起床
目醒めはいつも、苦痛と不快を伴う。睡眠は思考と現実から解放される唯一の場所だ。
それを朝という悪魔に奪われた僕は、いつも不愉快な目覚めを迎えるんだ。
ただそれが、自分の家のあたたかいベッドの上ならまだ幸いだ。
たとえばそれが、硬く薄汚れた石の上だったならば。
さらにその鉛色の冷たい石を辿っていくと、直径三センチにもなる、錆びかけた鉄の棒が並んだ檻があったならば。
そして重い鐘の音が鳴り響くこの頭を、妙に優しく撫でる手があったならば。
そこはきっと、僕の知っている現実と想像の理解を超えた“地獄”という名の、新たな現実だ。
「やっとお目醒めだな」
少し離れた場所から、低く抑えた声が聞こえたかと思うと、不意に僕の頭を撫でていた手が止まった。代わりに、青く薄暗い空間が瞼の隙間から広がっていく。
僕は一体、何処の夢に迷い込んでしまったんだ ───。
一度目を閉じ、もう一度重い瞼を開きかけたその時、別の手がぬっと現れ、僕の髪を掴んで上半身ごと無理矢理引っ張り上げた。
「地獄へようこそ。よく眠れたか?」
その男は深い色をした肌を僕に近づけ、鼻の先が触れ合うか触れ合わないかの所で低く囁き、口の端に薄笑みを浮かべた。
「痛い、放してくれ」
そう言ったつもりだったが、僕の声は自分でも驚くほど掠れていた。昔見た夢でも時々そんなことがあった。走ろうと思っても足が縺れ、思うように走れなかったりする。徐々に意識がはっきりしてくるとともに、拍動のリズムに合わせて頭や唇、頬の痛みが僕を襲い、突然口の中に錆びた鉄の臭いが充満してきた。
「何て言ったんだ、はっきり喋れよ」
男はつまらなさそうに吐き捨て、掴んでいた僕の頭を手荒く突き放し、足元の方へ移動して座り込んだ。僕の体は糸の切れたマリオネットのように床に崩れ込んだが、幸い頭部の強打は避けられた。思うように腕に力が入らない。頭が重心を失ったボーリングの球のように重く揺らぎ、眩暈が遅れて襲ってきた。意識が、また遠退きそうになる。
「酷い顔だな、どんな拷問を受けたんだ」
また別の声に視線を上げると、傍で僕の頭を撫でていた男が覗き込んでいた。長い前髪で顔がよく見えない。代わりに骨と筋が浮き出た腕が見える。男がその腕を顔の方へ伸ばしてきたので、僕は思わず少し身を引いた。彼は奇しく微笑みながら僕の口元の血を掬い取り、しばらく指先で遊ばせてから僕の薄汚れたシャツの襟元で拭った。髪の隙間から、駱駝のような目が覗いて見えた。
「抵抗したのか、いい度胸だな。ただ、ガキみたいに喚いてたらしいけどな。連れて来た看守が、騒いだら黙らせろって言ってたぞ」
先ほど髪の毛を掴んで来た男が口の端で嗤った。僕は痛みに顔を歪めながらゆっくりと上体を起こした。動くたびに、背骨や筋肉の至る所に鈍い痛みが走ったが、倒れ込んでいた場所に血溜まりがなかったので、少しほっとした。僕は白っぽい薄手のTシャツと、中途半端な長さの長ズボンを履いているようだ。
やっとの思いで座ると、自分の身に一体何が起こったのか、困惑しながら記憶を辿った。自分の名前、年齢、多少の過去、そこまでは思い出せるのだが肝心の“拷問”とやらを受けた辺りのことをまったく思い出せない。思考を廻らせながら、今度はここが一体何処なのか目を凝らして辺りを見渡した。薄暗がりに浮かび上がる、荒目のコンクリートか何かで出来た暗い鉛色の壁と床、鍵付きの二重の鉄格子、一つしかない寝台のようなもの、確認したくはないが、おそらくトイレ代わりの囲いと台。そしてようやく、ここが何処かの刑務所の牢の中だということを理解した。その凡そ四メートル四方ほどのスペースの中に、僕を入れて五人が座っている。
「レイ、こいつ何も思い出せないみたいだぞ」
寝台らしきものに背を預けている男が静かに言った。また、新しい声だ。薄色の長めの髪をライオンのように掻き上げている。駱駝の男よりは健康的な身体つきだ。レンズの大きい眼鏡をかけ、薄暗い部屋にも関わらず布張りの分厚い本を手にしていた。表紙にはきらりと箔押しのようなものが見える。
「そうらしいな。間抜けな面もいいとこだ」
僕の足元に胡座をかいて座っている、レイと呼ばれた饒舌な男は、厚みのある唇に皮肉な笑みを浮かべて言った。暗がりにも関わらず、男の顔には陰影が彫刻のように彫り込まれ、氷河のような瞳が僕を獰猛に捕らえている。猛獣に睨まれた獲物のような気分で、どうにも居心地が悪かった。
その傍に寄り添っているのは、大きな駱駝の目の男だ。よく見ると口も大きく、こけた頬に、細い鼻梁の鷲鼻が目立つ。骨張った細長い手脚がシャツとズボンから伸びていた。
そして僕は恐る恐る、部屋の隅に居るもう一人に目を遣った。暗がりから、途轍もなく鋭い視線を感じたからだ。目を凝らすと、太いベルトらしきものが幾つもついた服の上に、轡のようなものを嵌められた頭が座っている。そして、荒く乱れた白髪の隙間から、煌々とした鋭い眼光がこちらを見据えていた。僕は慌てて目を逸らし、口の血を拭った。夢にしては臭いや痛みまでもが、やけにリアルだ。
「・・・ここは、何処かの刑務所?それとも夢かな」
僕は真面目に訊いたつもりだったが、どうやら下手な冗談に聞こえたようだ。足元に居た男が鼻で笑いながら言った。
「Arghaltだよ」
「アルグ・・・?何処の街だ?聞いたことないな」
「貧乏くじってことだ」
僕が顔を顰めていると、眼鏡の男がこちらに視線を向けて補足を加えた。
「街じゃなくて孤島だよ、大西洋に浮かんでる小さな島さ。たぶんな」
駱駝の男は顎を持ち上げ、とろんとした睫毛の長い目で気怠そうにしている。
「・・・孤島?孤島に、刑務所が?」
「そうさ、俺やお前のような極悪人が、その辺の街の刑務所から密かにここに送られて、死刑代わりに死ぬまでキツイ労働を強いられるのさ」
レイが挑発するように前のめりになり、顔を近付けて言った。その言葉を受け止めた瞬間、彼の期待通り、尾骶骨から脳髄まで戦慄が走った。
“死ぬまでキツイ労働強いられる”とい言葉に反応したのではない。
“極悪人”というその言葉に、一瞬息が止まったのだ。
僕は必死になって頭の中を引っ掻き回した。今まで僕は人並みに真面目に生きて来たつもりだ。悪そうな連中と連んだこともないし、犯罪に手を染めたことなんて一度もない。少なくとも、思い出せる限りでは。
何処かで頭をぶつけたのか、自分がどうしてこんな所に居るのか、どんなに考えても見当もつかなかった。死刑代わりなんて、僕は誰かに取り返しのつかないことをしたのだろうか ───。
いつの間にか体中に走っていた痛みは忘れ、代わりに、寒気を伴う不安に襲われた。僕が床を這う虫を追うように目を泳がせていると、レイが退屈そうに溜息をついて言った。
「まぁいい。今日から同じ屋根の下で過ごすんだ。自己紹介と行こうじゃないか。俺はレイだ。お前は、」
動揺がおさまらず、すぐには応えられなかったが、レイが急かすような不機嫌な目で僕を見ていたので、慌てて目紛しく飛び交う意識の中から答えを見つけ出した。
「ああ、僕は・・・イアン」
「俺はアシュレー、みんなアッシュって呼んでる、アンタも好きに呼びな」
眼鏡の男が、吐息のように本から一度も目を離さないで言った。
「俺はヘルムート。ヘルでも構わないよ」
痩せた男が軽く首を傾げて笑って見せた。正面からよく見ると女性のような顔立ちだ。
「そして、アイツがトルソー。本名じゃない。名乗らないから勝手にそう呼んでる」
レイは、隅に居る拘束衣の男を差した。
「トルソー?」
「アイツの素性は誰も知らない。喋らないしな。それに今は、ああやって手足も動かせない、だから“トルソー”ってわけだよ」
レイは淡々とした口調でいい、終始薄笑みを浮かべていた。まるでこの状況を愉しんでいるかのようだ。トルソーは動きもしなければ、声も出さなかったが、暗がりに光る目とその威圧感に、僕の体は硬直した。覚悟して、何とかそちらに作り笑顔を向けて、すぐに目を逸らした。
「ああそれからコイツは俺のだからな、勝手に手出すなよ」
レイが徐にヘルムートの肩に手を回し、悪戯に目を細めて言った。ヘルムートもへらへらと笑いながら彼に身を任せている。どうも、妙な雰囲気だ。
「それは、つまり・・・」
遠回しに僕が訊き終える前に、ヘルムートがレイの首にその痩せた腕を巻きつけ、見せびらかすように唇を合わせたので、僕は唖然とした。
「・・・なるほど、良くわかったし、手は出さないよ、絶対に」
僕が小刻みに頷きながら、そうっとアシュレーの方に目を遣ると、彼は少し首を竦めて見せただけだった。大して興味もなさそうな気のないその様子に、僕は密かに胸を撫で下ろした。
「ところで、何故彼だけあんなものを着せられてるんだ」
僕はトルソーの方を一切見ないで訊ねた。訊きたいことは山ほどあるが、不安が頭の中で嵐のように舞っていて、まずは状況を理解し、身の安全を確認して少しでも落ち着きたい気分だった。
「アイツは凶暴で、自傷癖もあるらしい。本来なら独房に入るべき野郎なんだが、ここにはそんな贅沢なもの無いんだとよ。それに、見ろよ」
レイは腕を差し出して見せた。筋肉が浮き彫りになった褐色の肌の上に、赤黒い瘡蓋でアーチ型を描いた破線が描かれている。
「拘束してあるからって嘗めてたら噛み付かれたんだ。まったく傷つけるのは自分だけにして欲しいもんだぜ」
その人間の歯型とは思えないほどの強烈な噛み痕にぞっとしながら、僕は懲りずにまたトルソーの方を横目で見た。彼はやはり微動だにせずこちらを睨み、音すら立てなかった。
「彼は口が利けないのか?」
「さぁな。お前なら無害そうだし、そんなに興味があるなら、仲良くなってみたらどうだ」
「・・・あからさまに睨まれてるし、遠慮しておくよ」
僕が顔を寄せて小声で言うと、レイは一度振り返ってトルソーの視線を確認してから、僕を揶揄うような表情を見せた。
「気に入られてるんじゃないのか、お前」
「冗談じゃないよ」と、反射的に言いかけたが、危うく墓穴を掘りそうだったので、開きかけた口をすぐに閉じた。僕が顔を顰めるとレイはニヤニヤと口の端で嗤っていたが、次第に口角が落ち僕の背後へ氷の瞳が移ろった。その視線につられてゆっくりと振り返ると、鉄格子の前に重々しい軍服のような装いの男が立っていた。四角い顎の高圧的なその男は、牢の中を見渡すと無駄のない動きで扉の鍵穴に鍵を差込み、開けた。
「朝食だ。八時までに食べ終え、グラウンドに整列しろ」
軍隊のような口調でそう告げると、開けた扉を背に後ろ手を組んで仁王立ちになった。入口側に居たアシュレーが、先立って外に出た。その次にヘルムートが、そして目の前に立ち尽くす僕を通り越して、レイが続いた。通り過ぎ様に、「出ろ」という目で僕を一瞥していた。
狭い鉄格子の枠を潜って出ると、先ほどまで暗闇だった通路にいつの間にか明かりが灯されており、色のない細長い空間の全容を眺め見ることが出来た。壁は無機質な平面のコンクリートではなく、何処か人の手を感じる荒削りの大きな石や小石が隙間を埋め、天井まで積み重ねられている。その天井までの距離は灰色に塗りつぶされ、ぼやけるほどに高く、押し合う石が弧状の屋根を形造っていた。左右の壁の上方には硝子のない細長のアーチ窓のような隙間が並び、微かに光が漏れている。じっと見上げていると、まるで、何処かの遺跡か要塞の見学にでも来ているような気分になった。やがて、ゆっくりと視線を下ろすと、動物園の檻のような鉄格子の嵌った石の部屋が、等間隔に突き出した石の柱の間に幾つも並んで見えてきた。二階にも同じ構造の檻があり、階段はなく、両端に取り付けられた梯子を伝って続々と囚人たちが降りてきている。
─── 残念ながら、どうやらここは本当に監獄のようだ。
制服の男は、一人一人確認するように見送りながら、燻んだ青色の作業服のような物を手渡していった。襟の先に小さな白いプレートがついており、“01587”と書かれている。腕の赤い腕章にも同じ数字が書いてあった。僕はその場に立ち竦んだまま、ぞろぞろと流れていく男たちを見ていた。身長も体格も人種も様々だ。大股で揚々と歩く者、身を屈めている者、足を引き摺る者、どの顔も脇目も降らず同じ方角を向いて歩いている。彼らの向かう先には、植物か何か複雑な模様が彫り込まれた大きな木製の扉が開かれており、皆、下流へ流される流木のように扉の向こうへと消えてゆく。
今できることは、彼らに倣って一旦ここの規則に従うことしかなさそうだ。
今のところ、彼らは僕に危害を加える気はなさそうだし、変に、妙な動きをするよりも従順でいる方が、きっと一番安全だろう。
僕は大きく息を吸って脈打つ心臓を落ち着かせ、鉛のような唾を飲み込んだ。
背後で硬い金属の気配がしたので振り返ると、トルソーが檻の隅からゆっくりと近づいて来ていた。どうやって立ち上がったのかすら解らないほど、分厚く白い拘束衣を着せられており、動きにくそうに身を屈めながら檻の出入口を潜った。レイとヘルムートは檻を出るなりすぐさま扉に向い、既にドアの向こうに消えていた。トルソーを待ち構えていた看守と背中合わせで辺りを見渡していた僕の斜め後ろには、何故かまだアシュレーが残っているらしかった。そして、どういうわけか、二人でトルソーの拘束衣が脱がされる様子を眺めた。彼を束縛する太いベルトは、両膝を繋いでいるものが一本、出口のない筒状の袖から伸びたベルトが左右にそれぞれ二本あった。これらは背面で固定されているため、トルソーは腕を体の前に交差し、巻き付ける格好をしていた。制服の男はそれらを慣れた手つきで素早く外してゆく。袖から伸びたベルトを外すと、さらに胴体を締め付ける四本のベルトが見えた。体型に合わせるためだろうか。すべてのベルトを外し終えると、看守は後ろのファスナーを降ろし、拘束衣を前から完全に剥ぎ取った。
その下から現れた陽に焼けた肌は老体ながら引き締まっており、皮膚の上から筋肉や骨の造りがすべて見て取れるようだった。彼は固まった筋肉を解すように腕を広げ、いくらか肩を動かした。最後に看守がトルソーの顔半分を覆っていた不気味なハーフマスクを外すと、大きな鼻と白髪混じりの口髭が現れた。頬には大きな傷跡が見える。よく見ると、体のあちこちにも大小様々な黒ずんだ傷痕があった。
「─── 何をしている、さっさと行け!」
看守が死角に居た僕たちに気づいて、突然声を荒げた。拘束を解かれたトルソーは通り過ぎ様に、吊り上がった白い眉をさらに持ち上げ、ぎろりと僕を見たが、言葉を発することもなく背を向けて扉の向こうに消えた。
「一度、あれを着てみたいと思わないか」
僕を先へ促して歩き出したアシュレーが手渡された作業服に袖を通しながら、唐突に顔を寄せて小声で言った。
「自殺未遂でもしてみたら?」
その声を親しげに感じた僕が少し戯けて見せると、彼は眉根を寄せて片頬で微笑み、先に扉を開けて出て行った。僕はその微妙な反応に、さっそく後悔の波が押し寄せて来たが、あとを追いかけて揉み消すような勇気は沸いてこなかった。あの、大勢が居る場所に行くのが恐い ─── 。
閉まりかけた扉に手を掛けたまま、徐に振り返り、畳まれていく拘束衣をしばらく見詰めていたが、看守が気づき、腰に携えていた警棒のようなものに手を掛けたので、慌てて重たい扉を両手で閉めた。




