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美しき監獄  作者: 八尋 世暇
Pre - Chorus

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12/24

大義

「アッシュ、無事か」


不意に油断して力を緩めたレイの腕から逃れて、僕はすかさず戸口に現れたアシュレーの元へ駆け寄った。袖の無いシャツから垂れた左腕の手首から肘の関節までを白い包帯が綺麗に巻かれている。一体どんな粗悪な処置をされるのかと気が気でなかったが、落ち着いた彼の顔と、そのまともな包帯の清潔そうな色を見てようやく少し安堵した。


「おい、もう一人はどうした」


アシュレーにばかり気を取られていると、その後ろから窮屈そうに制服を着込んだ男が看守帽の蔭から威圧的な眼光を覗かせていた。そう言われてさっとレイを見遣るも、彼は不良少年のように不貞腐れ視線を逸らしただけだった。そのせいで嫌な目付きがまた僕に戻って来た。仕方なく警戒した猫のように数歩後退(あとずさ)りして僕は早足にシャワー室の扉の前に立った。人差し指の骨で、控えめに四回ノックをしてみても返事がない。すぐにもう一度繰り返したが結果は同じだった。強引な扱いは彼の神経を逆撫でしそうで気が引けたが、背中に注がれている苛立ちに僕は焦っていた。声を掛け、返事を待たずにドアを開けて一瞬、冷やりとした。居るであろう場所に、誰も居ない。静まり返る歪(いびつ)な橙色の空間を覗き込むと、黄ばんで薄汚れたシャワーカーテンの向こうに細い脛(すね)が見えた。配管を背に膝を立てて座り込んで居るらしい。幸い服は着ているようだが、その微動だにしない脛に、動揺と一抹の不安が廻りはじめた。


「点呼だよ・・・ヘル、大丈夫かい・・・ヘルムート?」


怖気づいた右足が一歩中へ踏み込もうとした途端、脛がさっと消えてカーテンが捩れ(よじ)れ、勢い良く目の前に飛び込んで来たので、僕は咄嗟に後退りして扉に掴まり道を開ける格好になった。

制服の男は真っ直ぐベッドに向かって転がったヘルムートを目で追ったが、その無礼な態度を特に問い糺(ただ)すこともなく“五人だな”と唾を吐くように言い残して出て行った。閉まった扉の外で大ぶりの南京錠が擦れる奇怪な音が聞こえた。


乱暴なレイのせいで肩が出るほど伸びてしまったシャツの襟元を直しながら、僕はその場から少し緊張したアシュレーの横顔を眺め見ていた。その真っ直ぐ澄ました鼻梁の先に、暗がりの中仄白く浮かぶ瞳が二つ、じっと様子を窺っている。互いの存在を確かに認めながら、無益な争いを避けるために牽制し合うその神聖な間合いは、まるで月夜に邂逅(かいこう)した気高き獣たちを見ているように感じられた。

やがて扉の向こうで音が遠去かって行ったか思うと、レイがゆっくりと片足を前に踏み出した。先ほどまでレイが腰を据えていた場所に転がるヘルムートには触れず、アシュレーだけを眼前に据え、豹(ひょう)のような不穏な足取りで歩み寄って来る。蒼白い横顔の張り詰めた気配からは、既に殴られる覚悟が見えた。しかし僕はもう焦ることはなく、ふたりから少し離れた場所に立ったまま、彼らの無言の対話の結末を固唾を呑んで見護った。レイは静かに肚(はら)を括ったアシュレーの尖った鼻の先まで近づくと、優勢を示すように顎(あご)を突き上げた。頸を傾けて見下ろした視線で、ようやく厚みのある唇を開きかけたその時、鋭い声がそれを遮った。


「悪かったよレイ。全部俺のせいだ」


不意を突かれたレイは、微かに驚いて仕方なさそうに言葉を引っ込めた。その受け取らざるを得なかった言葉を反芻(はんすう)するように、そっぽを向いたまま押し黙っている。もどかしい沈黙が流れたあと、レイの威圧的な体躯の前で直向(ひたむ)きに応えを待つアシュレーの方に向き直ると、彼は真顔のまま不躾に顎をしゃくって見せた。

呆れ返った僕は野暮が疼(うず)いて思わず口開けてしまったが、微笑むアシュレーが見えて、はたと冷静になった。


「調子はどうだ」


頬を弛ませ、ぶっきらぼうに言い放つとレイはそう言って右手を肩ほどの高さまで無造作に持ち上げた。その仕草に困惑したアシュレーは戸惑い気味に左腕を差し出しかけたが、ふと閃いて、やわらかに表情(かお)を綻(ほころ)ばせて、何やらはにかんでいた。そして右手に差し替えると、その時を待っていたレイの大きな掌を軽く打ち、軽快な清々しい音が弾けた。


不器用なふたりには、これくらいが丁度いいのか。


隅で独り、にやにやしていた僕に気がつき、レイに横目でちらっと睨まれた。


「───どうなんだ、平気か?」


「腕はマシだ、闇医者みたいな嫌なヤツだったが手際はいい。こいつはくれたが、替えの包帯はくれなかった。頸吊り防止だとさ。気分の方は最悪だ、適当に喰うんじゃなかったよ」


アシュレーはそう言いながら手にした抗生剤をポケットにしまい、レイの意識を連れてヘルムートの方へ視線を向けた。僕とは違って伶俐(れいり)なアシュレーは、ぎりぎりの状態で何とか均衡を保っている彼らの空気を察して、その場を刺激するようなことは一切口にしなかった。


「今朝のあの話、本気なんだろ?少しは進んだのか」


「いや、話すつもりだったが、このザマだ」


レイが肩を大袈裟に竦(すく)めてヘルムートの方を顎で指すと、アシュレーは緩慢に何度か頷(うなず)きながら眉を持ち上げ、レイに合わせて戯けて見せた。どうやら彼らにとってこの状況は見慣れたものらしかった。


「まあ俺も、このザマだ。─── それで、レイ、何かいい策でもあるのか?」


「そうだな、とりあえず人質を使って銃と船を奪う。ここが何処の海域だか知らないが、海に出れば逃げ切ったも同然だろう。あとは運任せだがな」


レイがあからさまに話しはじめるので、僕はトルソーや廊下を気にして狼狽(うろた)えた。同獄の彼に隠し通せはしないだろうが、無視するつもりか、引き込む気なのか、それとも口封じでも考えているのか、まずは話を聞く必要がありそうだ。僕はひとりだけ声を潜めて歩み寄った。


「とりあえずって・・・重要なのはそこだろ、一体どうやって───」


「だからそれをこれから詰めていくんだよ」


話の腰を折る僕を、レイはまた煩わしそうに眉を顰(ひそ)めてあしらった。いつもの癖で萎縮した僕に気がつくと、すっと顎を引いて豪胆な野太い声で付け足した。


「視点は多い方がいい、多角的にな。それだけ綿密な作戦になる。お前らも好きなように発言しろ。俺はもう隊長じゃないんだ」


彼のどうしても近寄りがたかった氷河のような瞳から、はじめて確かなぬくもりを感じた瞬間だった。彼らの結束の一部に僕を結(ゆ)わえてくれたその言葉に、じわりと胸が情熱に灯されていった。


「そういえばあの嫌なヤツ・・・あの四角い顎の」


アシュレーはよほど気分が悪いのか、ふらふらとベッドに腰掛け、目を細めて右手の指で眉間を撫でながら、譫言(うわごと)のように呟いていた。


「あの鞭が好きな悪趣味なヤツか?」


「ああ。アイツは所長の息子なんだろ。さっき向こうの連中が話してた」


「・・・フン、なるほどな、その息子を捕まえて所長ってヤツを誘(おび)き出すか」


「誘き出す?誘き出してどうするんだ、帰る方法でも訊くのか?まさか、仕返しなんて考えてないよな、レイ」


「証人として土産に連れて帰るのさ」


ベッドの上段に片腕を載せて立つレイは、心外だと言わんばかりの不機嫌な声で目を細めた。油断すると軽率な口調になる僕は、図に乗ったせいでまた掴み掛かられるのではと、アシュレーの横に座ろうとした身体が反射的に少し跳ねた。


「所長ってのがここの責任者なら、息子は保険だ」


「───こんなあり得ない話、確かに、僕たち囚人の話だけじゃあ信憑性に欠けるよ」


「そういうことだ、イアン。俺たちだけ助かったんじゃあ寝醒めが悪いからな」


レイはやはり、全体を見渡している───。


一種の憧れとも云える彼の持つ高位の視点に合わせて会話を進めるうちに、自分たちの自由を求める行動が、大きな役割を担っていることに改めて気づかされた。これを成功させれば、多くの囚人たちの解放に繋がるかもしれない、哀れな未来の被害者を未然に救えるかもしれない───。

熱気の籠(こも)ったその想いは、僕がただ、ここから出たいと希(ねが)うことですら、大義のように思え、自然と意欲と使命感が湧き上がって来た。


「だけど僕たちは丸腰だ、向こうは武器もあって人数も居る。君は素手でも平気だろうけど、僕はせいぜい囮(おとり)になるのが精一杯だ」


「囮ってのはトカゲの尻尾切りと同義だ。そんな覚悟じゃ高確率でお前は死ぬぞ。まあ、どのみち危険だが、そうだな、開始位置はあの鉱山だ。各自叢(くさむら)に逃げて一旦あの森に入る。何でもいい、武器を持てるヤツは持って来い。それから合流して浜辺までのルートを把握して───」


「やめておけ」


闇の奥から響いた声に耳を疑い、石の部屋は唸るような嵐の音に包まれた。まさか、青黒い洞窟の奥に眠る岩が語りかけたのか ───、気づくと僕たちの視線は顔を揃えて隅の暗がりへと吸い寄せられていた。話すうちに隅に背を向けていたレイは、深い眼窩(がんか)の眼を不審にギラつかせて僕たちと顔を見合わせていたが、次第に何やらそこに居た悪魔にでも唆《そそのか》されたかのような不敵な笑みを浮かべていった。


「盗み聞きか、いい趣味してやがる。なあ、俺に噛み付いたの、憶えてるか」


レイは舞台演技のような身のこなしで大仰に振り返ると、声に迫力を漲(みなぎ)らせ、躙(にじ)り寄るように暗がりの奥へと踏み込んで行った。


「目の前でこうも騒がれては、嫌でも聞こえる」


威厳を纏った深い声で、闇はまた静かに応えた。


「舌でも抜かれたのかと思ってたぜ、もったいぶりやがって、満を辞してってヤツか? ─── おい、ずいぶんと偉そうだが、仲間に入りたいなら、素直になれよ」


闇はしばらく沈黙したのち、厳かに応えた。


「すべては私とミハイルのせいだ。責任を感じている」

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