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美しき監獄  作者: 八尋 世暇
Pre - Chorus

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15/24

悔恨

昨夜の嵐に洗い流されたトラックは、激しく泥の飛沫を上げながら重い車体を揺らして道なき道を登っていた。相変わらず直す気もない、壊(いか)れた懸架装置(サスペンション)荷台の乗り心地は最悪だ。腰掛けた場所が運悪く、いい加減に拭った雨の残り水に濡れていた。揺れ動くたびに下着まで染み広がって不快極まりなかったが、どうせこんな日は、また泥塗れになるのだと好きにさせた。


アシュレーのあのひと言で、僕は冷静になった。浮かれた情熱も、悪質な期待も、下卑た依存も一様に消えた。何も求めなくなると人は楽になれるのだと、今さらながらに気がついた。心の中はすっきりとしていて、あの激しい雨と風に中身がすっかり洗い流されたのだ。“僕”という、容れ物だけを残して。


嵐に疲れ濡れそぼった密林は、重く葉を垂らして静まりかえっていた。湿った土や乱れた樹々の葉叢(はむら)に残る蒸れた雨の匂いを吸いながら、肩身を寄せて荷台に揺られる、売られた家畜のような囚われの男たちを見渡した。

朱髪(あかがみ)の男は片膝を立て赤褐色の顔を上げ、絡まる蔦が這い上がる石壁や、梢(こずえ)の果ての空の彼方、闇深い密林の奥地を睨み据え、跳び去ろうと機会を狙う豹(ひょう)のように繁(しげ)く随所に眼を光らせている。その少し離れた隅に背を向ける痩せた男は荷台の縁に頬杖を突き、身体を棄て、切り残した濡れ髪で顔を覆って何処かへ気分だけを飛ばしていた。隣には肌見放さぬ紅い本に取り憑かれ、掠れた表紙を親指でなぞりながら、飽きもせず物思いに浸り続ける男が居る。ざんばらな長髪頭と刺青だらけの坊主頭を挟んだ斜向(はすむ)かいには、誰も寄せ付けぬような気迫を放ち、行者(ぎょうじゃ)の如く目を伏した巌(いわお)の男が鎮座している。

彼らは皆、それぞれの瞳(め)で、それぞれの世界を視(み)ている。


“自分の選んだ道だ─── ”


あの部屋の窓際で、ヘルムートはそう毅然と言い放った。冷静になった今だからこそ思う。あの言葉は、彼が自らの足を奮い立たせて生きるための、大切な鎧だった。

驕(おご)った僕の愚かな無知が安易にそれを暴き“お前に空いたその虚(うろ)の底を覗いてみろよ”と脅してしまった。

ヘルムートは希望を拒み、自分を罰しながら生きている。彼を赦してくれる相手はもう居ない。彼は自らその道を絶った。たとえ他の誰に赦されたとしても、ヘルムートの視る世界の色は変わらない。ましてや、この僕が変えられるはずなどなかったのだ。


誰かを救いたいと追い掛けることも、誰かに救って貰えると待ち続けることも、すべて思い上がりだ。

その戒(いまし)めは、苦い痛みを伴って僕の心の壁の内側に、深く深く刻み込まれた。


風が吹いて、不意に靡(なび)いた濡羽色の髪の方へと、後ろめたい横目を向けた。痩(こ)けた頬と睫毛(まつげ)の先が少し見えただけで、その表情は解らない。ヘルムートは、また仮面をつけている─── もうきっと、取る気は無いのだろう。

僕は彼に謝りたかった。赦しを乞うつもりはない。殴られてもいい。僕が莫迦(ばか)だったのだと、ただひと言伝えたかった。



朝礼のあいだ中、僕はそぞろな意識で泥濘(ぬかる)んだ広場に足を埋め、威風堂々と聳(そび)えるあの金色(こんじき)の山壁を見上げていた。幾重にも積み上がる段状の石の屋根の裾を揚々(ようよう)と麓(ふもと)に拡げ、門を象(かたど)った巨石を侍(はべ)らせ、堆(うずだか)い尖峰が鋭利な塔の冠(かんむり)のように頑として君臨している。あれこそが、この島のすべての根源、そして、これから越えるべき試練の山だ───。

眼前に立ちはだかる美しくも猛々しい巌山(いわやま)に見下ろされているうちに、僕の気力の残骸はどろどろと垂れ、足元の泥の中へと融け出していった。疲弊した空洞の身体に、途方もない無力感だけが漂っている。何をするのも無意味に思え、もう何もかもが莫迦ばかしくなった。


僕は、何を必死に夢見ていたのか。

夢や理想は馬の鼻先に吊るされた人参だ、どうせ死ぬまで有りつけやしない。

浮かれた理想を捨てて現実を見ろ。

この世界の何処に希望が見える。この世界の誰が味方に見える。

口先だけの、ちっぽけな僕しか見えやしないだろう。

僕が今まで何を成し遂げてきた。

失敗や後悔は山ほどあるのに。


僕には、何もない。


僕は、何もできない。




鉱山に到着すると所長の息子から今日は掘削作業だと偉そうに指図された。泥濘(ぬかるみ)は免(まぬが)れたが、掘削は洞窟の奥で一日中壁に向かってひたすら山を削り続けるだけの一番苦痛な作業だ。すぐ背後には拳銃と黒い鞭を帯びた制服の男がふたり睨みを利かせて立っており、一挙手一投足にも神経が常に欹(そばだ)った。

僕は無惨に抉(えぐ)り取られた一面の壁を前に鶴嘴(つるはし)を手に下げ仁王立ちに向かった。この島の、あまりに原始的で非効率的な作業やあらゆる仕組みに疑問を抱かない日はなかったが、昨夜のトルソーの話で腹立たしくも納得がいった。

鶴嘴を持つ手に力が漲(みなぎ)る。腕を振り上げ立ち塞がる岩の壁を目掛けて力いっぱい振り下ろした。指先から骨を伝って駆け上る痺れる衝撃が心地良い。鉄の牙は岩を割って突き刺さり、黒い稲妻が走った隙間から欠片がぼろぼろと崩れ落ちた。


僕は心底、嫌気がさしていた。


もどかしさや苛立ちや後悔も、夢も理想も幻想も、この僕に在る何もかもを、全部壊してやりたくなった。

腕を撓(しな)う鞭のように振るい上げ、何度も何度も力任せに叩きつけた。高揚と快感を得た破壊欲求は壁を砕くごとに貪欲に激しさを増した。飛び散った破片が瞼(まぶた)を掠め、崩れた岩が脛(すね)にぶつかり、何度足を潰して転がり落ちても形振(なりふ)り構わず壊し続けた。衝動が空洞を満たしてゆく。身体はもっと痛みを欲している。


これが、金だろうが富だろうが僕にはどうでもいい。

こんなものを掻き集めても僕の心は埋められない。

僕にはただの石だ、人間の傲慢で抉り取られた哀れなただの石塊(いしくれ)だ!


そうだ、僕はお前と同じ石塊だ。


お前如きが何を成せる。

お前はどうして自由になりたい。

お前は何故解放を望んでいる。


たかが石塊の分際で、お前は一体、誰になる気だ。



「聞いてるのか!」


乾いた轟音が洞窟中に響き渡った。鼓膜が破れたのか、分厚い膜を張ったような残響と耳の痛みで視界が乱れて揺れている。軽い吐き気とともに我に帰ると目の前の壁に、まるで怪物に襲われたような醜い爪痕が幾つも刻まれていた。

怒号の理由(わけ)が解らず目を這わせていると、左側の下の方に虫の小径(こみち)のような一センチほどの小さな穴を発見した。その付近で不自然に舞う粉塵に気がついた時、突然腕に熱い痛みが走りだした。熱した鉄棒を押し当てられたような熱さに驚き顔の傍まで腕を持ち上げると、上着の袖にも輪郭が焦げた奇妙な穴が空いていた。


「おいお前だのろま! 何度言ったらわかる、死にたいのか?」


耳鳴りの後ろで喚(わめ)き散らす声に振り返ると、無精髭を生やした弛(たる)んだ顔の男が片腕を伸ばし、すぐ傍で黒い銃口を向けていた。


「おい、お前らも手を止めるな!撃つぞ!」


男は闇雲に銃身を見せびらかせて恫喝(どうかつ)すると、再び僕に向き直った。立派な銃を手にしていながら凛々しさの欠片もない見苦しく無様な構え方だ。何を怖れているのか、その目には、醜い笑みを浮かべた口元とはちぐはぐに、明らかな怯えがはみ出している。

僕は気怠い緩慢な動作で身体ごと振り返り、円(まる)い鋼鉄に縁取られた銃口の奥をじっと見据えた。真っ黒な小さな暗闇は、強烈な磁力で僕の意識を呑み込んでゆく。

やがて視界の端が渦を描いてぼやけはじめ、音という雑音が吸い込まれ、鉄と岩とがぶつかる甲高い山の悲鳴だけが、そこら中で幻聴のように鳴り響いていた。


刃向かえば、ここで終わりだ。

苦悩も苦難も苦痛も何もかも。

夢を追うことも、考える必要すらも無くなるんだ。


解放してくれ ─── 。


いっそのこと吹き飛ばしてくれ。

勝手な妄想を繰り返してはぐずぐずと喚き続けるこの煩(うるさ)い脳味噌を。

それですべてが終わる ─── そうだそれも解放だ。


でも、いいのか?


浮かばれない人生だった ─── 結末はこれでいいのか。

何もかも投げて逃げて終わって、本当にいいのか。

撃たれて苦しんでようやく息が止まるその瞬間に、酷い後悔が襲って来たりしないだろうな。


死よ、お前は本当に、僕を自由にしてくれるのか ───。



男はいつまでも引き鉄(がね)を引かなかった。酒に依存でもしているのか、銃を持つ手が戦慄(わなな)いている。僕は銃口を睨んだまま、莫迦ばかしさにゆっくりと頸(くび)を振り、足元に落ちていた鶴嘴(つるはし)を拾い上げ、もう一度壁に突き立てた。

それから終了の合図が聞こえるまで黙々と壁に向かい続けた。脳は黙り、心は無風で、打撲や小傷の擦れる痛みも放っておいた。左の二の腕だけが熱くじくじくと痛みを増し、袖の下で幾筋か冷たいものが皮膚を伝うのを感じたが傷口は一度も見なかった。それは意地でも痩せ我慢でもない。─── 単に、見るのが怖かった。



帰りのトラックで聴いた話によると、あの時の僕はとても不気味だったらしい。一心不乱で、何かに取り憑かれたように壁を削っていたかと思えば急に鶴嘴を投げ出し、そのままぴたりと動かなかったそうだ。無精髭のあの男が何度か罵声を浴びせたみたいだが、僕にはまったく身に憶えがなかった。不快な顔を思い出したくもないが、あの男の目が怯えていたことにも今ようやく合点がいった。

何か勘違いしているニヤけたレイに「お前、何か狂気じみてきたな」と肩を叩かれたが、特に嬉しくもなかった。

僕の左隣で作業していたアシュレーは、相当肝を冷やしたらしい。荷台に乗り込んでからというもの、お決まりの隣を陣取って、やたらと顔を覗き込んできた。


「傷を見せろ」


そう言って一度だけしつこく詰め寄られたが、僕はどす黒く染まった袖口を押さえて頑なにそれを断った。レイ曰く「そんな傷は大したことない」だそうだ。何を言われても、僕は終始口を閉じていた。

相変わらずの悪路の坂道を気にも留めない速度で下るトラックのせいで、上下左右へと激しく身を揺さぶられ、鳩尾(みぞおち)辺りに溜まった吐き気がいよいよ喉元まで込み上げている。ただでさえ気分が悪いのに、撃たれた傷口なんて見てたまるか ───。


ふと顔を上げると、過酷な一日を無事に乗り切り、血と泥に塗れて寛(くつろ)ぐ男たちに紛れ、強烈な鳶色(とびいろ)の視線を感じた。僕が気づくとすぐに顔を伏せたので、それがどんな表情(かお)だったのか、また読めなかった。

その擦(す)れた姿を目(ま)の当たりにすると、まだ謝りたいという欲がぶり返してきたが、それすらも僕の自己満足に終わるだろうと自戒した。

自棄(やけ)を起こした僕を見て、彼が何も責任を感じていないよう希(ねが)うのが、今できるせめてもの償いだった。



夕暮れの監獄に戻ると鞭を手にした制服の男たちに取り囲まれ、一斉に西側の塔の扉へと誘導される。憂鬱なシャワーの時間だ。荷台を降りた男たちは脇目も赦されず、羊の群れのようにわらわらと狭いひと所に追いやられ、列を為し、狭苦しい石の通路に押し込まれる。僕は眩暈(めまい)と吐き気で遅れを取りつつも、何とかレイたちのあとを追い、よろよろと走っていたが、列に並ぶと彼らとはいつの間にか逸(はぐ)れてしまっていた。


この通路は逃亡防止目的か何かで意図的に狭くしているに違いない。向かいの棟とはまるきり対称造りに見えるのに、この中は異様な狭さだ。前は痞(つか)え、後ろは迫り、気分がいっそう悪くなる。誰もが早く解放されたい衝動に責付(せっつ)かれているのだろう、息をするのも嫌になるほどの圧迫感だ。

蒸れた熱気で汚臭が立ち込める中、列から鼻を逃がして辛抱強く耐え忍んでいると、前方の三人先の男がいそいそと上着を脱ぎはじめている姿が見えた。

脳内の予行練習どおり、意を決して先に右手を袖から引っこ抜き、左腕の傷口辺りのどす黒く血で固まった生地を慎重に持ち上げてみた。途端に強烈な痛みが暴れ出し、独り、息を止めて悶え狂った。どうやら癒着した皮膚も袖と一緒に剥がれたらしい。痛みの具合は、もう解った───。短い呼吸を整え、もう一度耐える勇気を養うあいだに、順番が目前に迫って来た。僕はもう一度肚(はら)を括(くく)って一気に上着を脱ぎ、制服の番人に手渡すと、崩れそうな意識を気合いだけで保ちながら、シャワー室へと踏み入った。

冷たいシャワーを浴びれば幾らか気分も良くなるはずだ───。なけ無しにそう希(ねが)い、白く冷えた覚束ない指先で手探りにバルプを捻った瞬間、あまりの強烈な痛さで思わず傷口を間近に見てしまい、あえなく僕は昏倒した。



熱い ─── 。腕が炎(も)えるように熱い。腕の皮膚が触れる肋(あばら)の方まで熱されている。遠くの方から微かに何か聞こえてきた。薄く繊細な金属が擦れ合う、小さな鈴の音(ね)に似ている。何だろう、永く深い眠りから醒めるような心地よい気怠さに包まれている。ずっとこうして波打ち際で揺られていたい。

それは赦さぬ、と言わんばかりに不意に何かつんとした臭いが鼻を刺した。

この人工的な臭いは、知っている。白く無機質な空間が緊張と一緒に浮上してくる。しかし頭はぼんやりと波の上を転がり続け、答えは泡(あぶく)のように消えてゆく。


眠りの浜と思考の波の揺らぎの末、しつこく纏わりつく臭いに負けてゆっくり目を開けると、顔の真上に煌々(こうこう)と燃えるランタンの底が危なっかしく下がっていた。僕は思わず頭を避け、身を捻(ひね)った。すると突然腕に重みが圧(の)しかかり「動いたら長引くぞ」と脅された。

錆びだらけの喉笛から響いてくるような、聞き憶えのない濁った声に驚いてその脂ぎった顔を見ると、乏しい長髪を後ろへ撫でつけた黒縁眼鏡の見知らぬ男が僕の腕を押さえつけていた。その風体は着古した丼鼠色(どぶねずみいろ)の、寝巻きにしか見えないシャツのボタンを開(は)だけ、染みだらけの盗んできたような白衣らしきものを羽織っていた。怪訝に辺りを見回すと男のすぐ横に台車らしき傾いた銀の台があり、その上に散乱する緋く染まった脱脂綿と金属の皿にピンセットや鋏(はさみ)のような治療器具に行き当たった。


「寝てりゃあ良かったのに・・・」


そうぼやきながら煙草をふかし、ぞんざいに器具を投げた金属の転がる音が聞こえてきた。

─── 残念ながら治療はまだ終わっていないようだ。

僕は嫌な緊張に見舞われながら、できる限り頸(くび)を起こして部屋の中をざっと見渡してみた。足元の壁際に白塗りの棚と引き出しがあり、古ぼけた|硝子越しに茶色い薬品の瓶や錠剤の容器などが並んでいる。棚の横には点滴用の背の高いスタンドが二台と松葉杖が幾つか立て掛けてある。部屋の奥の方には黄ばんだ布を吊ったパーテーションと可動式の治療台の脚が見えており、戸口には、恐らく僕を運んで来たと思われる恰幅のいい制服の男が壁に背を凭(もた)れて退屈そうに立っていた。

機械の類(たぐい)は見当たらないが、どうやら、応急処置程度ならまともに対応する気がありそうだ。


しかしアシュレーの言ったとおり、この男は闇医者かヤブ医者に違いなかった。何故なら僕はこのあと硬い治療台にしがみつき、呻きながら歯を喰いしばって冷や汗をかく羽目になったからだ。

三日月の針が皮を貫き得体の知れぬ糸が皮膚の下を滑るごとに、男は唾と小言を惜しみなく僕に浴びせ続けた。灰が顔や傷口の上に落ちるたび、僕はその咥え煙草を思い切り弾き飛ばしてやりたかった。


───やっとの思いで治療の闘いが終わると、制服の男に下着を投げつけられた。幾らか血を失い悶え疲れた僕は、片腕で辛うじてそれを受け取ったが、向かいの棟のシャワー室から裸を曝(さら)して回ったのかと思うと、また血の気が引いてゆく思いがした。


腰のベルトに贅肉を載せた制服の男は警棒を僕の背に押し当てて、食堂の見える通路まで連れて来ると無愛想に丸い顎(あご)で僕を突き放し、十センチほどもある扉の鍵を片手で遊ばせながら元来た道へと踵(きびす)を返した。僕が逃げることなど微塵も想定していない余裕の素振りだ。僕は苦々しく独り、とぼとぼと歩き出した。

石の通路は琥珀(こはく)の灯りが照らす石壁の陰影が浮かぶばかりで、誰ひとり出歩いては居ない。踏み込むたびに腫れた足の甲が酷く痛む。痣にでもなっているのだろうが自業自得だ。

あれからどれくらい経ったのだろう。食堂に近づくと、まだ男たちの猥雑(わいざつ)な声が聞こえていた。入口の辺りになると疲れた身体に染み入りそうな、あたたかな匂いが漂ってきたが、僕は躊躇(ためら)い、結局足を止めなかった。空腹だが、まだ気分がすぐれない。


重い中世の扉を押し開け天井の高い空間に出た。食事を終え拘束を解かれた男たちが、牢の中や通路で疎(まば)らに屯(たむろ)しカードや雑談を交わすなどして限られた自由を気侭(きまま)に過ごしている。中ほどに並ぶランタンの傘の下だけに灯りが照らし、隅の方は青黒く闇深い。それは何処か怪しい界隈の寂れた屋台や客引きの立つ夜の景色に似て見える。独りでここを歩くのは初めてだ───。幾度となく経験した嫌な記憶が、踏み出す一歩を怖気づかせた。しかし助けを待ってもどうせ無駄だ。

僕は気を張って男たちを避けながら一気に部屋の真ん中を潜(くぐ)り抜けた。傍を通る度に視線を感じ、微かな嗤(わら)い声に引っ張られたが、前だけを睨み、決して誰の顔も見なかった。

これも、僕が勝手に創り出した、不安の蠱惑(こわく)にすぎない。過ぎてしまえば、僕のことなどすぐに忘れる。誰も僕のことなど気に留めていない。誰も僕など見ていない。すべては、気のせいだ。


重い扉が背後で唸りを上げて閉まると同時に雑言(ぞうごん)の気配が消え去った。細まった小径(こみち)の洞窟を照らす焔(ほのお)の灯だけが、僕だけの途(みち)を音もなく静かに燈(とも)している。

急に肩の力が抜け、芯からほっと胸を撫で下ろした。独りきりになったのはいつ以来だろうか。

こうして独りで居るよりも、大勢の中に居る方が孤独の虚しさをより強く実感する。何故だろうか、今はこの孤独こそが、やさしく僕を癒してくれる。孤独は僕に、深い深い安らぎを与えてくれる。


僕は異質だ、僕は、やっぱり違うのだ、僕は、どうしても“フツウ”にはなれない。


寛(くつろ)いでいたのも束の間、不意に、昼間の出来事が今になってまざまざと悍(おぞ)ましく甦ってきた。

あの恐ろしい凶器が、凄まじい痛みを生む拳銃が、すぐ目の前で僕の顔に向けられていた。熱っされた鉛玉が僕の皮膚を焼き、僕の腕の肉を抉っていった───。あれが内臓や骨や動脈だったなら、もしも顔や頭だったなら・・・また膨らんだ要らぬ想像に胃の中を掻き乱され、急激に吐き気が押し寄せてくる。慌てて息を止め、喉を締め、突き当たりの部屋を目指して僕は前のめりで駆け出した。


扉を跳ね開けて一目散にシャワー室へ飛び込むと、ランタンの灯に不気味に浮かび上がる薄汚れた洗面台が真っ先に出迎えてくれた。途端に喉の緊張が緩み、その洗面台の清潔さを確かめる余裕もなく倒れ込むように飛びついて何とか間一髪で間に合った。

腹をきつく絞られ何度か胃酸を吐いたが、そのあとは胃の皮が翻(ひるがえ)りそうになるばかりで、少しも楽にならない。今朝から水しか飲んでいないのだから当然だ。そのうち顔を突っ込んでいる排水溝周りの水垢や黒ずみが気味悪く目立ちはじめ、僕は息も切れ切れに上半身を起こした。バルブを捻り、吹き出て来た茶色い液体をやり過ごしてから口と手を濯(すす)ぐと、膝から順に力が抜け、ずるずると冷たい石の上に崩れ込んだ。


惨めだ・・・ 堕ちるところまで堕ちた気がする───。


見たくもないのに、すぐ傍の洗面台の裏側が視野に入った。この陶器も生まれたての頃は艶があり美しく白かったのだろう。今や留め具は腐食し表皮が剥がれた黒い割れ目から、赤錆色の涙が幾筋も垂れ、劣化した配管からは茶色く濁った汚水が漏れ出て足元にまで滲み出ている。

今の僕にはお似合いの光景だ。


「イアン」


ノックも無しにいきなり扉を開けたのはアシュレーだった。その後ろで相変わらずニヤけたレイが何か言おうとしていたが、アシュレーに睨まれると戯(おど)けた顔を残してすぐに退散した。レイが何を言いたかったのかは、大体予想がつく。

もう少し独りで休みたかったが、深刻そうなアシュレーを無視するわけにもいかず、僕は仕方なく視線を上げた。


「もう点呼の時間?」


アシュレーは軽く頸(くび)を振って、しばらく扉に手を掛け言葉を探しているようだった。盗み見るような視線で僕の傷や痣のひとつひとつをいちいち数えている。落ち着かない様子のアシュレーが一体何を言い出すのか、それを待つあいだ、逃げ場のない僕は少し居心地が悪かった。


「───危ないのは、あんたの方だったな。死ぬ気なら何でもするって、あれが証明か」


どうせ責めるのなら、怒鳴るか放っておいて欲しかったが、その半端な気遣いが僕を言葉に詰まらせた。適当な返答を探すあいだ、まだ吐き気が残るふりをして、アシュレーの顔をできるだけ見ないようにした。この期(ご)に及んでもなお、あの透明な瞳に向かって嘘はつけそうにない。


「ヘルが言ったんだ、自由になるのが怖いって。それで僕も怖くなった。でもやっぱり、死ぬ方が怖いよ」


“すべてがどうでも良くなったんだ”とは、彼にだけは言いたくなかった。

アシュレーは気が立っていたが、何処か責任を感じているような素振りにも見える。その理由は僕には解らない。渦巻く感情の中から無難な言葉を選りすぐっているらしく、いつもの清々しい彼らしくない。


「レイが、気が乗らないならやめると言ってる。無理強いは、しない───」


「僕はやめない」


アシュレーはいっそう混乱した様子で即答した僕を見た。何か言いかけたがすぐにやめ、瞳を澄まして僕の心を隅々まで見透かそうとしている。今度はその顔から目を逸らさず、真っ直ぐに見返すことができた。

本当は早く楽になりたかった。何もかも曝(さら)け出して、在りの儘(まま)で生きたい。

しかし、その結果を受け止める度胸もなく、彼の理解と洞察力に甘えるしかない。そんな今の自分が情けなかった。


アシュレー、君には偉そうなことを言ったが、本当の僕は死んだように生きていた。

瓦落苦多(がらくた)を貼り付けた空っぽな骸(むくろ)を引き摺り、流されるまま漂っていた。


死んで楽になれるのなら、何故死ぬことを恐れるのだろう。

痛みや苦しみは、生きているからこそ感じるはずなのに───。

暗闇の中で、僕は死よりも恐ろしいその答えに触れた。


それは投げ出した人生を惜しみ、時の無い無限の環の中で、永久に後悔し続ける終わりのない苦悩だ。


この僕のことだ、あながち、あり得ないこともないだろう。



「どうせ生きるなら、やっぱり最期まで足掻いてみたい。死んでからも管(くだ)を巻くなんてゴメンだ」


僕は出来るだけ自然に、いつもの僕を演じ続けた。アシュレーは出口を塞いだまま、錆色に濡れた地べたに座り込む、傷だらけのちっぽけな骸を眺めている。その表情には複雑な色が万華鏡のように代わる代わる見え隠れしていた。互いに何度か言葉を紡(つむ)ごうとしていたが、それはどうしても声にならない。

もどかしい縺(もつ)れた時間がしばらく続いていたが、ついにアシュレーが見切りをつけた。

一度外の方を見遣ったので扉を閉めるのかと思ったが、彼は去るどころか、少し前屈みになって僕の前に無言で手を差し伸べた。その手を見て、僕は思わず怖気付いた。彼の右手は薄明かりの中でもひと際白く浮かんでいる。血と泥に塗れても決して穢(けが)れないその白さは、堕ちて薄汚れた僕にはまるで不釣り合いのようにしか思えない。

いつまでも躊躇(ちゅうちょ)していると、アシュレーは睨むような真剣な表情(かお)でさらに一歩踏み寄った。


─── また、立ち上がらなければならないのか。


僕は、否応無く顔の前まで差し出された手をしかと掴んだ。ほとんどその手に引き上げられてようやく立ち上がった姿を見届けると、口の端に薄い愛想を見せて、アシュレーは部屋の奥へと立ち去った。腑に落ちたと言うよりは“気に留めておく”といった視線を残して。

僕は右の手の平を覗き込んでそっと握った。やわらかな人のぬくもりが、まだそこに在るような気がした。

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