でも、英雄でもない。地獄の井戸の底に滑り堕ちた、何処にでも居る一匹の鼠だ。
同情に目を瞑って、光明を目指して行かなければ、ひたすら這い上がって行かなければ、永久にここから抜け出せない。誰も、前に進むことができないのだ。
その時、僕たちの目配せを察したかのように、ルシレフは深く沈めていた瞼を重々しく開いた。
「─── 火薬を使うのか。私の居ないあいだに、ずいぶんと過激な方へ舵を切ったな」
彼らにダイナマイトの話を伝えると、ヘルムートの予想どおり、レイはますます狂暴な熱意に満ちて、作戦への意欲を炎え上がらせた。ルシレフはというと暴動作戦のあらましを聴き、疲労と呆れを露骨に表したものの、悲観的な見解や真っ向から否定するような意見は不思議と口にしなかった。作戦会議の傍ら、あの背中の酷い傷や容態が気掛かりでならなかったが、こうして話ができているのだからと自分に言い聞かせ、士気の高まる最中に余計な不安で水を差すことは避けた。きっとまた、何かしらの延命治療を受けて生かされているに違いない。ウラドは決して死と解放を与えず、ルシレフが永遠に苦しみ続けることを望んでいる。
その行き過ぎた怨みの反作用をあてにするのはあまりにも狡猾で、残忍で、まるで悪魔と手を組むような蟠りが纏わりついて来るが、僕にはその呵責に耐える覚悟がある。どんな形であれ、ルシレフが最後まで気力を持ち続けてくれることに運命を賭けた。
僕たちは生命を賭して、切り断った崖の先から、果敢に自由へと手を延ばしているのだ。
もはや狂気の色をも孕む切なる希いに翼を貸してくれるのなら、それが天使だろうと悪魔だろうと構うものか。
「内部からではこの建物は容易に崩落するぞ。怪我人どころか、誤って食糧庫が塞がれば残留者の餓死は免れん。爆破は威嚇に止めるべきだ」
「壊すだけなら楽勝なんだがな。まあ、不発の可能性も入れるとなると、野次馬と番犬どもの集中砲火を喰らうハメになる。銃を奪えたとしても、あっという間に袋の鼠だろうな」
「連中が計算どおりに動くとは限らないし、もっと広くて機転が利く場所の方がいい。まず、武器を手に入れる順番を───」
「火種、火薬、燃料だ。必然的に、広場から正面の階段を突破することになる。裏道のことは諦めろ」
レイは不意に、僕の顔に向けて砂をかけるように言った。気弱なくせに衝動的で、諦めの悪い僕を見越して“変な気を起こすなよ”と釘を刺したかったのだろう。しかし、彼が思う以上に僕は強情だ。
「もしかしたら、中から辿り着けるかもしれないだろ。あのコンテナが海岸へ運ばれることだけは間違いないんだ」
「火薬と焔で時間を稼いで、地下洞への入口を探ろう。その場に行けば、何か記憶が戻るかもしれん」
「だけど、火種をどうやって持ち出すんだ、一旦外に出たら夕方まで戻れないんだぞ」
「シャワーに行くふりをして東の棟に入る。お前はありったけのランタン、俺が銃を掻っ攫う。番犬を追い払うのにどのみち必要だからな。銃があれば、あいつも生け捕りにできるぞ」
「───ウラドか」
「しらばっくれるなよ、あの野郎はあんたのストーカーだ。二日後に割り当てられた労働が何処だろうと、俺たちの作業場には必ずあいつが居る、そうだろ」
猛禽と猛獣は互いの肚の内を探り合うかのように声を消して鋭い眼光を突き合わせた。僕は既にレイが何を警戒し、何を狙っているのか薄々気づいている。ミハイルとルシレフを繋ぐ鎖は、あのミノタウロスのような暴虐な男で繋がれている。そしてその鎖を掴みさえすれば、海に投げ入れようとも、裁きの場に突き出そうとも、三人諸共道連れにできるという目論見なのだ。
もしこの脱獄自体が誰かの策略によるものならば、僕たちは都合良く利用され、始末されることになるだろう。おそらく誰かの隠れ蓑になるような、また新たな濡れ衣を着せられて。それはまさに、レイの人生が被った悲劇的な屈辱の二の舞だ。ルシレフの自白で、堅実なはずの彼が実際に大きく道を踏み外したことも識っている。そう思うと、レイが未だに疑念を晴らせないのも無理はない。
「船を、どう奪う」
埒が明かない睨み合いから気を逸らすように、ルシレフが僕を見て言った。すると今度はレイがすぐさま僕の意識の袖を引っ張った。
「俺にいい考えがある」
「真っ向からでは無謀だぞ。ミハイルは油断ならん男だ」
「こっちが油断させてやるんだよ。題して〝トロイの木馬作戦〟だ」
眉根に力を込めて小難しく考え込んでいた僕は、レイの気障な視線にはっとした。あの食堂での噛み合わなかった会話の謎が、今、解明されたのだ。
「───忍び込む気か」
「ああ、コンテナに隠れて出航を待つ。静かにしてりゃ勝手に運ばれて船に乗せてもらえるんだ、手軽だろ。沖に出たら頃合いを見て船を奪う」
「すごいな、それなら余計な争いは避けられるし、名案だよ。そのまま陸に着くまで隠れてればいいんだ」
「お前な、広場が大騒動になってるんだぞ。大人しく出航してくれると思うなよ」
「それは尤もだが、そもそもコンテナが見つからない可能性は考えないのか」
「あの麻袋や木箱のコンテナはコーヒー豆やカカオ豆の輸送を装うためだろ?それに向こうから来る船にも囚人が乗ってるんだ。連中が大型のコンテナを使ってる可能性は高いよ。問題は何処にあるかだけだ」
「戦況なんてのは常に変わるんだ、定めておくのは目的地だけでいい。第一地点は浜辺を目指す。第二地点は船上だ。あとは、とにかく走れ。作戦は状況に応じて変える。その代わり、何があっても声が届くところにいろよ」
「ああ───」
頬を引き締め、真剣な眼差しを向けたレイの胸元で、鈍色の光がきらりと揺れた。頸の付け根や肩に刻まれた銃創の上を這う、二重のボールチェーンの先で折り重なる燻銀のドッグタグに目を遣ると、ふと、彼の背後の石壁に、レイが仲間と半生を失ったあの朱い砂漠の情景が旧い映写機のように投影されて浮かんできた。それは何処からか霧が立ってすっと消えて去ったような、ほんの一瞬の出来事だったが、勇猛で逞しく、気のいい軍人たちの姿がレイを取り囲んで、確かにそこに視えたのだ。
「─── 必ず、傍に居る」
突然、大勢の仲間に見護られているような心強さが背骨を昇るように湧き立ち、無意識に熱くなった手の平を強く握り締め、レイと“彼ら”の遺志に、僕はそう固く誓った。
彼が何故たった独りで地獄の底から這い上がり、これほどまでに熱く、決して挫けることなく闘志を炎やし続けていられるのか、その答えを、僕は身をもってようやく知ることができた。
あの日、砂漠に斃れた“彼ら”は、今もレイと共に生きている。傍に寄り添い、熱意を与え、絶え間なくレイの魂に焔を焚べ続けているのだ。
「鉱山組が戻る時分が良かろう。その頃なら私もまだ班の傍に居る」
「決行は明後日、場所は広場、時刻は夕方だ。いいな」
ルシレフは、落ち窪んでもなお冴えた灯りを湛えた双眸で、声を潜める面々の決意を、固く結び合わせるように見渡した。
心の片隅には、いつまでも気掛かりな凝りがある。しかし、不安や疑念は永遠に消えることは無い。僕はただ愚直な信念と情熱をもってルシレフの心に訴え続けるしかない。彼の生命の底力を信じ続けるしかない。そして、この震える自分を、信じてやることしかできないのだ。
檻の向こうに気配を感じ、ふと見遣ると琥珀色の薄明かりに照らされて、アシュレーが音も立てずに枠を潜って入って来た。一斉に視線を向けられ、三人で車座になっている僕たちの方を少し尖った視線で一瞥したが、相変わらず蒼白な顔をすぐに逸らして、檻と壁の角に置かれた傍の寝台に腰掛けた。両腿の間に埋めたその手には、擦り切れてところどころ黒ずんだ紅い革張りの本を、開くこともなく抱えている。
僕たちのそれとなく注がれる視線に耐えながら隅で蹲ているその姿に、僕の方が居た堪れなくなり、いつの間にか立ち上がって気がつくと彼の目の前に佇んでいた。
「なあ、アッシュ、散歩しないか」
いつかのように、のんびりと歩調を緩ませながら、僕とアシュレーは少し不自然なあいだを空けて、歪な石壁が複雑な陰影を描く洞窟のような路を散歩した。どうか考え直してくれ、などと情に感けて説得する気などはなく、以前のように、他愛ない会話をただ何となく交わしたかっただけなのだが、少し緊張している様子のアシュレーの表情は硬く、妙に身構えているらしかった。
食堂の付近まで来ると、通路の傍に屯している数人が見え、スープやソースの混濁した残り香が、不意に鼻先まで漂ってきた。
「あれから少しは喰べられるようになったのか?」
「少しはな」
「体調は?」
「良くはない」
こんな調子で、一向に会話は弾まない。僕を殴ったことを多少気に病んでいるのだろうか。それとも無様に泣き噦った僕を見て心が遠避けているのだろうか。それでも、こうして付き合ってくれているだけで充分だと、僕はしみじみと感じていた。アシュレーとこうして何気ない会話ができる時間も、あとほんの少ししか残っていないのだから───。
見るともなしに眺めている洞窟の先は、闇に吸い込まれるように暗く窄まっている。このまま突き当たりまで歩き続けても行手は中世の大扉に阻まれ、灯りの無いその陰鬱な場所を溜まり場にしている怪しげな顔ぶれと鉢合わせするだけだ。足の向く先を思案しながら開け放たれた戸口から覗いた。すっかり伽藍堂の食堂は既に椅子がテーブルの上に載っており、覗き込んだ対角線上の隅にある扉の横には、後ろ手を組んだ大柄の制服の男が独り出入口を見張っている。男が背にする壁の中からは、負傷兵たちが食後の片付けを行っているらしく、食器や調理器具がぶつかり合う賑やかな音が響いている。
食堂を諦めて通路の先に視線を戻すと、すぐさま壁から突き出た黒鉄のトイレのサインが目に入り、僕は少し振り返ってアシュレーの視線を引いてから徐ろに壁に埋まる扉を開けた。すると、真正面に小肥りの男が目を丸くして憮然と立っており、咄嗟に避けて道を開けると、何故かじろりと僕の顔を見てゆらゆらと檻房の方へと去って行った。不意に、漂ってきた甘い焦げた青臭さが鼻を突き、思わず顔を顰めながら中へ入ると、鏡の前で背を屈めた若い坊主頭の男が冷めた視線で僕をちらりと見た。しかし大して気にする様子もなく、蛇口を全開にして、指の一本一本を磨き上げるように何やら念入りに手を洗っている。
その執拗な行動を多少気味悪く感じながらも、絡まれる前に僕は素知らぬふりをして、大して催してもいないのに仕方なく小便器の方へ向かった。背後のアシュレーの顔は見えなかったが、似たような空気を察したらしく、僕に合わせて自然な振る舞いで背を向け合って用を足し、その男が立ち去るまで辛抱強くふたりとも押し黙って様子を窺っていた。
「・・・ありがとう」
「・・・何が」
「木馬の世話を代わってくれただろ」
「木馬?」
やがて、ふたりきりになると、洗面台の鏡の前に移動して、僕はまたぽつぽつと会話をはじめた。こうしていると、彼に出逢ったばかりのあの日も、ふたりでここに並んでいたのを思い出す。
「トロイの木馬だよ、あの石臼の道具、僕にはあれが馬に見えるんだ。レイは全然似てないって言ってたけど」
「神話の話だろ。昔、読んだことがある」
「そうなのか? 君は本当に読書が好きなんだな」
アシュレーは少し俯いたまま、深く思い詰めるように黙り込んだ。何か気に障ったのかとそれとなく横目を向けると、アシュレーは右手の平をそっと左腕に沿わせていた。僕は彼がまた不安を強く感じはじめたのだと悟って、胸の奥がきつく締めつけられ、目頭が静かに熱く痛んだ。
あんなにも白かったはずの包帯には、血や泥を消そうとした跡が見え、斑らの染みとなって拡がっている。そしてその下には、あの爛れた無数の傷痕が誰にも気づかれずに眠っている。アシュレーはその傷痕を抉り、また新たな血を流すだろう。
しかし、僕がその手を止めることは、もう出来ないのだ。
「僕も色んな本が好きで、子どもの頃から、よく本屋に入り浸ってたな。絵を描くのも大好きだった。でも大人になって社会の波に揉まれるうちに、まったく描けなくなった。才能がなかったんだよ。絵の具は、まだたくさん残ったままだ。───もう、忘れたはずなのに、何で今、君にこんな話をしてるんだろうな」
「───あんたには、未来があるから」
「君にもあるよ、アッシュ」
僕は無意識に彼を振り向かせようとしている自分に気づき、思わず口籠った。そのせいでまた、水面に波風を立てるのを恐れるような繊細な緊張が、少し距離のあるふたりのあいだを流れはじめた。下水と鼻を突く臭いが残る薄汚いトイレの片隅にも関わらず、僕はまだこの部屋を出て行く気にはなれなかった。まだ、こうして同じ時間を生きていられるのなら、少しでも長くこの場に留まって居たかった。
遣る瀬無さを振り払うように何気なく顔を上げ、目の前の水垢の残る罅割れた鏡の自分と目が合ったその時、ふと声に力が宿り、その台詞は力強く口を突いて出てきた。
「自分を護れ、他人は無視しろ、逃げる時は躊躇うな、常に自分のことだけ考えてろ」
アシュレーは少し驚いた様子で頸を傾けて茫然と僕を見つめている。何かほんの少しの篝火でも遺しておきたくて言ってはみたものの、気弱でいつも逃げ腰な僕にはあまりに不似合いな台詞だった思い知り、気恥ずかしさを誤魔化したぎこちない苦笑いで、ちらちらと彼を見返した。
「レイとヘルムートからの伝言だよ」
「───こんなところで生き残って、何になるんだ」
「必ず迎えに来る。その日まで、ただ、生きていてくれればいい。君が生きてくれているだけで、充分だ」
「責めないのか」
「責める必要なんてないじゃないか、アシュレー。君の下した選択に、間違いなんてない。君の心はいつだって自由だろ」
透明なナイフにのような蒼碧の瞳はいつまでも僕を見つめ、その中で混ざり合う感情の色や、想い出や、彼の不安や希望や絶望のすべてを痛切に訴え、何度も何度も溢れ出そうとしていた。しかし、アシュレーの硬く結ばれた薄い唇は微かに表情を変えるばかりで、もうそれ以上、開かれることはなかった。
それでも、僕の顔は頑なに微笑んでいた。今さら格好もつけようのないほど、散々惨めな姿を曝してきたが、アシュレーがもしもこの先、僕のことを思い出すことがあるのなら、それは惜別の哀しげな表情ではなく、せめて笑顔であってほしい。
この受け取った溢れんばかりの籠の鴎の希いを抱えて、僕は行かねばならない。
監獄を駆け、巌山を越え、大海を越え、彼らを迎えに戻るために、ただ前を向いて行かねばならない。
「僕は行くよ、アシュレー。生きて、ここへ還って来るよ」
煩雑な未練を呑み込んで、精一杯の微笑みでそう告げた時、片腕を捥ぎ取られたような痛みが僕を襲った。




