傲慢
朝になると嵐は去り、石の監獄はひんやりとした静けさに包まれていた。温暖なこの島にしては珍しく少し肌寒いくらいだ。ここにも冬枯れの季節が来るのだろうか。瞼に朝陽を感じながら、そんな平和な日常の退屈の合間に浮かぶようなことを寝床で考えていると、油の涸れた蝶番の音が不躾に静寂を破壊し、軋む扉と敬意のない声が僕たちを現実に叩き起こした。
結局、記憶がないのは明け方のニ時間ほどだけだ。のろのろと起き上がる彼らを見る限り、眠れなかったのは僕だけではないようだ。
戸口に現れた制服の男は、所長の息子でも昨晩の男でもなかった。看守帽も被っておらず、小汚い髭面のこれまでの中で一番だらしない男に見える。また、顔ぶれが変わったようだ。肩に下げた布袋から取り出した人数分の作業着を無作法に投げ込み、指図を受けるまでもなく眼前に立っていたトルソーの拘束衣を解きにかかったが、まるで、知恵の輪にでも挑んでいるかのような顔つきで酷く難渋していた。
僕たち四人は作業着を拾って袖を通すと、冷ややかな無言でその前を横切り、細い廊下に出てレイを先頭に一列に並んで食堂へと向かった。
装飾が彫り込まれた仰々しい木製の大扉を開くと両側に檻が並ぶ空間に出た。僕が最初に放り込まれた場所だ。ランタンの灯は消され、青く霞むほど高い天井近くに並ぶ円弧状の細長い小窓から、やわらかな光が淡いヴェールのように射し込んでいる。それを見つめていると、まるで古代の礼拝堂を訪れているような、神秘的で静謐な美しさに包まれる。僕は毎朝、この場所を見上げるのが好きだった。
「きれいだな」
はっと驚き振り返ると、アシュレーがまるで僕の姿をそっくり真似するように薄く唇を開き、雲間から差す薄明光線のような仄白い光芒に恍惚と見惚れている。僕は何故か気恥ずかしくなって口籠った。血と泥の中で見つけた密かな愉しみを覗かれてしまったような、こんな場所でも美しさを感じてしまうこと自体がが奇怪で異質なような、そんな後ろめたい気持ちに独り苛まれていた。
「誰も来なければ、ここもきれいなままだったのにな」
僕の羞恥心など露知らず、アシュレーは透き通った眼差しで天井を見上げたまま、純真なひと言をそっと呟き、そしてゆっくりと顔を正面へと下ろしていった。その何も語らなくなった瞳には、かけ離れた理想と現実を儚む寂しげな鈍色がまざまざと映っており、それを目の当たりにした僕もまた同じように、美しさは暗く虚しく褪せていった。
檻から放たれた髪色や肌色の違う様々な背格好の男たちは、自由なはずの顔を上げて誰も光を見ようなどとはせず、ただ前の男の後ろ姿を見つめ、色を失い、土塊か幽霊のように力無く足を引き摺り肩をぶつけ合いながら泥の流れに身を任せ、皆が向かう奥の扉の方へと押し寄せていく。そして何を決意し、何を感じて、何を志していようとも、今はまだその流れから逃れられないことが、痛切に歯痒く心底悔しかった。
雑踏の中に紛れて土気色の顔をそれとなく一瞥しながら、僕は昨晩のレイとの会話を思い出した。
僕たちが成功すれば、彼らもまた色を取り戻せる日が来るかもしれない。
「どうする、彼を信用するのか?」
誰も話を切り出さないので、もどかしくなった僕がついに口火を切った。食欲が無いのかレイは肘を突いて生成色のフォークスプーンの先で白い肉をつついて弄んでいる。ヘルムートは相変わらず舌を失くしていたが、刺々しい態度は改め、大人しくいつものようにレイの隣を選んで座った。しかし、その何か吹っ切れたような妙に澄ました表情が、目の前に居る僕をよりぎこちなく緊張させている。
「ほかに選択肢があるのかよ。あの風貌にあの傷だ、あながち嘘でもないんだろ」
転がされ続ける憐れな肉の様子を見ていた僕に気がつくと、レイはようやく肉を突き刺しこれ見よがしに頬張った。どうやら彼も、この息が詰まるような張り詰めた空気を感じ取っているらしかった。
「手助けの方だよ。あれを本気にしていいと思うか」
「何か肚に一物抱えてるのもしれないが、俺たちをハメるにしてはやけに回りくどいしな。向こうがその気なら、こっちだって利用してやればいい」
子ども扱いされたことを根に持っているのか野生の勘が働いているのか、レイはそう簡単には腹を見せないつもりのようだ。豪胆で豪快な性格だと思っていたが、案外慎重で警戒を怠らない一面もあるとは、軍人経験がそうさせたのだろうか、とにかく意外だった。そしてその頼もしさの中心には、過敏で繊維な糸が潜んでいるのではと、僕はまた胸ぐらを掴まれそうなことを密かに考えていた。
そんな点に一度気づいてしまうと僕にはもう、一方的な共感性と勝手な偏見が生まれてしまう。ルシレフに対してもそうだ。はじめの好意的な先入観がずっと頭を擡げていて、大事な決断は彼らの客観的で公平な判断力の方に委ねてしまいたかった。
「目的が同じならいいんじゃないのか」
アシュレーはまるで無関心にも思えるほど端的に言った。彼は片脚を椅子に乗せて座り、紅い本もまた定位置の膝の上にある。今日は少し食欲が戻っているようだ。小さな硬いパンを二切れ喰べ終えると、昨晩失った水分を補うためか頻りに水を口に含んでいる。あの雨の日のアシュレーは、そこには居ない。
僕はそのあまりに冷めた横顔を見つめながら、冷徹にも柔和にも思える掴みきれない彼の性質に、また少し距離を感じた。
「俺は残る」
突然、ヘルムートが盤上の駒を掻き散らすように啖呵を切った。そして唖然とする誰の顔も見ずに席を立つと、通路の方へ身体を向け、レイの後ろへ回ろうとした。僕はじっと長い前髪に見え隠れするその顔を追い、微動だにしないレイの出方を固唾を呑んで待っていた。
すると、背後を通り過ぎるか過ぎないかのところで、レイは眉ひとつ動かさずヘルムートに向けて野太い声を投げかけた。
「いいように使われて、捨てられるだけだぞ」
「─── そんなの、何処でだって同じだ」
ヘルムートは頬にかかる前髪の隙間から冷ややかにレイを見下ろすと、気重な空気を見限りをつけ、ついに通り過ぎて行った。
「そうか。お前の好きにしろよ」
レイは顔を上げて他人行儀な声音を使い、振り返らずに遠退いてゆくだけの薄い背中を睨んだ。あのシャワールームから聞こえたような、彼らの剥き身の喧嘩を覚悟していた僕は、呆気なく身を退いたレイと、みるみる遠去かっていくヘルムートの狭間で独り焦って狼狽えた。
「引き止めないのか、レイ」
「話しても無駄だ。覚悟がないヤツの末路は決まってる」
「そんな・・・こんなのまるで見捨てたみたいじゃないか・・・」
僕は居ても立っても居られず、喰べかけを皿に残したままトレイに手を掛けた。
「おい構うな、放っとけ」
「君はヘルの顔を見てなかっただろ!」
如何にも煩わしそうに眉を歪めるレイに、僕は思わずまた声を荒げてしまった。気まずさからすぐに顔を逸らしたが謝る気にはなれず、早くここから逃げ出すべく僕は席を立った。
彼の目には僕もヘルムートも“面倒なヤツ”としてしか映っていない。潔さは裏を返せば冷血にもなり得るのだということを知らないのだ。
拠り所を失ったヘルムートは、もしかするとこのまま消えてしまうのではないか ───。
レイを映して輝きを宿す鳶色の瞳が思い浮かぶ。あの脆く危うげな笑顔が思い出され、ひたすら焦燥と不安が募っていった。
「イアン」
わずな重力が肩を引いた。肩越しに振り向くと上着の裾にアシュレーの右手が伸びている。気遣っているのか窘めているのか、彼の静かな瞳は僕をしばらく硬直させた。
その手を冷たく振り切ることは、何かを断ち切るようで少し気が咎めてもいたが、拮抗する、不可解な使命感を帯びた焦りが僕を先へ先へと急かしている。強く目を閉じ、アシュレーから身を逸らすと、肩の重みは意外にもすっと軽くなった。柱の時計を一瞥し、僕は足早にヘルムートのあとを追った。
昼夜同じ景色の石の廊下に出ると、背丈の疎らな三人が連れ立って歩くその向こうに、すらりとした手脚と頸にかかる濡羽色の髪がすぐに目についた。僕は小走りで三人を避けてその背中に駆け寄り、骨張った肩を夢中で掴んだ。
「ヘルムート、待ってくれ!君は本当に残りたいのか!」
扉に手を伸ばしかけていたヘルムートは驚いて身を翻したかと思うと、血相を変えて僕の腕を掴み上げ、扉を跳ね開け、乱暴に中へと投げ込んだ。
危うく前のめりに転びかけた僕は体勢を起こしながら、ここがトイレであることに気がつき、初めて見る無気力な彼の暴力的な振る舞いに驚いて、目を疑うように恐々と振り返った。ヘルムートは閉めた扉を片手で押さえて僕を指差し、幾らか抑えた声量で押し殺していた感情を露わにした。
「声がでかいんだよあんなところで!少しは考えろ!」
「悪かったよ、つい必死になって・・・」
「それに俺はもう決めたんだ。何も話す気はない」
ヘルムートは扉から離れて洗面台が並ぶ鏡の方へ進むと、苛立った仕草で前髪を掻き上げながら腰に手を当て、深いため息をついた。素っ気ないその態度に僕はむっとした。また心に蓋をするつもりだ───。口先でどんなに否定しても、その意地を張り続ける肚の底で犠牲になっている多くの感情が、その声の余韻にありありと滲み出ている。
ほかの男たちは急かされる前にグラウンドへ向かったのか、外の通路に声はなく、邪魔が入りそうな気配もない。僕はヘルムートとふたりきりであるこの場を、またとない最後の好機だと確信した。頑なに背を向けてはいるが、誠意を持って引き留めれば、きっと心を動かしてくれるだろうと一心に信じて疑わなかった。
「レイはあんな風に言ってるけど本当は嫌なんだよ。君を、置いて行くのが」
呼吸に合わせて上下しはじめた骨張った肩を、本能的に視線が捉えて追っていた。
「君だって分かってるんだろ、ヘルムート───」
その間隔がだんだんと短く激しくなるにつれ、両腕を胸の前まで持ち上げ、その衝撃に備えて僕は知らないうちに身構えていた。
「あんたに何が解るんだよ!」
発作的に跳び掛かってきたヘルムートは抵抗する僕の手を力尽くで捩じ伏せ、左腕で胸ぐらを掴んで石壁に追い遣り、右腕で喉元を思い切り押さえつけた。振り乱れた髪の隙間から殺気立った大きな瞳が僕を険しく睨みつけている。青筋が浮き立つ血走った形相に迫られ、思わず仰け反ると後頭部と背骨が擦れ、ごりごりと不穏な音を立てた。あまりの痛さに身を捩ると、逃すまいと容赦なくその手に力が加わった。この華奢な身体の何処からそんな力が出せるのか、少しも押し返せる気がしない。僕は痛みを堪え、ゆっくりとできる限り力を弛めて抗うのをやめた。何か形成逆転の策があるわけでも屈服するつもりもない。形振り構わず激昂した彼の姿に、恐怖よりも、罪悪感を感じはじめていたからだ───。
それでも僕は、彼を見捨てたくなかった。たとえ殴られても構わない。僕が感じ取った彼の心の声を、どうしても信じてみたかった。
「僕も嫌なんだ、ヘルムート、君を、置いて行きたくない」
圧迫された喉笛から、か細い声を絞り出し、僕は諦めずに対話を続けた。
「怖いんだろう、レイが離れて行くのが。でも───」
「半分」
ヘルムートは、黙れと言う代わりに僕の言葉を堰き止めた。
「もう半分は、向こうで生きていく自信が無いだけだ。ここなら寝床もあって、死ぬまで喰える。レイは軍人だ、立派だよ。向こうでの生活にも上手くやれるさ。すぐに馴染んで、そのうち周りの連中と同じように家庭や子どもや“まともな”幸せを持ちたくなるさ。───でも俺は違う。俺は、あんたらとは違う」
僕を睨みつけていた大きな瞳は、水を張ったようにみるみる潤んでいった。その悲痛な感情を卑屈な笑みで誤魔化そうとしている彼を、僕はただ見ていることしかできなかった。
「今だって、この屑籠の中から俺を拾って慰み者にしてるだけかもな」
「よくそんな言い方が出来るな・・・」
「違うって言いきれないだろ。珍しくもない、よくあることさ」
そう吐き捨てながらヘルムートは右腕を退けて半身を引き離し、僕の喉と後頭部の痛みを解放した。しかし、胸ぐらを掴んでいる方の彼の左手は、まだ僕を赦したくないようだ。
「君は悲観しすぎだ、少しはレイを信じろよ。先のことだって、まだ分からないだろ」
僕の中にある拭い切れない不安とヘルムートが抱える不安とが混濁したのか、次第に声が小さくなっていたことに気がついて、僕はもう一度を意識を奮い立たせた。
「それに・・・それに、こんなところで奴隷みたいに使われるだけの人生なんて、本当に生きてるなんて言えるのか!」
するとヘルムートは小頸を傾げて眉根を寄せ、哀れむような目で僕を見下し、大きすぎるほどの薄い唇の片側を吊り上げ、せせら嗤いを浮かべた。
「ずれたその自信、その能天気さ、あんた、恵まれた人生だったんだろ? 俺はそんな甘い人生じゃなかったからな。半端な賭けより安定を選ぶ、それだけだ」
また、繰り返されたその言葉は、ひときわ大きく僕の中で反響した。
“恵まれている───”
アシュレーにも棘を刺され、僕が彼らに対しても抱いていた僻みの言葉。
それは憧憬の歪んだ嫉妬のかたちであり、現状を、在るが儘の自分を認めたくないだけの屈折した痛々しい言い訳に過ぎない。
ヘルムートの後ろに僕の影が見えた ───。
まるで鏡に向かって自分自身を詰る哀しさが胸の奥で弾け、その溢れ出た膿に灼かれるように熱がじわじわと沁みてくる。その熱い痛みに感じ入りながら、僕はいつの間にか穏やかな声で、かつての自分を慰め諭そうとしていた。
「変わればいいじゃないか、ヘル。もう誰も僕たちのことを知らないんだ。これからは、誰にだってなれるよ」
「無神経に、無責任に・・・ずいぶん簡単に言ってくれるよなあ」
ヘルムートは口元を歪めて深く俯き、震える言葉を噛み殺している。その声はもう声にはならず、ほとんど呻くような悲鳴を漏らしていた。長い前髪が揺れ落ち、その目元を庇うようにはらりと覆った。
「じゃあ、あんたは一体誰になるんだよ、イアン」
「さあ・・・まだ、決めてない。それに上手くいくかどうかも解らない。でも、もう誰にも僕の人生を渡したくない。本当の自由を生きてみたいんだ」
「俺は自由が恐い。夜の海に飛び込むのと同じだ」
ヘルムートは歪な石の隙間の深淵を覗き込んで頸を垂れたまま、もう顔を上げることはなかった。
彼の重い言葉は鉛となって僕の中にずっしりと澱んでいった。
ヘルムートの心は、ずっと暗い海の底に沈んでいたのだ。
時折、光の差す水面を気紛れに見上げているだけに過ぎないのだ。
憔悴しきった顔を下げたまま、徐にヘルムートは胸倉を掴んでいた拳で僕を手荒く突き放した。その力にされるがまま蹌踉めき、僕はもう一度石の壁に背中をぶつけた。あんなに意気込んでいたいた僕の意思も、もうすっかり萎えてしまった。
好機を棒に振った ───。ヘルムートのためにと固く信じ、必死になって歩み寄ったつもりだったが、寄れば寄るほど見えてきたのは、彼の心を穿つ、底知れぬ虚の深さだった。
不意に大きく息を吸うと、気を取り直した様子でヘルムートはもう一度仮面を被った。乱れた前髪を掻き上げ、大きな唇を横へ引き延ばし、いわゆる“笑顔”の形に歪めている。その造形は、彼本来の自然なものとはほど遠く、虚しい醜悪さに塗り固められていた。
「俺はなあ、あんたらがどうなったかなんて知りたくもない。今ごろ何処かで呑気に暮らしてるんだろうなって、いつまでもそう思いながら、ここでくたばるさ」
「─── 勝手だな、僕たちの気持ちは無視なのか」
「お互いさまだ、解ったらもう俺に絡んで来るな。・・・何が僕たちだ、仲間気取りめ」
ヘルムートはポケットに手を突っ込んで扉の方へつかつかと歩きだし、肘の尖った骨をわざと僕にぶつけて出て行った。
取り残された僕は、腕の響く痛みとごつごつした石の冷たさを背中に感じながら、やり場のない孤独な苛立ちを握り締めていた。懸命に昇った梯子から呆気なく蹴落とされたような気分だ───。言い返すことも出来なかった悔しさが今ごろ湧き上がり、背を押し当てた石壁を拳で何度も殴りつけた。
不意に、切れ切れに近づいて来るくぐもった声に気づき、鈍い痛みと共に我に返った。すぐに数人の男たちが雑談を交わしながら次々と入って来たので、僕は反射的に顔を伏せ、彼らのあいだを縫ってそそくさと廊下へ忍び出た。
「放っておいてやれよ」
今度は、はっきりと解った。これは僕を窘めている声だ。
閉まる扉の横で腕を組み、壁に寄り掛かって待ち伏せていたアシュレーを、僕は露骨に横目で睨んだ。彼のような対応を自律や分別のある“思いやり”と呼ぶのかもしれないが、苛立っていた僕にはその言葉が薄情者の言う台詞にしか聞こえなかった。
「今日の君は、やけにやさしいんだな」
「俺に当たるなよ」
「───あんなの、本気なわけないのに、君だって解ってるだろ」
ヘルムートから無下に突き離された僕は半ば自棄になり、同情を乞うようにアシュレーに迫った。すると彼は黙って僕の方へ向き直り、真っ向から蒼碧の瞳で僕を展翅板に釘付けにした。
「いいか、あんたが言ってるのは全部自分の勝手な妄想だ。簡単に、他人を理解できるなんて思うな」
その一言一句を僕の胸に突き刺すように、アシュレーは鋭く明瞭な言葉で僕を突き刺した。声も荒げず、飽くまで冷静だったが、その真剣さが余計に冷たく耐え難かった。
「ヘルには弟のことだってあるんだ。それは俺たちには解らない。みんな違うんだ。俺だって、あんたとは違う」
もう、彼の顔を見ていられなくなった。釘を刺されたところに頭からべっとりと乾留液を浴びせられているようだ。身体が重く沈み、心も視界も真っ黒に染まってゆく中で、苦し紛れに辛うじて口先だけが勝手に動いた。
「僕はばかだ・・・」
そうだ、本当は誰のことも解らない、だから誰も僕のことを解らない。
解り合えないのなら、離れているしかない。
離れてさえいれば傷つけ合わずに済む。
僕は何度同じ思いをすれば気が済むのだ。
僕が矜持してきた“身を護る術”は、ただの保身と身勝手の産物だ。
誰にも思いやりなどない、ただ僕が安全ならそれで良かった。
それが孤独と引き換えに得ていた平和だったのに。
欲を出した僕が愚かだった。
歩み寄った僕が莫迦だった。
僕はきっと生来の冷血なのだ。
だからこそ、あんなにもヘルムートを追い込んでしまったのだ ───。
「僕は、本当にばかだ」
傍の扉から出てきた男たちが怪訝な顔で通り過ぎるのを、アシュレーが気まずそうに見送っていた。視界の端にそれが見えても、自分が今どうすべきか、どうしたいのかも解らなくなり、その場に足を埋めたまま、まったく動けなくなった。
彼はそんな僕を持て余したらしく、困り果てた挙句の遠慮がちなため息が聞こえてきた。
「遅れるぞ」
前髪がわずかに戦いだのを感じて視線を上げると、アシュレーは既に背を向けて歩き出していた。颯爽と言うには少し力無い足取りだ。
僕は卑しくも、彼がもう一度、少しでも振り返ってくれるよう願った。
「ああそうだ、もし倒れたら今日も頼むぜ」
足を止めずに背中で言うと、アシュレーは通路を曲がって石柱の向こうに見えなくなった。
石の洞窟の中、そよ風が立ち尽くす僕の頬を虚しく掠めた。それは、今の僕には何の慰めにもならなかった。




