覚悟
「物資と人員の補充がある。その日を突き止めて、船を狙うのが懸命だ」
拘束衣を解かれたルシレフは罅割れた窓を背にし、威厳に満ちた声で言った。朧げな月の光が、傷痕の目立つ引き締まった老体を仄白く縁取っている。
僕たちは彼の方を向いて車座になり、ヘルムートだけがベッドの上段に寝転がっていた。結局彼とは口を利かずじまいだ。みんなを避けるように出入口の方へ頭を向けており、誰もその顔は見えない。
あれから吐き気は治り、時間の経過と共にいくらか気分はましになった。相変わらず腕は腫れて熱く痛み、足の方もあちこち疼いていたが、大人しく座っている分には我慢ができる。
勇気を出して恥を承知でシャワー室から出てきた僕を誰もが当然のように受け入た。今日一日、僕だけが夢を見ていたのかと思うほど、ごく自然に話を進めてゆく彼らの、その無関心と素っ気なさのお蔭で、僕は何の抵抗もなく、ここに座って居られる。その小さな驚きと静かな感動は、行き場を失っていた無防備な心を深くじんわりと、あたためてくれた。
ルシレフは日々作業を終えて牢に戻るまでの時間を、毎晩、手錠を嵌められたまま過ごすのだという。裸にされ、シャワー代わりにバケツで水を掛けられたのち、制服の男たちが集う食堂に繋がれ、粗末な食事を強いられるのだ。頑なに口をつけないでいると、男たちは食事の傍ら退屈凌ぎに彼を揶揄したり罵声を浴びせたりするそうだ。その光景はまるで破落戸の集まりで、どちらが囚人なのか解らないと、毎日そんな恥辱を受けていながら、剛担にも呆れていた。
「あれらは金で雇われた烏合の衆だろう、統率などあったものではない。中には本職の者も居るのかもしれないが、どのみち外道だ。だが、やつらの中に潜り込む必要がある」
「潜り込むだと?俺たちも外道になれと?」
「ふりをするだけだ。何より、まず正確な情報が必要だ。潮の具合にもよるのだろうが、私の知る限りでは、船は規則的に来ているわけではない」
「あんたが一番あいつらの近くに行けるようだが、それも毎日」
アシュレーが鋭く小突いた。また片膝だけ胡座をかいて座っている。彼も何となく潜入作戦には気が乗らない様子だが、それは僕も同感だ。ルシレフは釣り上がった白髪混じりの眉をさらに持ち上げてかぶりを振った。
「烏合の衆にもリーダー格と下っ端が居るようでな、生憎ろくな情報は得られていない」
「じゃあ、あの息子は?」
思いつきざまに僕が言うと、今度は力強い鷲の眼で振り向いた。
「あれなら、持て余すほど持っているだろうな。今やミハイルの腹心だ」
「それなら、そいつが点呼に来た時を捕まえて情報を聞き出すのはどうだ。それなら潜り込む手間が省ける」
アシュレーが意見を促すようにレイや僕の顔を見渡しながら提案した。彼はいつからか案外その気になっていたようだ。それともこの少し前のめりな積極性は、しょぼくれた僕を焚き付けようとしているのだろうか。
「いつになるかわからんぞ。ここは何もかもが担当制ではない。癒着を防ぐためか、あるいは身内の結託や強奪を避けるためか、ミハイルのことだ、意図して、やつらの顔ぶれも不規則に入れ替わっている」
「相手がそいつ独りなら捕まえるのも楽勝だが、問題はそのあとだ。ここで身包み剥いだって、作業に連れ出すか消すしかないぞ。もしくは、そのまま連れて強行突破でここを出るかだ」
「消すって・・・でも確かに閉じ込めて置く場所もないし、ここだとすぐに見つかるだろうな。牢の外に隠すにしてもまず、安全な場所も解らないんじゃあ」
「騒がれたら終わりだしな」
僕の斜め後ろからアシュレーが冷静に言った。ルシレフはアシュレーの方を見遣ってから、すぐ隣で太い腕を組んで頭を捻っているレイの方に視線を流した。
「たとえ突破出来たとしても運良く船が来るとは限らん。あの海岸は崖に囲まれた深く狭い入江だ、一網打尽にされるぞ」
「巧く追手を巻ければいいんだが、目的地までのルートも不明だ、まあ無理だろうな。船を奪うにも一悶着あるだろうし、船の御一行は一体何名様でお出迎えなのか知らないが」
そう言ってレイは横目で応えを促した。ルシレフがまだ情報を出し惜しんでいると勘繰っているようだ。そしてルシレフも、おそらくそれを見抜いてはいるが飽くまで手堅く、老練は容易には手の内を明かさない。強者同士の肚の探り合いだ。
「大きさにもよるが、ミハイルを除いても四人は居るだろう」
「計五人か、息子を盾にしても抑え込むにはどう考えたって不利だな。偶然そこらに銃でも落ちてれば良いんだが」
銃なんてまともに扱えるのはレイだけだぞ、と思ったが、乗り気の腰を折らないよう、余計なことは引っ込めた。
「じゃあ、やっぱり、消すしかないのか・・・情報だけ聞き出して」
「間に受けるなよ、イアン、冗談だ」
「死体の隠し場所もないしな」
レイがはぐらかしたが、すかさずアシュレーが追い打ちをかけたので、一瞬その場に冷ややかな空気が流れた。
その手段は、冗談に留めておきたいと言う考えは、満場一致の希いのようだ。ルシレフは士気の揺らいだその場を取り成すように言葉を継いだ。
「とにかくだ、何とかしてやつらの ───」
「包帯だよ」
突然頭上から、焦ったさに苛立った、ぶっきらぼうな声が飛んで来た。
「掃除係の方がこの中を自由うろつける。つまり“負傷兵”になれば良いんだ、そうだろ、レイ」
ベッドの上のヘルムートは徐に起き上がって胡座をかくと、高飛車な笑みを浮かべてレイを見下ろした。
「・・・なるほどな」
レイは腕を組んだまま、薮から棒に降ってきた挑発に短く応えた。
「良い案だが、どうも穏やかではないな ───」
氷色の目を見開き張子の虎のように頷いている、ただならぬレイの横顔を警戒しながら、ルシレフは、ふたりを宥めるように言葉を選んでいるらしかった。
「おいお前、掃除係になりたいんだったよな」
「僕・・・は、その、向いてるかな、そんな大役に・・・」
凶暴な表情のレイが唐突に僕を見たが、冗談なのか本気なのか咄嗟に判断できず、返事がしどろもどろになった。
撃たれて縫われて吐いたばかりなのに、今度は一体何をされろと言うんだ ・・・。
「虐めてやるなよ、俺が行くに決まってるだろ。あんたらは俺を置いて遠慮なく尻尾を巻いて逃げれば良い」
「お前・・・」
挑発を続けるヘルムートに、レイはいつになく不穏な冷たい声で低く唸った。見兼ねたルシレフが手を伸ばし、立ちあがろうとするその肩を鎮めようとしたが、レイは目もくれずにその手を弾き飛ばして前に出た。
「ガキみたいに拗ねるのもいい加減にしろよ、ヘルムート」
「俺は本気だ、レイ! ただの情けないやつで終わりたくないんだ、協力ぐらいさせろ!」
ヘルムートは足元まで迫った氷色の瞳を目掛けて驚くほどに声を荒げた。その頭上の顔には血が迸り既に笑みが消えている。レイは手を挙げることもなく、じっと佇み、ヘルムートの言葉を静かに吟味していた。
おそらくこの場の僕独りだけが後ろめたい複雑な気持ちに苛まれていた。彼の台詞の真偽は解らないが、僕があの時、ヘルムートの危うい天秤を壊してしまったような気がしてならない。
勝ち目のない睨み合いに飽きたのか、ヘルムートは、ふと表情を和らげ、いつもの飄々とした口調に戻って、僕たち全員に向けて大仰な演説を始めた。
「もともと俺はそれが本業だった。あんたたちが来る前は連中に取り入って、囚人相手に商売してたのさ。髪を切るって言ったら専用の鋏までくれたんだ。好調だったぜ、誰かさんに邪魔されるまではな」
そう言ってまた執拗に煽ったが、冷め切ったレイは表情ひとつ変えず不気味に堪えている。
「みんなリラックスすると口が緩むだろ。やさしくして、機嫌を良くすれば、色々物や情報を勝手にくれるんだ。ばかなやつのせいで鋏も剃刀も没収されちまったから、もう美容師の真似事はできないが、制服ぐらいなら盗めるかもな。とにかく、イアンよりは巧く立ち回れるぜ」
最後に僕を思い切り睨んでヘルムートは締め括った。ヘルムートは、僕を憎んでいる。彼は帰りのトラックで一体何を思っていたのだろうかとずっと頭の隅で考えていた。その答えはきっと、あの時もこうして僕を睨んでいたに違いない。
呆れているのか疲れてきたのか、レイはのそのそと元居た木箱の方へ戻って行った。大股を広げて重力に任せるままにどさっと座り込み、項垂れた頸元をゆっくりと撫でる仕草をはじめた。ヘルムートはその高みから気丈な態度で、辛抱強くその応えを待っている。僕たちはその張り詰めた緊張の中、傍観者で居ることしか赦されていないようだった。
「───情報の、受け渡しは」
充分すぎるのほどの間を置いてから、レイが、うんざりしたような顔を上げて訊ねた。
「トイレだ、個室がいい、毎日交代で、ひとりずつだ。狭いし怪しまれるからな。そうと決まれば、さあ折れよ、好きなところをさ。リンチにするより気が楽だろ」
躍起になっているヘルムートは、調子づいて胡座をかいたまま両腕を両横に広げている。終始、神妙な面持ちを浮かべていたルシレフは、レイの様子をまた注意深く窺いながら躊躇いがちに重い口を開いた。
「─── 加減が分からん。賭けになるぞ」
「いいさ、恨まないからさっさとやれよ」
ヘルムートの覚悟は痛ましいほどに振り切っていた。はじめから、レイだけを試すつもりでいるのだ。僕は何度かアシュレーの方を見たが、彼もまた黙って僕を見返すだけだった。
レイはしばらく壁の方を向いて、また頸を撫でていたが、ひとつ大きく息を吸い込んだかと思うと、ゆっくりと僕とアシュレーの顔を順に見遣った。そうして僕たちの瞳の色で彼自身の選択とその覚悟を固めようとしているように感じた。もしくはその豹の眼の奥で、誰かが彼に獅噛みついて、やめてくれよと強請むのを希っていたのかもしれない。
「腕を出せ、俺がやる」
僕は“自由”という名の浮ついた希望が現実の重みを増してきたことに、じわじわと緊張を感じていた。ヘルムートの棄て身の選択は、少しでも早い処置を希って明け方に実行することとなった。
その場所は、レイが決めた。まず脚は除外、内臓に近い肋骨も却下、上腕は固定が難しく、手指は複雑骨折の可能性がある。作業場に戻されることも視野に入れると、徐々に的が絞られ、最終的に前腕の骨二本のうち、小指側の尺骨一本に狙いを定めた。その理由は、残るもう一本が固定を助け、治癒も早いだろうと言う考えからだった。
「万が一皮膚を突き破ったら、最悪切断だぞ」などと、レイが巧みに言葉を変えて、しつこくヘルムートの覚悟を試したが、何度脅されようともヘルムートは断固として揺るがなかった。レイの口から次々に飛び出す、膿漏や敗血症や腐骨などの彼が実際に目にしたのであろう、あまりに凄惨で写実的な表現の数々に、僕はまた気分が悪くなり一度シャワー室に逃げ込んだ。アシュレーも座っているのが辛くなったらしく、シャワー室から戻るとベッドの下段に仰向けになって右腕で両目をすべて覆っていた。
明け方、ごそごそと準備が始まった。僕がベッドの上から恐る恐る顔を半分覗かせると、ルシレフが部屋の隅から木箱を引き摺り出し、その箱の一部を叩き割って何やら一枚の棒切れを作っていた。
薄らと白む窓の下では、もう一つの木箱を挟んで、レイとヘルムートが物々しく対峙して座っている。
ヘルムートは青い血管の浮き立つ真っ直ぐ伸びた細長い右腕を、レイの前に差し出した。レイは黙ってシャツを脱ぐとヘルムートの手頸を固く縛り、前腕を薄く覆い、もう片方の端で肘の辺りも縛った。そうしてふたりは向かい合い、しばらく真剣な面持ちで互いの確かな決意を見つめ合っていた。
僕に、その続きを見届ける勇気は無い。
ベッドの中に身を縮めて、僕もまた、その瞬間を覚悟した。
「目を閉じて、力を抜け」
その瞬間、反射的に身体が跳ねた。それは、乾いた木の枝がへし折れるような呆気ない音だった。その鈍い音は脳の髄まで脅かし指先の神経にまで悍ましく伝播した。
身震いしている僕のすぐ下で三人は、がたがたと激しく揉めはじめた。木箱を蹴飛ばす音や、ヘルムートの悲鳴や怒声も聞こえてくる。
無惨に折れた腕とその痛みを想像しかけて、僕は咄嗟に左腕を握り、自分の創の痛みで誤魔化した。
それから朝まで、壁を向いて耳を塞いでいた。
ベッドで呻き続けるヘルムートの悲惨な声が、僕を眠らせないよう呪っていた。
これでもう誰も、以前の僕たちには戻れなくなった。
朝陽が部屋に差し込みはじめた頃、誰かに頭を小突かれた。ベッドから顔を覗かせると、ルシレフが拘束衣を眠気まなこの前にぶら下げた。
僕は、渋々ベッドから起き上がり、音を抑えて慎重に梯子を降りた。下段のアシュレーはぐっすり眠っているらしく、反応する様子もない。
向かいの下段には、半裸のレイが起きて座っていた。その背が触れるか触れないかのところに、背骨の浮いた薄い背中が見えている。
あれからずっと、こうしていたのだろうか ───。
レイは顔を背けたまま、目の前に佇む僕を一瞥した。
ヘルムートは、残酷だ。
心なしか、朝陽に濡れた氷色の瞳は声もなく、同情するなと釘を刺した。
やがてまた、制服の男が来た。腕を抱えてベッドから這い出たヘルムートは土気色に青褪め、倒れる寸前の様相だった。それでも大きな鳶色の瞳だけは気魄に満ちており、肩で息をしながら執念で立ち、歩いていた。僕は昨日の撃たれた自分を見せつけられているような気がしてきて、思わず目を逸らしたくなった。
折れた腕は、レイのシャツと木板で固定され、シャツから覗く部分は赤紫色に腫れていた。
「昨日の夜は気づかなかった」とヘルムートは、その説明に機転を効かせた。
「残念だな、せっかくの褒美が取り上げだ」
そう言って制服の男は嗤ったが、僕たちは誰ひとり嗤わなかった。
「大丈夫か」
パンとチーズを載せたトレイを持って席まで来ると、先に席に着いていたアシュレーがそう訊ねた。彼の隣に座ってレイの顔をよく見てみると、目の下の隈はともかく、艶のある赤褐色の頬の辺りが黒ずみ、少し腫れている。あとでこっそりアシュレーに訊いたのだが、どうもはずみでヘルムートに殴られたらしい。
「お前が言うな、蒼白い顔しやがって。アイツに頼んで何か薬でももらってこい。ただし、まともなやつだぞ。だいたい骨ぐらいで大袈裟なんだよ、どいつもこいつもよ」
レイはぺらぺらとよく喋った。習慣的に、無意識にそうしたのだろうが、彼の隣には空席が取ってある。しかし、そこには誰も居ない。気怠そうに、野菜ばかり喰べ、素知らぬ顔で耳を傾けているヘルムートが居ない。
たとえ彼に憎まれていても、避けられてもいい。僕はただ、ヘルムートに、いつもそこに居て欲しかった。
その膨らんできた感情を独りで抱えきれず、僕が口を開きかけると、察したレイがすかさず快活に制した。
「おい、暗い顔するな。もう動き出したんだ、弱音は呑み込んどけ」
「要はな、」とレイは前のめりになって肘をつき、気忙しくフォークスプーンの先でひらひらと僕たちを指した。
「成功させりゃいいんだ。誰かひとりでも生き残れ」
「全員だ───」
レイの顔を真っ直ぐ見ると、彼はひたと手を止めた。
「全員、生き残る。そうだろ、レイ」
大袈裟に眉を持ち上げると、レイは呆れたような顔で鷹揚に背を伸ばして離れてゆき、改まってじろじろと僕を見つめた。
「お前、言うようになったな」
僕がぎこちなく片方の口角を持ち上げると、彼もまた片頬を歪めて鼻を鳴らした。それからまた肘をつき、太い腕の陰から少し辺りを警戒して顔を寄せ声を潜めて言った。
「とにかく気を抜くなよ。何でもいいから見逃すな。アンテナを張っとけ」
レイは昨夜の一件でより士気が上がっているように思えた。もしくは、そうして気持ちを鼓舞しているのかもしれない。彼は、どんなことでも機動力に変えてしまうのだ。
僕は今朝、思いもよらない時にレイの本音に気づかされた。それは、石の部屋の隅で、ルシレフの後ろに立ち拘束衣を着せていた時だった。わずかに頭を動かし、ルシレフはほんの微かな声で僕にだけ聞こえるように囁いた。
「あの男は、どうしてもお前たちを解放したいそうだ。裏切るのは構わんが、それだけは邪魔するなと───。私は、約束した」
独白を終えると、茫然と立ち尽くす僕をその場に置き去りにして、ルシレフはまた岩のように沈黙した。
「お前昨日、頭でも打ったのか?気色悪いな」
レイに酷い顔で悪態をつかれ、僕は知らぬ間に口元が微笑んでいたことに気がついた。唇を拭うふりをして、いそいそと取り繕う様子を、アシュレーがパンを持ったまま不思議そうに見ている。
レイは食事を流し込むと「先に行くぞ」と落ち着きなく席を立った。独りで何処に行くのかと思ったが、引き止めるのはやめた。彼も、独りになりたい時ぐらいあるだろう。
レイを行かせたはいいものの、すぐ隣にいるアシュレーとの間には、何処となく、上手く噛み合わない、気まずい空気が漂っていた。僕は喰べ終えたが、隣のトレイには飲み干す気なのか満腹なのか、まだスープが残っている。時計を見た。まだもう少し余裕がある。何か話題でも探そうかと、そっと横目で窺うと、シャツの胸元にぶら下がっている眼鏡が目についた。そういえば、彼の眼鏡はこのところずっとここにある。よく見ると丸みを帯びた大きなレンズに、擦れて曇った傷が見えてきた。
「眼鏡、だめになったのか」
アシュレーはようやく食事を終えたらしく、さらりとした前髪を手櫛で掻き上げ、手頸の使い古したゴムを慣れた手つきくるくると操り、あっという間に前と横の髪を束ねて後ろの高い位置で結んだ。襟足にかかる後ろ髪はそのまま無造作に垂らしている。作業場でのいつものアシュレーの姿だ。
「暗がりじゃなければ何とか見える。目はいい方だったんだ。“アレ”のせいで悪くなった」
そう言って残りの水を呑み干した。テーブルに置かれた左腕の少し乱れた包帯をそれとなく盗み見た。彼にとっては、見えない方がいいものもある。
「まだ、ひどいのか」
「───いいんだ、いずれ治るさ」
さりげなくはぐらかすと、アシュレーは改めて透明な視線を僕に向けた。
「あんたには感謝してる」
彼の素っ気ない口ぶりから、感謝という言葉だけが浮いていた。不意に放り投げられて受け取ってはみたものの、僕の中には落ち着く場所が見当たらない。
「君の力だよ。僕は何もしてない」
アシュレーは戸惑う僕を見て、そっと悪戯な笑みを浮かべた。久しぶりに、彼のそんな顔を見たような気がする。僕は自然と心が和んだ。まるで童心に還ったような、そんな、やわらかな笑顔だった。
「左腕に白い包帯、僕たちお揃いだ」
「・・・意外とそういう趣味か、あんた」
アシュレーは意地悪く顔を顰めてふざけている。
僕は不思議と胸のうちに拡がってゆく、何処の景色とも知れない懐かしさの中に居た。まだ世界の隔たりも知らなかった頃に還ったような満面の親しみが、いつの間にか沁みじみと頬を綻ばせている。
「みんな、傷だらけだな」
─── 僕は、彼らが好きだ。
たとえ嫌われても、憎まれても、いつの日か忘れられても構わない。
ただ、無条件に、彼らが好きだ。
そう繰り返し想うだけで、心が不思議と、あたたかく満たされてゆく。
ああ、僕は今、生きているのだ。




