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美しき監獄  作者: 八尋 世暇
Chorus

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19/24

火種

 休息の夜に、怒鳴り声が聞こえた。D班の牢に差し掛かったところで、上目遣いにちらりと二階を見上げると、細い網目の通路に鉄棒の手摺を取付けただけの粗造の足場で、三人の若い囚人が何やら揉めている。長袖かと見紛うほどの刺青だらけの男に赤ら顔の坊主頭が胸元を制され、手前に見える小柄な褐色の男は、降参の手振りを示している。性質(たち)の悪い小賢しさが、その一瞬で見て取れた。刺青男が顔を背けた隙に、和解どころか相手を小馬鹿にした態度で挑発した。それにしても、こんな環境下でもくだらない喧嘩で体力を削る気になろうとは、精神がまだ健全な証拠だ。火の粉が飛んで来ないか多少の警戒心に身を縮めて、静かに檻を潜った。いつもどおり、牢の隅には灰色の大きな岩が即身仏のように鎮座していた。


「あんな狭い場所に全員分の、それも数週間分の食料を保管してるっていうのか? 電気もないのに、どうやって」


「気化熱だ。この島の気候なら陶器や煉瓦(れんが)を二重にし、砂と水さえあればある程度低温を維持できる」


僕は開いた口が塞がらなかった。あの大掛かりな“トロイの木馬”といい、冷蔵設備といい、文明の利器に頼らず、ここまで徹底して原始的な資源と知恵を駆使しているとは、敵ながら敬意を表(ひょう)したくなる。


「あんたの弟は、発明家にでもなるつもりだったのか」


紅い本を手に、塞(ふさ)ぎ気味だったアシュレーも、これには感心と呆れの混じった顔を上げて呟いた。僕たちの注目を浴び、ルシレフは心なしか誇らしげに吊り上がった眉をさらに持ち上げ、額に深い皺(しわ)を寄せた。


「教えたのは私だ。元来、読書家でな」


彼がこの野生の島で生き延びたのは、偶然でも、ただの幸運でもなかったのだ。僕はますます、この賢者のような御大(おんたい)が力を貸してくれることに絶大な安心感を抱いた。まだ見ぬ不安な航海すらも、船を操る術に長(た)け、海を熟知した彼となら乗り越えられるような、漠然とした根拠のない自信が満ちてくる。


しかし僕たちは、まだ陸の迷宮の渦中に居た。レイがヘルムートとの密会から戻るまでの間、棟の外へ忍び出る素案をルシレフに幾つか投げかけてみたが、丁寧に、ことごとく欠陥を指摘され、僕はすっかり持ち駒(こま)が無くなった。

物資の運搬時を狙おうにも、食料はこの西の棟に保管されている可能性が高いことが判明し、負傷兵が向かいの棟へ戻る時に大扉を通るはずだが、無論見張りが同行する。最後のひとつは、点呼のあとに制服の男たちが東の棟の寝床へ向かう時に大扉の鍵が開くが、当然、僕たちは固く施錠された檻の中だ。夜間に大扉が開く機会はこの三度しかない。不可能ばかりが、どの行手にも立ちはだかる。

僕は、一歩でも前進できる、ほんの小さな兆しが欲しかったが、石の床にも根を張りそうなほど盤石(ばんじゃく)で、謹厳(きんげん)実直なルシレフに言わせれば「これが現実だ。だが希望は失うな」だそうだ。

鍵を盗むにしても、常時制服の男たちの腰にぶら下がっている。それも十センチほどもある重そうな金属製の目立つ代物だ。背後から捻じ伏せて奪うことは可能だろうが、下手なところで事を起こせば、ほかの囚人を刺激して騒ぎになるのは間違いない。万が一、密かにヘルムートが盗めたとしても、残される彼の身がいっそう危うくなるだろう。一度棟の中に入ってしまえば、気づかれずに抜け出すのはまず無理だ。どう足掻いてもこの事実は認めるしかない。

やはり、外にいる間に行動を起こすか、もしくは“暴力と運”という危険な橋を渡るほかないのだろうか───。


気分がすぐれないのか、アシュレーはまた黙り込み、ルシレフもただの岩になってしまったので、僕もまた唇を噛んで独り思案を廻らせた。これは行き詰まりではない、まだ何かに気づいていないだけだ、と思案を諦めようとしない脳が、僕の心をそう説得していた。

ついに煮詰まったのか、額の辺りに微熱を帯びてきた頭でふと奇策を閃(ひらめ)いた。

─── 死体が、この監獄で一番安全な状況なのではないだろうか。

動かなくなればそれまでだ。道具でも獲物でもなくなり、連中の関心から完全に外れる。鉱山の端に放置されていた死体は、その日の終わりにトラックに積まれ、僕たちと一緒に運ばれていた。この監獄で焼却している様子もなければ、埋めているという話も聞かない。

ふと、冷静な僕が必死な僕を嗤(わら)った。同じ班の人間が揃いも揃って同じ日に死体になるなんて見え透いている。こんな愚案にはレイはもちろん、誰も賛同しないだろう。


「なあ、素朴な疑問なんだが、ここで死んだ人たちは、あのあとどうしてるんだ。海に棄てるのか、それとも、森に棄てるのか? まさか、墓なんて造ってないだろ」


投げやり気味に疑問を投げかけて、僕は足元の鉛色の石をぼんやり見つめたまま誰かの返答を待った。よほど白けたのか、不快にさせたのか、誰からも一向に反応がない。くだらない冗談の言い訳でもしようかと顔を上げた僕は、冷たい針を飲み込んだ。灰色の瞳が槍のように尖り、僕の眼を今にも突き刺さんばかりに睨んでいたのだ。強烈な鷲(わし)の目は喉笛を塞ぎ、頭を掴み、えも言われぬ引力で眼を逸らすことさえ赦さなかった。理由(わけ)も解らず瞳が振れて、ただただ硬直していると、ルシレフは厳しく重々しい声で、僕の軽率な好奇心を険しく抑え込んだ。


「───深く考えるな。生き残ることだけを考えろ」


ずっしりと響いたその言葉の奥には、何か深く沈む凝(こごり)のようなものがあった。止まない動揺とその妙な余韻に浸り続けていると、不意に、思いもよらぬ悍(おぞ)ましい現実の臭いが鼻腔を掠めた───。しかし、その事実を現実として認識し、今にも取り乱そうとする意識を、ルシレフの慧眼(けいがん)が正気に引き留めて離さない。気づくな、感じるな、考えるな ─── 灰色の瞳が、催眠術のように僕の脳に繰り返し語りかけている。

僕が声を失っているあいだに、突然檻の外が騒がしくなった。ルシレフの重い瞳は狼狽える僕を解放し、静かに声の方を見遣った。その視線に引っ張られて通路の方を振り向くと、立ち上がって様子を見に行ったアシュレーが頭上を見上げていた。


「喧嘩だ。止めに行くか、あいつらが来るぞ」


「よせ、目立たない方がいい」


理不尽に耐える日常の鬱憤晴らしなのか、危うい綱渡りの気が狂(ふ)れたのか、締まりなく弛(ゆる)んでいた牢獄は熱狂に沸き、瞬く間に闘技場のような騒ぎになった。檻から這い出て来た男たちは拳を突き上げ、口々に煽(あお)り囃(はや)し立て、頭上のリングで殴打や打撲の音が響くたびに歓声が上がる。


まるで、猿と変わらない。人間は、本質的に闘争が好きなのだ───。


その異様な有様を、僕たちは檻の中から冷淡に眺めていた。僕たちも、彼らも、あの制服の男たちも、同じ人間の血が流れている。しかし、“同類”ではない。

この享楽の群れに決して混じり得ない疎外感が、この時ばかりは少し、誇らしく感じられた。


「おい、愉しそうだな」


突然、雷轟(らいごう)のような咆哮(ほうこう)が興奮を裂き、音が止み、一気に緊張が張り詰めた。辺りは水を打ったように、しんと静まり返り、熱狂の名残りを消しきれない引き攣(つ)った顔が、おどおどと檻や柱の陰に隠れ、声の主を警戒しながら怯えた不満に響動(どよ)めいている。

鉄の檻越しに大扉の方を覗くと、不戦の覇者の気魄(きはく)を纏ったレイが、つまらない反感を睨みで制圧しながら、通路の中央を押し開けるように、独り、のしのしと闊歩(かっぽ)してきた。この監獄のひとりひとりを殴り飛ばしたわけでもないだろうに、物陰に引っ込んだ男たちの目に映るレイは、恐るべき猛獣の影を連れているようだった。

レイは僕たちの牢の前で立ち止まると、不穏げに頸(くび)を傾け、騒ぎの発端(ほったん)である上階に、得体の知れない凄みを効かせた。僕には見えてもいないのに、血色(ちいろ)の迸(ほとばし)しる赤褐色の肌の奥に光る、凍てつくような氷色の瞳に睨まれた連中の、目を合わせないよう怯えて耳を伏せる様子が伝わって来る。


「あの男はどうしても目立つな」


「檻の中より、あの制服の方が似合いそうだ」


「同感だな」と、ルシレフは少し戯けて目配せをした。そのハーフマスクの上に覗く表情からは、さきほどの烈(はげ)しい険しさが忘れたように消えていた。彼が何を言おうとしたのか、いや、何を言うまいとしたのか、僕はその疑問を永遠に封印することにした。もう二度と、誰にも訊ねることはないだろう。


僕たちは生きてここを出る。何としても生き延びる。今はただ、それがすべてだ。



「まったく躾(しつけ)がなってないな、上はガキの集まりだ」


「近所迷惑だな」


「お前と大して変わらないぞ」


造作もなくひと仕事終えたレイは、狭苦しそうに身を屈めて檻の枠を潜ると、すぐ傍の寝台に落ち着いていた冴えない顔のアシュレーに悪戯な笑みを浮かべた。不意に大きな手で頭をくしゃくしゃにされたアシュレーは、その手を叩き上げ、顔に掛かった髪を払い除(の)けて頸(くび)を振った。機嫌良く戯(じゃ)れ合おうとするレイを鬱陶しそうに睨む顔が、また少年に戻っている。


「騒ぎを起こしたのはどの班だ!」


監房に充満していた消極的な不平の雑音を乱して、大扉が蹴破られ、今度は禍々(まがまが)しい声が轟(とどろ)いた。騒ぎを聞きつけたのか、告げ口でもあったのか、今ごろ制服の男が黒い鞭を鳴らしてやって来たのだ。レイとアシュレーは兄弟喧嘩を中断して通路を離れ、僕も奥の暗がりへと避難した。

男は警棒で檻や壁を所構わず叩きつけ、ランタンが落ちて割れるのも構わずに右腕で鞭を振り回し、逃げ惑う囚人たちを一気に牢の中へと追い込んだ。怯えた視線を追って犯人を嗅ぎ回っていた男は、警棒で耳障りな金属音を打ち鳴らし続けながら、大股で僕たちの牢の前にその全身を現した。男はひたと足を止め、息を潜める檻の前で正面に向き直ると、仁王立ちで警棒を上階に向けて突き出した。黒い看守帽の下から瞼(まぶた)の厚い三白眼と四角い顎が伸びている。ミハイルの息子だ───。


「貴様らか。何だその醜い痣(あざ)は。その腕は明日まともに使えるのか?くだらん喧嘩で和を乱して、全員懲罰房行きになりたいか?」


この男を見ると胃酸が溶岩のように湧いてくる。横柄な物言いを聴く度に、唾を吐きつけたくなる。反骨の衝動に駆られながら、僕の視線は無意識に、黒いベルトに下がる大きな鍵束と革のホルスターに喰らいついていた。それは、またとない好機のように、ありありとその姿を主張した。すぐ目と鼻の先に、僕たちが喉から手が出るほど欲している自由への鍵が、あんなにも無防備にぶら下がっているではないか。


「知らないなら、俺が今ここでルールを叩き込んでやる。おい貴様、そこに並べ。そうだ、お前もだ。全員背を向けて並ぶんだ」


逸(はや)る鼓動が、尻込む僕に選択を迫った。奴の顔は上階に向き、両手は警棒と鞭で塞がっている。牢の鍵は開いている。鞭を捨て、銃を抜く速さはどれほどだろうか。死角からそっと近づくか、いや、不意打ちで跳び出る方が、あわよくば隙を突けるかも知れない。そのあとはどうする、走って逃げるか。いや、あと先を考えている暇はない───。


「ここでふざけた真似をすればどうなるか、貴様ら、よく見ておけ」


奴は黒い鞭を振りかぶり、不敵な笑みを観客に向けて振り撒いた。


今だ、イアン、今を逃すな、今しかない ───。


「よせ、イヴァン」


ひゅっ、と息が止まった。ミハイルの息子が両目を剥き、蒼褪(ざ)めた顔で檻の中を覗き込んだのだ。あわや跳びかけた僕の身体は不自然な前のめりの姿勢で硬直し、その意図を悟られまいとする冷たい焦りが身体中を駆け廻った。間一髪で目を逸らし、呼び止めたルシレフを憎みそうになりながら、腰をわずかに浮かした妙な体勢で一心に石の床を見詰めていると、脂の光る黒い蛇がだらりと上から降ってきた。


「・・・おい、もう一度言ってみろ」


恐々と視線を上げると、死色を浮かべた男の顔が不気味に戦慄(わなな)き、忌々《いまいま》しげに牢の奥に沈む闇を覗き込んだ。その狂気は声を発したルシレフにのみ向けられている。密かに窮地を脱した僕が思い出したように息を吸うと、右腕の手首の突っ張った感触に気づいた。動かそうとすると、鈍い痛みがより強まる。僕の理性はようやく正気に戻り、まともに彼の目も見れないまま、そっと頷いてみると、白い手は闇の中で慎重に僕の腕を離した。


「やめろと言ったんだ。イヴァン」


「ウラドだ、間違えるな老ぼれ!」


男は突然癇癪(かんしゃく)を起こし、警棒で檻を叩きつけ、扉の柱を蹴り飛ばした。その肚に滾(たぎ)る憎悪が叫ぶ怒声を震わせている。この男には僕たちが見えていない。脇目を振る余裕もないほどに、牢の奥に鎮座する老師のように静かな男を、何故か執拗に恨んでいる。

ルシレフは身動(みじろ)ぎひとつ取れない圧倒的不利な状況にも関わらず、飽くまで沈着だった。その数多(あまた)の苦難や屈辱に鍛え抜かれた覚悟は、今や凄まじい穏やかさを湛(たた)えている。鞭に抉(えぐ)られ、銃弾に貫かれ、たとえその身を焼かれても、光を失うその時まで、暴力に取り憑かれた盲者に残るほんのひと雫の良心を不動の炯眼(けいがん)で見つめ続けるのだろう。この鷲(わし)の眼で、盲者の胸に炎(も)える炭火を埋めるのだ。


「気が治(おさま)らんのなら、私を連れて行け。誰にも手を出すな」


「俺に命令するな、偽善者め!聖人にでもなったつもりか!」


ウラドと名乗った制服の男はずかずかと牢に踏み入り、警棒で思い切りミハイルの頬を打った。衝撃でマスクがずれ落ち、白髪混じりの髭の合間から赤黒い血が滲み出ている。反射的に壁際まで逃げてしまった僕は何か手を打つべきかとすぐにレイとアシュレーを見遣ったが、レイがわずかに頭(かぶり)を振った。ルシレフもまた、痛みに耐えながら鋭い眼光で僕たちの思惑を制した。目敏(めざと)くその一瞬を見逃さなかったウラドは、改めて僕たちの面々を見渡し、嫉妬のような孤立の苛立ちを浮かべたかと思うと、即座に優位の嘲(あざけ)りに塗り替えた。


「ずいぶん大人しいな、俺には吼(ほ)えないのか」


よりにもよってレイを標的に選んだウラドは、癪(しゃく)に障(さわ)る挑発的な声色で、露骨な憂さ晴らしをはじめた。眼前にちらつく大きな鼻を噛み千切れるほどの距離にも関わらず、散々人を甚振(いたぶ)ってきた警棒の先で顎(おとがい)を弄(もてあそ)ばれても、唾を飛ばされても、レイは微動だにせず目を細めて、じっと堪えていた。


「良い子だな」


正当な強者を征服して、捻(ねじ)れた自尊心が満たされたのか、ウラドはレイの鼻先で犬の啼き真似を披露すると、肉厚な頬の皮を侮蔑(ぶべつ)の笑みに歪め、鼻を鳴らした。


「───いいだろう、望みどおりにしてやる」


大袈裟に身を翻(ひるがえ)したウラドは、拘束衣の頸(くび)元を乱暴に掴み上げ、まだ立ち上がりきれていない身体を半ば引き摺るようにして、見せしめのようにルシレフを連れ去った。

あとには、あの男に染みついていた錆びた鉄の臭いと、屈辱に掻き乱された三人だけが残された。その感情は声にはならず、沸々(ふつふつ)と肚(はら)の底が爛(ただ)れる熱さだけを感じていた。

額に青筋を浮かべて立ち尽くしているレイにアシュレーが近づき、肩にそっと手を添えた。目も合わさず言葉もなかったが、彼がそうしなければ、レイの奥歯は噛み砕かれていたに違いない。




「船が来る」


レイがやっと言葉を発したのは、点呼が終わり石の部屋が暗闇に包まれてしばらくしてからのことだった。アシュレーは紅い本を頭の傍(わき)に置いて寝台に横たわり、時折包帯の巻かれた腕を気にして寝苦しそうに寝返りをうった。レイはルシレフが座っていた辺りに腰を下ろし、膝を立てた上に両腕を投げ出し、石壁に頭を擡(もた)げている。

僕たちはあれから互いの視線を避けた。顔を合わせれば、肚の熱が暴れ出し、誰彼構わず襲い掛かることを恐れていた。僕はあの男に煮えた鉄を浴びせてやりたいほど肚(はら)に据えかね、傍若無人な横暴さを無抵抗にやり過ごした自責の念が囂々(ごうごう)と渦巻いていたが、その何処かで、あろうことか一抹の背徳的な思いを抱いていた。ルシレフのことは気掛かりではあるが、僕はもう、確信している。


ウラドも、そしてミハイルも決して彼を殺せはしない。


恨みとは哀れな呪縛だ。深い憎悪は、根深い執着でもある。もし彼を現実から失えば、あの二人の精神は飢えた亡者のように彷徨い、永遠に満たされない渇きに苦しみ続けることになるだろう。

しかし、慎重だったはずのルシレフが、何故身を挺(てい)してまであの場を収めたのか。その不条理に違和感を感じずにはいられなかった。身内としての恥辱に耐えかねたのか、それとも何かを意図してあの男の癇癪(かんしゃく)を誘ったのだろうか。ミハイルの息子をあれほど狂わせたあのひと言“イヴァン”とは一体誰のことだろうか ───。ルシレフは、まだ何かを秘めている。それが僕たちの脱獄にどんな影響を与えるのかも不明瞭だ。しかし僕は、彼への根拠のない信頼を未だに持ち続けている。


僕はルシレフに一種の理想を見ていた。古(いにしえ)の苔生(む)す森に息吹く大樹のような、揺るぎない威厳。大海の清濁(せいだく)を識(し)り尽くした鯨(くじら)のような、底知れぬ叡智。決して驕(おご)らず、寄る者を分け隔てなく眺め、時に厳しく、常に穏やかに諭(さと)す鷹揚(おうよう)な包容力。

ルシレフが呼び止めたのは、僕ではなかった。しかし、何故か僕はあの時“本当の父”に、呼ばれた気がした。彼のような人こそが、僕の父親であるべきだった。

その時、記憶の奥底に眠っていた微かな罪悪感が、思い出したくもない光景を脳裏に呼び起こした。

銃を突きつけられ、他人の足元に這い蹲(つくば)って泣き縋(すが)る、窓越しに見た現実の父親の顔─── 。それが、体裁に怯え、虚勢を張り、息子の心を無視し続けた、か弱い男の最期の姿だった。



「─── 今、何て言った」


寝入りかけたところに、低い小声が聞こえ、僕は目を瞬(しばたた)かせながら、壁からずり落ちていた身体を起こし、声のしたレイの方へ顔を上げた。微睡(まどろ)みの幻聴を疑っていたが、仄白い二つの瞳は確かにこちらを向いている。



「船が来る、四日後だ」


その言葉がとろとろと思考回路まで浸透した途端、一気に眠気が飛んだ。ついにこの時が来た、待ち望んだ兆しが、ついに、来たのだ。しかし昂(たかぶ)ったのも束の間、目の前に突如開かれ差し迫った現実に、期待と不安で混濁した雲が希望の光をすぐに覆い隠してしまった。


「でも、作戦がまだだ・・・それに」


「棟の裏手には番犬が居る。その先にあの海岸があるのは確かだ。洞窟かコンテナか、俺たちが確かめるのは不可能だ。番犬が何匹なのか、罠でも仕掛けてあるのか、何にしたって大手を広げて歓迎するはずがない。監視を出し抜いて裏道に逃げ込み、番犬が銃を抜く前に仕留める必要がある。それも狭路を、真っ向からだ。一発でも銃声が上がれば俺たちは袋の鼠(ねずみ)、退路は追手に塞がれ、蜂の巣にされて終わる。正面の階段を登っても同じだ。中の様子も広さも解らない状態だ、賭けになる。人質を盾にするなら可能性はあるが、あの勘違い野郎に、まともなボス犬の権威があればの話だ」


「その前に、そこに辿り着くまでの手立てがないんだ、人質も・・・」


まどろっこしく、ぐずつく僕を無視し、斜(はす)向かいの壁に寄りかかるレイは、青黒い石壁に向かって感情を押し殺した唸るような声で、強引に続けた。


「灯台下(もと)暗しってやつだな。用心深くて鉛筆まで巻き上げるくせに“火種”はそこら中で手に入る」


「・・・ランタンか、大騒ぎになるぞ」


「炎(も)えるものなら何でも炎やせ、手当たり次第だ。混乱に乗じて窓から外に出る。怪我は免(まぬが)れないが、外の連中の数は知れてる、守衛を回避して散り散りに走れば追手が湧いてくる前に向かいの棟の裏まで逃げ込めるだろう」


「あの男は、人質はどうするんだ」


「俺たちだけで行く」


「それって、どういう意味だ・・・ルシレフも見殺しにするのか」


「あいつらの内輪揉めに、これ以上巻き込まれるのはゴメンだ。それに弱った老ぼれは足手纏いだからな」


僕は酷く衝撃を受け、閉口した。脳裏に浮かぶ未来の自分の姿は、自由と平和的解決を望む知的で巧みな脱獄者などではなく、理性と知性を失った無謀な暴動の首謀者だった。

これはあまりにも、他を顧みない強行策だ。あまつさえ、ルシレフの過去と温情を識(し)りながら、冷淡に切り棄てるようなレイの言い草に、燻(くすぶ)っていた肚(はら)の熱がまた熾(おこ)りかけた。しかし、それはレイも同じはずだ。今の彼はおそらく僕以上に、冷静ではない。


「僕たちには海の知識がまるでないじゃないか、彼は絶対に必要だ」


「その知識ってのは、銃より役に立つのかよ。嵐を前に海でも割ろうって言うのか? あいつにどう絆(ほだ)されたのか知らないが、お前のその甘さが全員を危険に曝(さら)すんだ」


「それは君だろ、レイ。硝子(がらす)を踏んだ足で銃弾の中を走るんだぞ、無事で済むと本気で思ってるのか? 暴動を起こせば死人が出る、それも大勢だ、あの騒ぎを見ただろ? ヘルだって巻き込まれる。それとも、もうヘルムートのことは見棄てたのか」


おどろおどろしい瞳が、仄白く浮遊して僕を見た。ルシレフとは違い、レイの静けさほど気味が悪いものはない。僕は理性を見失いそうな頭で自分の言った言葉を反芻(はんすう)し、自省と自賛を繰り返しながら、気丈さを奮い立たせてレイの瞳を見返した。


「家族の死に様を、その目で見たのか」


「・・・何だよ、急に」


「お前が見たのはせいぜい死化粧と正装でめかしこんでる、花に埋もれた死体だろ」


「何が言いたいんだ」


「お前は簡単に投げ出すくせに、他人の生命(いのち)がそんなに大切か。いかにも善人らしく救世主ぶってるが、親を見殺しにして逃げたんだろう。俺たちは誰かを犠牲にして生きてるんだ。それとも都合の悪いことは忘れたか?」


その瞬間“ウラド”が僕に乗り移った。床を這ってレイに飛びかかり、気がついた時には呻(うめ)き声を上げながら、がむしゃらに拳を振るっている僕がいた。泣いているのか怒っているのか、自分でも解らないほどに滅茶苦茶だった。全身で圧(の)しかかった重みで、ずるずると床に沈みながら、レイは僕の胸ぐらを掴んで突き離した。太い腕に爪を立て、もう片方の手を振りかぶったその時、厚みのある濃色の唇に黒い血を見た。

一瞬、動揺に振れ、躊躇(ためら)いを感じた次の瞬間、身体が背後に引っ張られ、頬骨に重い衝撃を喰らって横薙ぎに吹っ飛び、肋骨を石の床に打ちつけた。肺が潰れたような気がする。胎児のように背中を丸め、辛うじて短い呼吸を繋ぎながら手を突いて身体を起こそうとすると、腕の創(きず)と脇腹に重い激痛が走り、うつ伏せに崩れてのた打った。


「もうやめろよ」


冷たく、ざらついた石の凹凸に頬を擦(こす)り、眩暈に揺らぐ頭を起こすと、檻を背にしたアシュレーがすぐそこに佇んでいた。蒼白い月明かりに照らされたその足に、震えが止まない手を伸ばそうとするが、指先が愕然(がくぜん)と凍りつき、最後の糸が切れたように身体が言うことを聞かなくなった。肺と一緒に心が破裂し、敷き詰められた鉛色の石の隙間に、僕を動かしていた血潮(ちしお)が止めどなく流れ出てゆくようだ。

僕は見てしまった─── 。力強く僕を掬い上げてくれた手が、清純だったはずのあの白い手の甲が、黒ずんだ鈍い色に汚れていた。


「無理なんだろ。もう諦めろよ」


僕を見下ろす瞳は悲痛に翳(かげ)り、その声は誰よりも冷たく失望していた。


「俺は抜ける、叶いもしない夢なんて、もう見せないでくれ」


頬骨の痛みが金槌(かなづち)で叩きつけるように脳を打ち、錆びた鉄の苦味が涙と混じり、口の端を伝って滴(したた)り落ちた。



僕は、まだ懲りずに夢に追い縋(すが)っていたのか。


この硬く冷たい石の上に、何度こうして無様に倒れ込んだだろう。


何も望まず、何も求めなければ、こんな苦痛を味わわずに済むのだと、あの時思い知っただろうに。


従順になって、他に紛れて、大人しく死ぬまで流されていれば良かったのに。


必死に抗(あらが)って踠(もが)くより、手を放す方が楽になれたのに。


僕は何故こんなにも、泥臭く、生きているんだ。


どうしてこんなにも、悔しくて、涙が零(こぼ)れるんだ。



もう、立ち上がらなくていいんだ。


もう諦めよう、イアン。



「・・・ああそうだ、僕は・・・確かに僕は、救世主気取りの、何もできない薄っぺらな偽善者だ、だけど、こんなところで終わりだなんて、それだけは厭(いや)だ・・・それだけは、言わないでくれよ、頼むから、諦めるなんて言うな」


現実をどうしても掻き消したくて、硬い石の床に熱い額を擦りつけ、泣き崩れながら息も絶え絶えに声を振り絞った。涙と一緒に溢(あふ)れ出た自分の言葉を耳にして、僕は、また僕という人間をつくづく思い知らされた。

遠巻きに他人を置いて生きる方が、どんなに心が平穏なのか、僕はいつの間にか知っていた。幼い僕は、仮面と鎧を僕に着せて、今までずっと護ってくれていたようだ。惨(むご)たらしく殴られて、堰(せ)き止めていたものがすべて壊れた無力な僕は、子どものように形振(なりふ)り構わず嗚咽を漏らして泣いた。ああ、こんなにも辛いのなら、以前の僕に戻りたい。あの、安らかな孤独の中に還りたい───。


僕は結局、父親と同じ人間になってしまった。


突然、両肩に力が加わり、ぐわんと身体が揺れた。だらりと垂れた僕を軽々と浮かせた力は、そのまま壁に凭(もた)れさせ、僕の薄い胸元を大きな手で支えてその場に座らせた。力無く傾いた頸(くび)の目の前に降りてきた厳(いか)つい顔がしばらくそこに留まっていたが、月明かりに濡れた氷色の瞳は顔を見ず、手の平で僕の心臓に力強く喝(かつ)を入れ、躊躇(ためら)いがちに顎(あご)をしゃくって、すぐに立ち上がった。


「─── お前みたいなヤツを、大勢知ってる。いいヤツらだったが、みんな死んだ」


アシュレーは顔を背け、歩み寄ったレイを避けて寝台に腰を下ろし、荒く前髪を掻き上げた。月の斜光に白く融(と)けて、その表情はよく見えない。


「俺たちのことは気にするな。お前の選択だ、自分の道は自分で選べ」


重く残酷なその言葉は、僕たちと彼自身に向けた精一杯の餞(はなむけ)のように骨身に沁みた。

レイは僕を殴らなかった。誰よりも屈強であるはずの彼は、最後まで誰も殴らず、いつもただただ自分が殴られるだけだった。

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