戦狼
皮肉なほどに晴れ渡った空だ。潔いほどに雲ひとつなく、海鳥の影すらもない。瑠璃色の丸屋根が僕の頭上を覆っている。たとえ今、何か奇跡が起こって、空を飛べるようになったとしても、この瑠璃色の果てを見ることは永遠にない。そよ風が揺らす樹々の葉の、さわさわと触れ合う葉音が遥か下の方から聞こえて来る。どうせなら、あの樹々になりたかった。誰かが退屈凌ぎに創った箱庭に、閉じ込められている───そんな妄想に苛まれることもなく、ただ在るだけで、堂々と生きていられただろう。
漠然と広がる視界に、舌を抜かれた羊たちの頭と、拡声器で詭弁を弄する黒い狂犬が在る。よそ見をした愚かな羊に、目敏い下僕の番犬が噛みついた。どれも、繰り返されるだけの見飽きた展開だ。
乾いた砂埃が鼻を掠め、石屋根の向こうに陽を受けて聳える巌山が、視線を誘った。山陰に侍る二本の支石と舟形の天井岩との間には、先の見えない四角い闇が異空間のように口を開け僕の虚な意識を招いている。ああ、あれは門などではない。あの巨石は、骸を葬る終焉の地への入口だ。この仰々しい石の建造物は、あの山に焦がれ、挑み、敗れた者たちの墓場なのだ。僕はきっとあそこから放り込まれたに違いない。この墓場から逃げようと、あの屋根をどうにかして昇り詰めたところで、立ちはだかるのはただの山壁。外界への出口は既に塞がれている。
こつこつと石を積み上げ、どれほどの歳月と苦労を以ってして巨大な岩をあの高みへ上げたのか、それが何のために存在しているのか、僕には知る由もない。毎日、毎日、毎日、この広場に立たされる度に、あらゆる空想に耽ったが、忘れ去られた島に答えなどない。
朝の食堂に、彼らは現れなかった。囚人の波に揺られ放心していたせいか通路で逸れ、色の無い雑踏の中に紛れてしまった。無意識に選んだいつもの窓際に座り、破れて腫れた頬の肉を舌で弄びつつ皿に載った二切れのパンを、ただぼうっと眺めていると、乱暴に椅子を引き摺る嫌な音が聞こえ、視界の端に青みのある褐色の肌が映り込んだ。神経が騒めき、微かに意識を向けると、昨日上階で揉めていた小柄な男が銀色のトレイを投げるように置き、断りもなく目の前にどかっと腰を下ろした。反射的に目を背けたが、その残像に顔中の黒い瘡蓋を見た。怖いもの見たさに、もう一度視線を走らせてみたが、その好奇心はすぐに後悔に変わった。男の鼻は不自然に曲がり、片目は塞がり、もう片方も青く潰れかけ、頬骨の辺りと右手の甲は紫色に腫れ上がっていた。───この男の顔を見るのは、おそらくこれが最後だろう。僕はそう静かに悟った。若く軽薄な驕りが口火となったことは明白だが、あの熱狂に扇動され、暴力の応酬に踊らされ、こんな運命を辿るとは思いもよらなかったに違いない。
気味悪く照る分厚く膨れた瞼の下から、黄ばんだ白目が不意にじろりと僕を睨んだ。食欲が失せた僕は、関心を持たれる前に席を立ち、奔放に座る男たちの背中と乱雑に飛び出た足を避け、狭いテーブルの間を縫って、早々と残飯と食器を返却した。すぐ横で献立を選ぶ寝起きの男たちと、列を見張る制服の男の不審な視線に絡まれたが、幸い声をかける者はなく、僕は逃げるようにその場を去った。
気が狂いそうなほど、朝も夜も変わらぬ同じ景色の琥珀色に染められた石の洞窟に出ると、食堂の奥に続くトイレの在る方へ、ぽつぽつと歩いて行く囚人を見た。余した時間をトイレで費やすのを諦め、人気のない方へ行き、凸凹の陰影が延々と続く通路をしばらく進んでいたが、独りで行くあてもなく、石の壁際によろよろと身を傾け、ざらざらと肩を擦り当て、石壁の窪みに埋まるランタンの灯に寄り添った。
孤独を選び続けるべきだった。そうしていれば、こんな惨めな感情も味わわずに済んだはずだ。
薄い傷だらけの硝子の中で、魂のように炎え続ける細い揺らめきを見つめていると、じわじわと胸に込み上げてくるものがある。
僕もあの男のように、いつかここで、錆びて欠けたひとつの歯車として終わる予兆を、独り静かに悟るのだ。
耳障りな鳴音が鼓膜を劈き、ひと際大きく号令が響いた。黒い拡声器がD班にトロイの木馬の世話を告げている。三人しか居ないというのに、これもあのウラドという陰険な男の腹癒せなのだろう。しかし僕の心は、もう何の反応も起こらなかった。
盲目な肩に何度もぶつかり、傍若無人に靴を蹴られ、擦り減った踵を引き摺り歩いていると、横から突然怒号を浴びた。煩い番犬が、赤茶けた木製の銃床を小脇に挟み、ライフルをこれ見よがしに構えている。僕はその銃口を無視した。連中はこの程度のことでは弾を使わない。案の定、引き鉄は引かれず、土を蹴りあげ、唾を飛ばし、口汚ない怒声が僕を罵しった。
朝礼台の裏手に着くと、レイとアシュレーが白々しく僕を迎えた。そこにルシレフの姿はない。彼らは何も語らず、すぐさま僕から視線を外した。後ろから、わずかに揺らぐふたりの表情を見る限り、彼の安否はまだ誰も知らないようだ。
その場でしばらく指示を待っていた。普段は早くしろと急き立てる連中が、今日は妙に大人しい。積み込みを済ませたはずの坑道へ向かうトラックは、隊列を組んだままエンジンもかけず、何故かその場に留まっている。待ち惚けの僕たちは、荷台の囚人や車窓から覗く好奇の目に冷やかされ、辱めを受けているようで虫酸が沸いた。芸のない見世物に退屈したのか、荷台の男たちが何やら低い声で噂しはじめると、助手席の窓から制服の腕と警棒が突き出て乱暴に車体を打ち鳴らした。
奥のタープテントの方では既にぞろぞろと作業が始まっている。畳皺の目立つ大きな布がずり落とされ、一体の木馬の巨躯が現れた。あの図太い脚と、びくともしなさそうな石臼の胴を見ただけで、早くも疲労を感じるようだ。蛮声に囃し立てられ、大木の丸太がごろごろと雷鳴のような地鳴りを上げて転がされてゆく中、その乾いた音だけは、異様に浮き立って僕に届いてきた。
ざく、ざく、と砂を蹴る大股の足音─── そして、地面を叩き、抉る不規則に乱れた不穏な音。
心の奥に、小波が起こりはじめた。振り返ろうとする意志を、恐れが固く拒んでいる。しぶとくも僕はまだ、希望の灯りを隠し持っているらしい。しかし、現実を目の当たりにしてしまったら、それは瞬く間に吹き消されてしまうだろう。
その時、脳裏に威厳のある嗄れた声が響いてきた。
これが現実だ。だが希望は失うな。
意を決して振り向いた僕は、すべてが風に紛れ音もなく消え去るのを感じた。乾いた両目は、ぐったりと頸を垂れ、変わり果てたルシレフの姿を捉えていた。ウラドは澄ました顔で今にも崩れ堕ちそうな僕を蔑み、片手で吊るし上げていたルシレフを無造作に地面へ投げ捨てた。咄嗟に跪いて受け止めた僕は、うつ伏せに倒れ込んだ背中をまざまざと見て、そのあまりの惨状に絶句した。白いはずのシャツは真紅に濡れ、裂けたシャツの隙間から野獣の爪牙に襲われたような無数の傷が血に潤み、皮膚が崩れて肉が剥き出しになっていた。
「せいぜい、励むんだな」
ウラドはルシレフの上着を宙に放り、指示を待つ番犬たちに手を挙げて合図を送ると、ドアを開けて待機していたトラックに乗り込んだ。土埃を上げ、煙る列を成して遠ざかる荷台から、死に慣れた虚無の目が、幾つもこちらを向いていた。
熟れた柘榴のように抉られた人間の痛々しい背中を目の前にして、僕は地面に両膝を突いたまま、何もできず、動けずにいた。幸か不幸か、彼にはまだ息がある。降り掛かった上着の下の皮膚から、体温と微弱な脈を感じる。やはりあの男は、息の根までは止めることができなかったのだ。しかし、僕にはもう救えない。ただ、傍に居て、終わりの時をこうして見ていることしかできない。あの雷雨の日、血と泥だらけの手で顔を覆って泣き崩れていたアシュレーの姿が重なった。
もうこのまま解放してやりたいと希いながら、何処かでもう一度、僕たちを導いて欲しいと祈る僕がいる。
この手に運命を委ね、目を閉じてルシレフの頭に覆い被さった上着を退けた僕は、恐々と瞼を押し開け、神妙な狂喜を噛み締めた。
あなたは勇敢にも、まだ、生きようというのか ───。
走り去ったトラックの窓から指示を受けたらしき番犬が、遠くからこちらを見遣った。鞭を取り、声を荒げ、作業に就くよう急き立てながら迫って来る。僕はその男を睨み据えながら急いで上着とシャツを脱いで、ルシレフの肩を支えて慎重に上体を起こし、自分の服を俯いた顔の前に差し出した。
「お願いだ、どうか、もう一度だけ立ち上がってくれ」
ルシレフは力無く視線を持ち上げ、薄弱な灰色の瞳で僕を見上げていたが、やがてゆっくりと瞼を下ろし、深く、深く頭を沈めた。縮れた白髪は昨夜の血で固まり、眉や顎下の髭までもが赤黒く凝固して、古傷の上を新たな鮮血が染めている。自分の放った無情な言葉に胸を締めつけられた。彼にとって、こんなにも残酷な希いがあるだろうか ───。炎え続けて疲れきった最後の灯が、今、まさに消えようとしている。それなのにまだ、苦しみの火を焚べようというのか。
僕はもう、ついに、血も涙も涸れてしまった。
できることは、何もかもすべてやり尽くした。
情けなくとも、精一杯、生きたのだ。
これが運命だと云うのなら、受け入れよう。
くぐもった怒声が厚い膜の向こうで喚いている。破裂音が耳元で弾け、黒い蛇が宙を裂き、衝撃に頸が揺れ、毟られた髪が散り落ちた。右の目尻にあたたかいものが垂れ、頬を滑り、顎を伝い、冷えた緋い雫となってルシレフの白髪の毛先に流れ落ちた。そして、その一滴はまたゆっくりと、乾いた土の上に向かって滴った。
ぽたり───と砂が跳ねたその瞬間、ルシレフは、突然もう一度息を吹き返した。震える頸を軋ませ、煉獄の奥底から這い戻ったかのような形相で血潮の走る決死の双眸を瞠いた。
僕は自らの不甲斐なさと、その生への凄まじい情念に打ち砕かれ、茫然とその光景に骨抜きにされていた。この世界の不条理な景色は、目の前のこの抜け殻は、数多の傷痕と深い年輪に囲まれたその瞳に、どう映っているのだろうか。
ルシレフはゆっくりと空を仰ぎ、ひび割れた唇で大地が呼吸するように、大きく英気を吸い込んだ。すると、砂を撫でていたそよ風が、何処からともなく渦巻く風を呼び、次第に勢いを増して砂塵を巻き上げ、風砂の龍が轟々と蒼天を目がけて昇っていった。その烈しい旋風に押し上げられるように、ルシレフは揺らぐ片脚を突き立て、残る生命を振り絞り、再びその両足でこの大地を踏み締めた。
眼もろくに開けられず、砂塵に頬を殴られながら、僕は何故か裏庭の古い森を思い浮かべていた。寄る辺のない孤独を癒し、逞しく瑞々しい息吹で、いつも僕を勇気づけてくれたあの森の樹々を───。
嵐に折られ、雷に裂かれ、枝葉を焔に灼かれても、決して斃れなかったその大樹に、幼い僕は声も出ないほど胸を打たれたのだ。
巻き上がる旋風に翻弄されている番犬と囚人たちをよそに、片目の見えない、砂に塗れた貧弱な半裸の僕は、また、性懲りもなく立ち上がった。風に吹き上がる白髪の中からルシレフの厳しくも穏やかな眼光が、その決意をしかと見護ってくれていた。
蹌踉めく足取りを助けようとルシレフの腋下に潜り込んだ僕は、その身長と重さに耐えきれず、大勢を崩し、膝が震えた。それでも何とか支えになりながら、辛うじて一歩前に足を踏み出すと同時に突然重みが減った。驚いて頭を上げると、鍛え抜かれた頼もしい腕が向こう側にも加わり、ルシレフを力強く担ぎ上げた。
「たいした根性だ」
それは誰に向けたものだったのか、正面に高々と聳える金色の山を険しい顔で見据えながら、レイはそう言って片頬を歪めた。
欠員は免れたものの、満身創痍の僕たちの班にとって、巨大な荒馬を扱う役回りは過酷を極めるものだった。黄ばんだタープテントの手前に覆い被さっている厚手の白い布をふたりがかりで剥ぎ取ると、頸を休めていた大木の丸太の巨躯が堂々たる姿を現した。間近に見上げるその大きさは、馬というよりもはや首長竜だった。
並んだ丸太の上を転がしながら作業場へと運ぶだけでも相当な体力を削られた。あまりの重さに擦り減った靴の裏が地面を滑り、土が抉れるばかりで一向に進んでいるような気がしない。左腕を庇っているうえ、急に肺を広げると肋骨が軋んで思わず力が抜けた。幸いまだ視えているが血と砂の入った右目の状態は悪く、額の傷は眩暈を誘うような痛みだったが、僕は前だけを一心に見つめ、奥歯を噛み締めながら意識を保った。
ルシレフやヘルムートに比べれば、こんな傷は取るに足らない。レイに言わせれば、どれも掠り傷だ。
やっとのことで西側の持ち場に辿り着くと、待ちくたびれたぞと言わんばかりに片足を投げ出していた制服の男が、警棒の端で荷車や石臼を差しながら粗末な指図をはじめた。
「ふたりは石をその中に入れろ、残りはあのロープを持て、ある程度細かく砕いたら、そこのハンマーで均して隣の持ち場に運べ。解ったらさっさと動け、ほかの班に遅れを取ってるぞ」
用が済むと、制服の男はもう片方の手で黒い拳銃を取り出し、僕たちに無言の威圧を向けはじめた。僕はすぐさまレイと顔を見合わせた。ルシレフはあの化膿しかけた傷の痛みに耐えながら、気力だけで立っている。とても力仕事なんて無理だ。今すぐにでも治療室に担ぎ込みたいが、終礼までは赦されない。
レイの目は僕の心情を素早く読み解き、黙って一番に動き出した。僕は棟の陰に居る土気色のルシレフと目配せを交わし、陽向に歩み出て、天高く突き上げる馬の頸の太い手綱を手繰り寄せた。
荷車を押すのも重労働だが、あの場所での作業なら暑さは多少凌げる。体力と水分を奪い続ける陽射しに晒されながら、石臼に埋まる象のような岩を持ち上げる方が遥かに消耗するだろう。僕はこれまで散々彼らをあてにしてきた。
ヘルムート、君の言うとおりだ、僕も〝ただの情けないやつ〟で終わりたくない。
すると昨晩から一度も目を合わせなかったアシュレーが、藪から棒に僕を睨んだ。そして硬い無表情のまま、つかつかと歩み寄って来たかと思うと、有無を言わさず僕の手から手綱を奪い取った。あまり開けられない右目を瞬かせながら、何か言うべきかと声を詰まらせ、まったく合わせようともしない物憂い瞳を覗き込んでいたが、銃口に気を逸らされ、僕は空回りの意気込みを押し込めて、そそくさと荷車の方へ移動した。暗黙の了解で既にもう片方の手綱に待機していたレイは、眩しそうに眼窩を深め、アシュレーの方を呆れたような顔で一瞥しただけだった。
僕は肋骨の痛みを堪えながら、巌山から削り出した鉱石の詰まった荷車を押し、板を寝かせた坂を登って石臼の中にざらざらと流し込み、ルシレフと共に砕かれた石を回収する役目を担った。頭上に吊り上がった恐ろしく大きな石鎚の真下に、及び腰で上半身を潜り込ませる度に慄えが止まらず、焦って爪を割り、擦り剥き、痣を増やしたりと散々だったが、それでも僕は彼らを信じていた。燦々と照りつける容赦ない陽の下で、レイとアシュレーは上着を腰に巻き、赤い顔に滝のような汗を流し、膨張した血管と張り詰めた筋が今にも切れそうなほど、ありありと浮き上がった両腕で、必死に手綱を支えてくれている。
陽避けに上着だけを羽織った背中は、濛々と蒸れて茹だるような暑さだ。息が上がり、喉の奥に砂が張りついた。渇きと疲労でもたつくと、すぐさま鞭が跳ね、銃が吼え、怒号が容赦なく飛んで来た。正気は、一瞬たりとも気を弛めれば眩暈に頽れてしまいそうなほど危うい綱渡り状態だったが、僕は喉を引き締め、思考を止め、骨を、筋を、筋肉を、動かすことだけに心血を注いだ。
終始、気掛かりなルシレフの様子を窺っていた。僕のシャツはまたすぐに血色に染まってしまったが、彼もまた手を止めようとはしなかった。想像を絶する痛みに耐えながら、混濁しかける意識を鬼気迫る形相で衝き動かしている。すれ違う度、その猛々しい気魄が熱気を放っているようだった。やがてその気魄は、離れているはずのレイやアシュレーにも伝播し、威勢の良かった制服の男の声量が、圧し負けているような気さえした。
巨大な荒馬が嘶き、怒れる象の石槌が箱庭の監獄に地鳴りを轟かせる。何度も響き渡る、大地を割る轟音は、渇きに裂けた唇を噛み締め、苦い砂利を呑み、声を奪われ、理不尽な罵声や怒号に耐え続ける男たちの、肚の底に潜む溶岩を沸々と揺り起こしていた。
皿の上に豆と芋を転がしたまま、僕は独り、精根尽き果てた抜け殻の身体を猥雑な食堂の隅に座らせていた。シャワー室でいつものように急いで髪を洗おうとしたところ、前頭部に激痛が走り危うくまた卒倒しかけた。それ以来胃の中がずんと重く渦巻いている。さらには右の横腹に黄色と紫の斑らな痣が広がっていることに気づいてしまったうえに、鏡に向かい髭を剃ろうと剃刀を走らせた際に殴られた頬骨が痛み、右側の前髪の一部が変に削ぎ取られ、頭皮が斜めに裂け腫れていることにも気づかされた。挙げ句の果てに、今日の無理が祟ったに違いないが、左腕の痛みがぶり返し、また熱を持って疼き出している。このまま壊疽にでもなれば一貫の終わりだが、もうあの薄汚いヤブ医者の顔は二度と見たくなかった。どうせ不潔な脱脂綿での消毒と、得体の知れない抗生剤を投げつけられて終わりだ。
吐き気を呑み込み、気を取り直して、投げ出した手に立てかけていたフォークスプーンを握ろうとしたところで、誰かが近づいて来る気配を感じた。緊張に頬が強張り、視線を手元に固定したまま意識だけを気配の方へ向けてみると、視界の隅に手荒く椅子を引く赤褐色の肌が見え、また断りもなく目の前に座ろうとしている。今朝の亡霊だろうか ─── 僕は反射的に手を引っ込めて顔を背けた。すぐさま立ち去ろうと身体を捻って通路へ向けると、見憶えのある太い腕に大蛇と戦ったような痣を見た。
「浮かない顔だな。俺に噛みついたあの威勢はどうした」
少し頸を傾け、レイは目を細めて戯けてみせた。驚いた僕は思わず頬が緩み、鬱々と塞いでいた気分が一気に晴れていった。その時ふと、片側の端を持ち上げている厚みのある唇に残る小さな瘡蓋が目に入り、昨夜の醜態が僕を瞬時に真顔にさせた。ひと言くらいは謝ろうかと言い澱んだものの、そんな辛気臭い展開はきっと跳ね返されるだろうと諦めた。
「あの木馬の世話は、もうごめんだよ」
僕が苦笑しながら改めて席に着くと、レイは肘を突いて山盛りの大きな白い肉を頬張り、怪訝な顔で僕を見返した。いつもは艶の良い肌に鈍い乾きが目立っている。さすがのレイも幾らか消耗しているように思えたが、烈日の過酷な労働のあとにも関わらず、食欲が落ちないのが不思議でならない。
「トロイの木馬だよ、何となく馬に似てるだろ」
「どこが木馬だ、どう見たって人力式投石機だろ。あのデカさなら重力式投石機なみだな」
「カタパルトって確か、航空母艦の発射台だろ、全然似てないじゃないか。君は海軍にも詳しいのか?」
さらに眉間に皺が彫り込まれると、眼窩の奥で氷色の瞳が豹のようにいっそう際立った。その瞠いた瞳孔は、慣れているはずの僕をまたすぐさま緊張させる。しかし、はたと口を噤んだレイは、こちらを向いてはいるが僕を見ているようで見ていない。
「戦の狼って、何のこと?・・・なあ、レイ、やっぱり怒ってるのか?」
口の中に何か異物でも入っていたのか、しばらく気もそぞろに咀嚼しながら険しい顔で宙を睨んでいたレイは、だんだんと噛むのを忘れ、仕舞いに頬に肉を詰めたまま固まってしまったので、僕まで怪訝な表情が伝搬った。
「───なるほどな、トロイの木馬か、名案だぞ」
「何だよ・・・まさか、まだやる気なのか?」
「お前は這ってでもやる気だろ。抜け駆けしようって魂胆が見え透いてるんだよ」
レイは煽るように目を細め眉を持ち上げて見せると、急に思い切り顔を寄せてきて、ニヤリと口の端を大袈裟に歪めた。その迫力に思わず頭が仰け反ったが、いつの間にか僕まで口の端が無意識に持ち上がっていた。
「でも、もう僕たちだけなんだぞ」
「まだ三日もある。考えるには充分だ」
数々の危機と死線を潜り抜けて来たであろう男の、果てし無い楽観と挫折を蹴り飛ばすような尽きない自信は、もはや呆れるほどに頼もしかった。そのうえ彼は惜しみなく、抜け殻の僕に何度でも立ち上がる力を与えてくれる。そして、レイはひと言も触れようとはしなかったが、その台詞の中の時間には、何処かアシュレーのことを含んでいるようにも感じられた。
「ありがとう、レイ」
「身に憶えがないね」
レイは唇をへの字に曲げ、煙たそうな目つきでふたつ目の肉を頬張った。彼の真似をして片頬を歪め、腹を空かせた豹をニヤニヤと眺めていると、ちらりと上目遣いで僕を睨んで、フォークスプーンで突き刺した肉を二、三個ぶっきらぼうに僕の皿に転がした。
「もっとまともな物を喰えよ、今のうちに身体を作っとけ」
僕は頬を叩かれたように目が醒めた。彼の言うとおりだ。僕たちはこれから大海原の航海に出なければならないのだ。一体何日間船の上で海を漂うことになるのか、この先、水も食料もいつ尽きるかも解らない。こうして屋根の下で呑気に食事が出来るのも今だけだ。僕は枯れかけていた気力を持ち直し、避けていた肉を頬張り、皿の上の豆と野菜をすべて胃の中まで流し込んだ。
まだ治りきらない吐き気を宥めようと驚いた胃を摩りながら、ふと、隣の空席に視線が流れた。
アシュレーは、少しはまともなものを喰べられるようになっただろうか。
僕はアシュレーを引き留めず、説得しようとも思わなかった。少しも未練が残ってないかと言えば嘘になるが、自分の運命を決めるのは、自分自身しかいない。彼の人生は彼の選択で進んでゆくべきだ。他人が強引に舵を奪い取ったところで、その航路の先の責任を取ることなど、到底出来ないのだから。
酷く傷つけてしまったが、僕はヘルムートのお蔭で、心底それを学ぶことができた。まだ、何をどう話そうかと迷ってばかりだが、ようやく僕は、ヘルムートと向き合う決心がついた。




