溝鼠
トイレの個室は、想像していた以上に狭かった。萎びた木板の端についている、見るからに頼りない小さな金属の閂を受座までしっかりと差し込み、無事施錠は済んだのだが、扉の上下は大きく開放されており、とても落ち着きなどは得られなかった。下から覗かれるのを避けるため、石壁に肩があたるほど奥に詰め、膝に擦れようとする蓋のない小振りな便器を必死に避け、仕切の戸板にめいっぱい背中を押し付けたが、それでもヘルムートの長い前髪が目と鼻の先にある。彼はやや斜に顔を伏せており、ラクダのように長い睫毛が大きな瞳の色を覆っていた。
黒鉄の薄い板にトイレのマークが掲げられた扉の、少し向こうの壁に寄りかかり、立ったまま足を組んで爪を弄っていたヘルムートは、遠目に僕を見つけるなり、逃げ去るように扉を開けてトイレに消えた。そのあからさまな態度を目の当たりにして、僕はまた大なり小なり、争いになるのを覚悟した。
固唾を呑んで扉を開けると、錆の滲む黄ばんだ洗面台と、角が欠けて亀裂が走った鏡の前に立ち、ヘルムートはよそよそしく頬や顎の辺りを撫でていた。後ろ手で扉を閉める蝶番が軋む音を聴いてか、僕の方には一瞥もくれず、出入口からいちばん奥にあたる隅の個室へ、無言の薄い背中で僕を導いたのだった。
しかし、一度は肚に括ったはずの覚悟も散漫に、あまりの気まずさから、僕は挨拶すら切り出すことができずにいた。近距離で刺々しい空気を放ちながら、ヘルムートは頑なに僕の方を見ようとはしない。その、沈黙が続けば続くほど苛立ちを募らせている様子から、もはや何を言っても反発されることは予想できる。不意に漂って来るつんとした臭いや、足元から上がる沼底のような臭気が不快に鼻を突くので、僕は細切れの不自然な呼吸を繰り返しながら、目の前に吊るされているヘルムートの折れた腕を盗み見ては、謝罪が先か、それとも作戦か、いや、まずは腕の話題に触れるべきかと、焦りと緊張が逃げる決意を何度も捕まえ損ねていた。
すると突然、ヘルムートの頸が振り向き、尻尾を踏まれた猫のような剣幕で捲し立ててきた。
「イライラするんだよその態度!俺が見境なく襲うとでも思ってるのか? 尻軽だとでも?じゃあ訊くが、あんたは女だったら誰でも襲うのか!」
「違う、ヘル、誤解だよ、緊張してるだけだ、この状況なら、誰だってこうなるだろ・・・」
顔先で爆ぜた烈しい火花に思わず目を閉じ、降参の両手で顔を護りながら、僕は飽くまで控えめに彼を宥めた。妙に静かになったので薄っすらと目を開けてみると、ヘルムートは荒く前髪を掻き上げながら大きな唇を歪めていたものの、それ以上噛みついて来ようとはしなかった。彼は露骨に目を逸らし、僕も下を向いて黙り込んでしまったので、漂う空気は気まずさを増して、また振り出しまで戻ってしまった。
この空間に時計はない。しかし、刻一刻と点呼の時間は迫っており、いつ邪魔が入るかも解らない。そして、三日後には船が来てしまう。もう、本当に、ぐずぐずしている時間など無いのだ───。
意気地なしを頭の隅へと押し込み、意を決して、口を開いたちょうどその時、運悪く扉が軋んで開かれる気配を察し、僕は反射的に声を引っ込めた。男たちが低い声で雑談を交わしながら入って来る。固まった僕とヘルムートは無言で目を見合わせ、揃って声を睨み、またしばらく緊張とともに息を殺した。
入ってきたのはふたり連れの男たちらしく、仲良く用を足したあとも何やら洗面台のところに長居していた。蛇口を捻り水を流し終えてもなお、耳慣れない言語で悠長な会話を交わしながら、一向に立ち去る気配がない。ヘルムートは暇を持て余し、俯いて白い三角巾から覗いている細長い爪先をなぞり、根本のささくれを千切ろうとしていた。僕は気を揉みながら、とうに見飽きた鉛色の石に埋め尽くされた天井を見上げて、詫びる言葉を慎重に見繕っていた。片腕とはいえ、こんな窮屈な場所でまた癇癪を起こされたら、もう話どころではなくなる。しかし、彼はまだ僕の前に留まって居てくれている。たとえ殴られることになっても、今、言葉として伝えておかなければ、この監獄に遺した無念を、のちに延々と引き摺って生きることになるだろう。
しばらくして、ようやく邪魔者が去った。扉が閉まり終えるのを、今か今かと待ち構えていた僕は、力むあまり空回る舌で口火を切った。
「謝らせてくれヘルムート、あの、この間のこと、僕がばかだだった。君の───」
「度胸試しのことか、どうせ、俺への当てつけだろ」
気が立っているヘルムートは先を急いで僕を遮ったが、あまりの見当違いに、僕は口を半開きにしたまま、すっかり勢いを削がれてしまった。それも、前に何処かで聞いたようなその台詞が嫌な記憶の蓋を開け、あの苦味をまた僕に味わわせかけてくる。
「アッシュも、君も、何でだよ・・・」
「何であいつが出てくるんだよ」
ヘルムートは口を不機嫌に曲げたまま小頸を傾げている。あの坑道で撃たれた日のことを、何故みんなが勘違いしたのか理解に苦しむが、僕は一度もそれを否定しなかった。格好つけて、見栄を張って、男としてのくだらない面子を保ちたかったのかもしれない。あれを〝勇気〟と称ばれる方が都合が良かったのだ。
でも、僕はもう“僕“を演じて生きたくない。
薄っぺらな体裁も、くだらないプライドも、あの銃口の中に棄ててきた。仮面も鎧も、僕を装っていたものはもう何もかも剥がれ落ちた。あと味の悪い隔たりしか生まない虚栄心など、もう僕には必要ないのだ。
ヘルムートはあの時、惜しげもなく自分の闇を曝してくれた。だからこそ正真正銘の“僕”として、ここに立ちたい。彼にも僕自身にも、嘘偽りの無い、正直な姿で生きていきたい───。
「あれは、度胸試しなんかじゃない。死のうと思ったんだ。君には偉そうに言ったけど、僕には何の覚悟もなかった。身のほど知って、簡単に絶望して、もう全部どうでも良くなった。ただもう逃げたくなって、でもどうしようもなくて、だから、自棄を起こしただけだ」
ヘルムートは目元に憤りを残した表情で顔を傾け、痩けた頬に垂れた前髪の間から喰い入るように僕を見据えた。その厳しい眼差しで、ほんの紙一重の如何様すら見逃すまいと、真偽を見極めようとしている。顔の筋肉が突っ張るのを感じながら、僕はその真剣な瞳に向けて真っ直ぐに言葉を渡し続けた。
「───でも、今ならはっきり言えるよ。僕はここを出て、自分の人生を生きてみたい。本当の自由を感じてみたい。君たちに出逢って、はじめて、心からそう思えた。───だから君に、どうしても謝りたいんだ。でも赦してくれなくていい。僕の身勝手だって解ってる。それに、君を傷つけた非道言葉は消せないから・・・だけど、聴いてくれてありがとう、ヘル。今日、ここに来てくれて、ありがとう」
ヘルムートの険しい顔はいっさい緩むこともなく、僕を石の壁に磔にするように睨み続けた。この結末も、一応、想定していた。罪と後悔を永遠に背負って生きる覚悟も充分だと思っていた。しかし、いざ現実にぶち当たると、美化されかけていた呵責の念がどろどろと傾れ込み、落ち着く先を失った焦りが、胸の中で逃げ惑う稚魚のように駆け廻った。
彼には、自惚れた自己満足の謝罪にしか取られなかったのか。正直さは正当だと託けて、こんなにも明け透けに吐露したこと自体が、恥知らずだったのか。僕には、もう、解らない。
ここに来てくれて、なんて、こんな薄汚いトイレの片隅で、僕は、何を言っているんだ───。
重く視線が堕ちてゆき、ふたりの間を隔てる燻んだ便器に澱む浅い水溜りが目に入った。それはいつも囚人たちの流した泥や垢や血や錆によって黄味がかった薄茶色に濁っており、、流しても、流しても、いつまでも透明な水に戻ることはない。
「怖かったか、銃を向けられて」
「え?」
唐突な問いかけに、僕は思い切り面喰らった。戸惑いながら顔を上げたものの、顎を突き上げた尖った目つきに見下ろされ、もう立ち向かう意欲も萎えきった弱腰の僕は、視線が扉の鍵の方まで移ろった。しかし、ヘルムートは澄ました顔で弓形の眉を持ち上げ、鼠を爪で甚振るように応えを急かした。
「・・・憶えてない、でも創を見る方が怖かった」
「へえ、見せてみろよ」
一体何処まで嫌われてしまっただろうのか。執拗にいびられているようで、ますます気が滅入ってきたが、罪悪感に繋がれている僕は彼の気が済むまで従うしかなさそうだった。仕方なくシャツの袖を肩口まで上げ、包帯を解き、防水パッドを慎重に捲って顔を背け、ひりひりと疼く二の腕をヘルムートの前に差し出した。
シャワー室で見てしまった光景は今でも目に灼きついている。ぱっくりと肌が口を開け、赤黒い瘡蓋がこびり付いた、緋色と鈍い乳白色の挽き肉みたいな惨状は、まさか自分の腕で起こっている出来事とは、俄かに信じ難かった。
必死に視線を逃していたにも関わらず、目を細めて顔を寄せたヘルムートに何故かつられて、僕は薄目で誤魔化しながら自分の腕を改めて見た。あの地獄の裂け目のような大口は、まさに唇のように綴じられており、その代わりに、肩口の傍から二の腕の中腹にかけて、六センチほどの緋い足の百足が斜めに張り付いていた。ヘルムートは自分からまじまじと見ておいて、華奢な鷲鼻に皺を寄せた。そして苦々しく顔を歪めていたかと思うと、突然指で触ろうとしてきたので、僕は慌てて袖を下ろして創を隠した。
「勲章だな」
そう言うとヘルムートはレイのように片頬を上げ、満足げに大きな唇を引き伸ばし、ニヤリと笑って見せた。その無邪気で悪戯な表情を見た僕は、ようやく彼の意図を理解し、身体中を締め付けていた重い鎖が解け、自然と笑みが零れた。そして何よりも、僕の醜い創を讃えてくれたことに、たとえ冗談と解っていても、小さな感激を憶えずにはいられなかった。
ようやく棘の壁を取り払ったヘルムートは、いつもの飄々とした眠たげな顔に戻り、気の抜けた独り言を小さくぼやいた。
「俺はてっきり焚き付けられたと思ってたのに、何だよ、損した気分だぜ。まあいいか、どのみち協力はするつもりだったからな」
僕は、アシュレーの話を切り出すべきか迷った。ここに残るのならヘルムートにもそう伝えておくべきなのだが、声に出せばその運命が確定してしまう気がして、どうしても言葉が喉に痞えて止まる。ヘルムートなら、僕の知らないアシュレーの心情をより深く識っていそうな気もするが、訊ねたとして、その応えが、僕のただ一つの期待にそぐわなければ、今度こそ、救いの無い奈落の底まで突き落とされるのだ。それならば、まだ、曖昧な希望に賭ける方を選びたい。
ふと、長引いた沈黙に気がつき、僕は咄嗟に話題を変えた。
「レイとは、あれから話したのか」
ヘルムートは弄っていた指先から視線を上げると、大きな目をさらに見開き、じろりと僕を睨んだ。また考えもなく口走ってしまった僕は、軽率な下唇を噛み、目を泳がせて萎縮した。すぐに手の平を返すような言い訳や安易な謝罪は、彼を莫迦にしているように取られるだろう。幸い火花は弾けず、深く考え込むように黙り込んでいたヘルムートは、何故か不意に鼻で笑い飛ばした。
「〝自分を護れ、他人は無視しろ、逃げる時は躊躇うな、常に自分のことだけ考えてろ〟─── 出逢った時から、レイはいつも同じことしか言わない。とんだエゴイストだろ。もう聴き飽きたよ」
「〝あとは、俺がどうにかしてやる〟って?」
「あの口がそんなこと言うと思うか?」
ヘルムートはそう言って顔を顰め大袈裟に口を曲げたていたが、その奥深い鳶色の双眸に宿った、確かな光明に気づき、僕は静かにはっとした。彼の瞳や表情を眺めているだけで、胸の内側から、あたたかな涙のようなぬくもりが、じんわりと拡がってゆく。
ヘルムートはやはり、レイを試したのだ。
彼が、懇願する弟の呼吸器を抜いた時と同じように。
その生命のすべてを、人生を懸けて受け止める覚悟があるのかと───。
「何が何でも、とりあえず、生きてろってことか」
「だから、こうして生きてやってるだろ」
厭世的で気怠げな表情とは裏腹に、ヘルムートの瞳は力強く澄み渡っていた。その投げやりな声から告げられた、ふたりからの、この上ない激励は、再び僕の芯に、篤く、熱く焔を燈した。
「レイはいつも前しか向いていないから、背中を護る人が必要だ」
「いい歳して、世話のやける野郎だな」
僕はやはり、彼が羨ましい。荒んだ世間の狭間で過酷な半生を生きてきたヘルムートにとって、これほどの深い想いを抱ける相手と出逢えたことは、何ものにも変え難いことだろう。その穏やかに溢れる情熱は、目の前に居る僕まであたためてくれている。
安堵のぬくもりに浸って、和やかにヘルムートを眺めていると、珍しく照れくさそうに目を逸らし、急に真面目な表情に切り替えて声を潜めた。
「それで、話はどうなってる、進捗は?」
「ああ、それが・・・実は、衛りが堅すぎて行き詰まってる。レイが騒ぎを起こして僕たちだけで強行突破しようとしてるが、とてもじゃないけど、ついていけないよ」
「ふうん。それじゃあ、なおさらあいつを嗾けることになっちまうな」
「それって・・・まさか、銃を手に入れたのか?」
「ライフルや拳銃なんて、あの人数相手じゃ多勢に無勢だろ、もっといい物さ」
「じゃあ何だ、手榴弾とか?」
「惜しいな、ダイナマイトだ。片腕が使えないってのに、今朝、切れたランタンの補充に回されて、灯油を探してたら偶然開けた箱に入ってたんだ。ついてるだろ?」
「ダイナマイトって、あのダイナマイトか? 何でそんなものがここに・・・」
「鉱山の発破用だろ。あの、ばかみたいに硬い巌山を爆破できるんだ。こんな壁ぐらい軽く吹っ飛ばせるさ」
ヘルムートは手の甲で背面の石壁をこつこつと叩いた。まだ何の道筋も見えてはいないが、無謀としか思えなかったレイの棄て身の素案が、狂暴な戦力を纏って現実を成そうとしている。思考回路が熱を持ち、次第に興奮してきた僕は気忙しくヘルムートに詰め寄った。
「量は?」
「充分。このあいだの雨で湿気ってないといいけどな」
「灯油に、ダイナイマイトか 、何処にあるんだ、こっちの建物か?」
「外だ、あのテントの奥、階段前の木箱の中だ。中身は二重で木屑だらけだから、開ければすぐに解るさ」
「それって、いつも同じ場所に置いてあるんだよな」
「たぶんな。万が一のことを考えたら、中には入れないだろう」
「それなら頼みがあるんだ、ヘル、その箱に何か印を付けておいてくれないか、それを、明日の誰かに伝えて欲しいんだ」
「─── 今日で最後だ、イアン」
興奮が一気に冷め、声は虚しく掻き消えた。
「看守より、ほかのヤツらに目をつけてられてる。また商売をはじめたと思って、勘違いしてるのさ。そろそろ潮時だ。─── 先に出ろよ、誰も来なければ俺も出る」
最後って、何だ─── 〝最後〟の意味が解らない。
いや、解らなくていい。意味なんて、知りたくない、解りたくない。
狭い個室から開放されると、僕は突然孤独になった。放心したまま鏡の前まで歩いてゆき、硬い蛇口を捻ると、途切れ途切れの微温い水が、力無く折り曲がった指の間を滑り、赤錆に縁取られた暗い排水溝へ流れ堕ちてゆく。
やがて、個室の扉が開き、後ろからゆったりと歩いて来る気配があった。視界の端に映るヘルムートは、ふたつあいだを開けて鏡に向かっている。
「しけた顔するなよ。別れのキスでもくれてやろうか?」
いつ僕の顔色を盗み見たのか、平然と戯けて見せる姿に、僕は静かに頸を振った。それは徐々に激しく、昂ってゆく。
「ヘルムート、約束だ、絶対───」
「知ってるか、溝鼠って、案外可愛い顔してるんだぜ」
目頭まで駆け昇って来た激情を急に躱され、その飄々とした態度に、僕は声にならない怒りにも似た哀しみと困惑をぶつけた。
「街じゃ、みんなに毛嫌いされてるけど、俺は嫌いじゃない。都会のゴミ箱だろうと、下水管だろうと、監獄だろうと、泥臭く逃げ回って、しぶとく、生き伸びるのさ」
ヘルムートは顔を上げると鏡の中を見据えた。半眼の長い睫毛と、鼻筋の通ったその横顔は美しく、泥の中に咲く蓮のような、彼の生き様そのものに見えた。
僕は、改めて正面の罅割れた鏡に向き直ると、無闇に荒ぶった顔と感情を整え、静かに蛇口を締めてヘルムートの方へ歩み寄った。徐ろに右手を差し出すと、ヘルムートはゆっくりと向き直って僕の手を取り、拳を固く結んで互いの背中を抱き寄せた。
「気をつけろよ、あいつらのこと、頼んだぞ」
「必ず、みんなで迎えに来る」
「ああ、期待しないで待ってるさ」
ヘルムートはあの時、たとえ結末がどうなっていたとしても、決して後悔することはなかっただろう。
自らの信念を貫き、自らの人生を全うしたのだ。そしてこの先何があっても、最期にはきっと、そう誇るに違いない。




