エピソード8.5:油断
内容に、未遂ですが性被害を思わせる描写があります。また、不衛生な描写もあります。
苦手な方は無理をしないでください。
ユカが避難している市役所内には、いざというときのために非常食と水も備えてあったので……職員と思しき若い女性が、500mlの水一本と、缶に入ったパンを配布していく。
それを受け取ったユカは、缶のパッケージに記載された表記を見て……。
「……オレンジ……!?」
軽く目を見開いた。
勝手に、缶に入った非常食=乾パン、というイメージを持っていたため……柔らかくて美味しそうなパンの写真と、『オレンジピール配合』という文字に、どこか懐疑的になってしまう。
「オレンジピール……」
これは食べて味を確かめるしかない、そう思ったユカは缶を開き、怪我をしないよう気をつけながら中身を取り出した。ユカでも問題なく開封出来たそれは、取り出した瞬間、爽やかな香りが鼻腔をくすぐる。手触りも柔らかい。
「あ……美味しそう……」
反射的にそう思った瞬間、体が空腹を訴えた。そういえば、フライドポテトを食べる直前だったことを思い出す。
ユカは両手でそれを握ると、口の中へ。噛んでみると予想以上に柔らかく、口の中の水分を奪い去るような気配はない。そして、ほのかに甘いオレンジの味と香りが、殺伐としていた心を少しほぐしてくれた。
しっかり噛んで、飲み込む。それを夢中で繰り返していると……あっという間に食べ終えてしまった。
「……思ったより、ずっと……美味しかったな」
感想を呟いても相槌はない。一人なのだから当然だ。
一人で食べることには慣れていたはずなのに……今はどうしても、無性に物悲しくなってしまう。
ベッドの上で何度目か分からないため息をついたユカは、ペットボトルをあけて、少しだけ水を飲んだ。本当はずっと前から喉が乾いていたので、もう少し飲みたい気持ちもあるけれど……頻繁にトイレへ行きたくなるのは困る。蓋を閉めるときに右腕が痛んだが、なにくそと思って気づかないふりをすることにした。
時間は分からないけれど、窓の外は暗い。先が見えない不安が少しずつ大きくなっていく。
せめて今が何時なのか知りたいと思ったユカは、意を決して……隣のベッドで片耳にイヤホンをつけたまま横になっている少女に話しかけた。
「あのー……時間って、分かる?」
刹那、少女は至極面倒くさそうにユカを横目で見やり、枕元に置いていたスマートフォンの画面へと視線を向ける。
「……2時半」
そして、ぶっきらぼうに返答した後、「もう関わるな」と主張するように目を閉じてしまった。
「あ、ありがとう……」
届いているのか分からないが、愛想笑いで謝辞を述べた後……食べたゴミを片付けるために立ち上がった。
次の瞬間。
「ユカちゃんユカちゃんユカちゃーん!!」
舞い戻ってきた空が、ユカの耳元で盛大に名前を呼ぶ。
ユカは思わず顔をしかめ、苦言を呈するために空を見たが……ここで話しかけると周囲から変な目で見られることを思い出し、人目があまりない場所を必死に考えた。
この部屋にはダンボールベッドこそ並んでいるが、搬送時の導線などを考慮してパーテーションは設置されていない。市役所の構造も分からないので他に適切な空間があるのかどうかも分からないし、そもそも、あまりウロウロしていると、それだけで不審に思われる可能性もある。
「そうだ……」
友実との会話でトイレがこの部屋の外にあることを思い出したユカは、周囲をワチャワチャと回る空に目線で「待ってて」と訴えつつ、まずはゴミを所定の場所へ片付ける。
そして、忙しなく動き回っている大人たちの合間を縫って、廊下へ出た。
次の瞬間――暖房のない冷え切った空間に、全身が震える。
「寒っ……」
いまだ停電している廊下には最低限度の明かりが等間隔で設置されており、足元しか見えない。吐く息はきっと白いだろうと思いながら、友実の言葉を思い出して、廊下を進む。
先が見えない廊下は、ゲームの中のダンジョンのようだった。途中ですれ違ったのは一人だけ。外を走る車は非常車両が多いようで、救急車や消防車のサイレンの音が少し遠くから絶え間なく聞こえてくる。
怖い。だけど……今は1秒でも早く、空と情報交換をしたい。
「ここ……?」
ゆっくりと30秒ほど歩いたところで、トイレのマークが掲げられた扉を発見した。男女ごとに左右に分かれており、入口と中にそれぞれ明かりが置いてある。
お化け屋敷のような雰囲気に気圧され、ドアノブを持つ手が迷った。ただ、ここならば少し落ち着いて、空と会話が出来そうな気がする。ユカが意を決してドアノブを掴んだ、次の、瞬間。
「――お姉ちゃん、ちょっと」
「っ……!?」
背後から突然、知らない男性の声と共に肩を叩かれ……思わず身がすくみあがった。
ユカが反射的に振り向くと、先ほどすれ違った男性が、ユカを笑顔で見下ろしている。
年齢は30代後半から40代前半といったところ。体型は普通だが身長が180センチほどあるため、周囲の暗さも相まって、いつも以上に威圧感があるように感じてしまった。
「な、なんですか……?」
「トイレ、水が流れないから簡易トイレを使うみたいだよ。そこにあるやつ」
「あ……」
彼がそう言って指差した先、ドアの脇に、ダンボールに入った簡易トイレがあった。
親切心から教えてくれたことに安堵したユカは、ぎこちないながらも謝辞を述べる。
「ありがとう、ございます……気付かなくって」
怪しまれないようにそれを一つ手に取っておくことにした。使い方は全く分からないが、今はそれでも困らない。
そんなユカのぎこちない様子が目についたのか、彼は笑顔でこんな提案をしてくれる。
「使い方、分かんないよね? 教えてあげようか?」
「い、いえ……聞いてきたので大丈夫です」
「そう? 聞いただけじゃ分からないと思うよ?」
彼はそう言って、ユカへもう一歩近づいてきた。そして、自身の携帯電話のライトを付けると、それで彼女を一瞬だけ照らした後、トイレの方へ明かりを向ける。
「トイレの中も暗いから、これで照らしていてあげるね」
「え……?」
携帯電話のライトの横で、赤いランプが点灯していたように見えたのは……目がくらんでしまったが故の見間違いだったのか。ユカは急激に湧き上がってきた恐怖心と戦いながら、必死に首を横に振って拒絶を示した。
「い、いえ……結構です、本当に……」
「こんなときに遠慮しないで。ほら、もらしちゃったら着替えもないでしょ?」
彼は終始笑顔でこう言いながら女子トイレのドアを開けて、後ろから急き立てるようにユカを中へ押し込んだ。中は手洗い場が2箇所と個室が3つあり、全てドアが開いている。
流石にヤバい、脳内では警鐘が鳴り続けているが、立ちはだかる壁が大きくて、足がすくんでしまう。
案の定、ユカの隣で全てを見ている空が、眦を釣り上げて訴えた。
「ちょっとユカちゃん、この人マジでヤバいって!! いいから逃げなよ!!」
「分かっ……!?」
次の瞬間、右腕を掴まれる。鈍い痛みで顔が歪んだ。
「なに、するんです、か……!?」
声が、体が震えていることが、嫌になるほど分かる。
振りほどけない。
心臓が激しく動いているのに、体を思い通りに動かすことが出来ない。
引きつったユカの上半身を照らしながら、彼は口元に笑みを浮かべ、饒舌に言葉を続ける。
「何って、君がトイレに行きたいから手伝ってあげてるんだよ。こういう時は助け合わなきゃね。ほら、一番奥が空いてるよ」
「やめ……やめて、くだ……っ……!!」
掴まれた腕の力が強くなり、口の端から息が漏れる。
両足でどれだけ踏ん張ったところで、体格差を覆すことはできない。彼はユカを引きずるようにトイレの奥へ進み、個室のドアを開いた。
「うっ……!?」
次の瞬間、鼻をつく嫌な臭いに、ユカは思わず顔をしかめる。
そしてすぐに、その理由に気付いた。
トイレの洋式便座の中には、既に複数人が用を足した痕跡があった。トイレットペーパーが便座の高さギリギリまで詰まっており、そこに染み込んだ排泄物が、臭いを発しているのだ。
今は水道も電気も使えないので、これらを流すことは出来ない。だから簡易トイレを使わなければならないはずなのに。
彼もまた、現状を目の当たりにして……露骨に顔をしかめる。
「……きったねぇな……ま、しょうがねぇか」
毒づいた後、ユカの腕を引いて自分の前に立たせる。そしてそのまま、彼女の体を中へ押し込もうとした。
腕が痛い。
喉がしまって声が出せない。
気持ち悪い。
怖い。
誰か
誰か
誰か
「――ま、さっ……!!」
助けて
「何をしているんですか!?」
次の瞬間、はっきりと通る声がトイレに響き、懐中電灯の明かりが室内を照らす。
中に入ってきたのは友実だった。入口には他の複数人の影が見える。
突然の摘発にひるんだ彼は、掴んでいたユカの腕を慌てて離すと、ヘラヘラと笑いながら釈明した。
「何って……女の子が困ってたから、助けようと思っただけだよ。ほら、トイレの中って暗いからさ、コレで照らしてあげようかなーって」
「そうですか……親切にありがとうございます」
友実はツカツカと二人の方へ近づくと、彼を見上げ、はっきりとこう言った。
「あとは、私がやりますから!!」
「……」
彼は友実を苦々しい表情で見下ろした後、周囲に他の人の目もあることに気付き、足早にトイレから出ていった。
友実は硬直したままのユカの下へ急いで近づき、「大丈夫?」と声をかける。
そして、彼女の衣服に乱れがないことを確認した後、盛大に安堵の息を吐いた。
「ユカちゃん、トイレに行くときは大人と一緒にって……言ったよね?」
「ごめんなさい……」
素直にうなだれることしか出来ないユカに、友実は「怖かったね」と優しい声音で相槌をうった後、一度、トイレの外へ出た。そして、入口にいた男性職員へ事の次第を報告し、頭を下げる。
「ついてきてくださって、ありがとうございました。ただ……さっきの人、注意したほうがいいと思います」
「分かった。警察にも連絡しておくね。教えてくれてありがとう」
彼は一度頷いた後、踵を返して廊下を戻っていく。
友実は震えているユカの頭へ手を添えた後、前を見つめて……苦笑いを浮かべた。
「こういう避難所って、色んなところから、色んな人が集まってくるんだよ。勿論、いい人の方が圧倒的に多いんだけど……ね」
「ごめんなさい……本当に、油断していて……」
「私も前に、嫌な思い、したことがあるの。だから……こういうことは絶対に許せないんだ」
友実が強い口調でそう言った。すると、廊下の向こうからこちらへ歩いてくる人影がある。ユカが反射的に身をすくめる一方、友実は口元を緩め、軽く手を上げた。
「ゆっきー!!」
「ゆっきー……?」
友実から『ゆっきー』と呼ばれたのは、身長が170センチほどある男性だった。顔の半分を髪の毛で隠しており、暗がりで確認出来る切れ長の右目が少し威圧的。ダウンジャケットとジーパン、膝下丈のブーツを着用している。
彼はユカを一瞥した後、友実へ向けて口を開く。
「……友実、その子の搬送準備、終わったって。1階の裏口」
「本当!? ありがとう」
中音域の声が告げた知らせに、友実はテンションを上げた。そしてユカを見下ろし、安心できる笑顔を向ける。
「ユカちゃんが病院に搬送してもらえる順番になったから、探しに来たんだよ。良かったね」
「そう、だったんですね……」
友実の言葉に、安堵した自分がいることに気付いていた。
病院ならば大部屋でもカーテンを引けば個室状態を作ることができるし……何よりも、負傷した部分をしっかり治療してもらえるだろう。
それに……政宗がいるかもしれない。そんな期待をしてしまう。
「何から何まで……ありがとうございます」
廊下を歩きながらユカが友実へ頭を下げると、友実は「お互い様だよ」と笑い飛ばして。
「名波くんや柳井先輩に会うことがあったら、私がユカちゃんを助けたこと、ちゃーんと伝えておいてね」
そう言って軽くピースサインを作る彼女が、今のユカには誰よりも頼もしかった。
その後、手荷物を持って救急車に乗ったユカは、仙台市内にある大学病院へ搬送された。院内は停電しておらず、水も問題なく使えるとのこと。そこで検査を受けた後の診察になるらしいのだが……負傷した人が多く運ばれているので、深夜の病院ロビーは多くの人でごった返している。
ストレッチャーに乗せられたユカは、『会議室』と書かれた部屋へ運ばれた。普段は会議で使われる教室程度の広さの部屋は、パーテーションで10箇所に仕切られている。そして、急ごしらえで作られた簡易ベットの上で、検査の順番がくるまで待機することになった。
看護師の女性がユカの顔色や瞳孔などを確認し、カルテに書き込んでいく。
「ガスは吸い込んでいないみたいだけど……気分はどう? 気持ち悪いとか」
「いえ、特に……」
「そう。何かあったらナースコールで知らせてね。多分、検査が出来るのが4時間後くらいになるから……少し横になっていてね」
彼女はそう言って、足早に仕切りの外へ出ていった。顔の端々に疲労の色が見えたが、それでも足を止めない強い意志を感じる。
ユカは素直にベッドへ横になると、直ぐに目を閉じた。
極度の緊張状態の中で強張っていたものが少し緩んだ今、体が……とても、重たい。
「川瀬さん……ごめん、少し、休む……」
最後の気力を振り絞って空へ謝辞を述べると、少し高い場所から優しい声が振ってきた、そんな気がした。
仮眠よりも深い眠りについたユカは、検査の結果、あちこちに打ち身と打撲が確認された。ただ、爆発時に有毒物質を吸った形跡はなく、骨や筋肉にも異常がなかったことで、入院から2日目、災害から3日後の昼過ぎには退院することとなった。
実際は、他に治療を待っている人が沢山いるので、追い出されたというべきかもしれないが……ユカもベッドの上で年を越すつもりはなかったので、素直に従う。
ただ……。
「山本さん、親御さんや保護者に代わる人、連絡はつきそう?」
退院の手続きにやってきた看護師が、ユカの前に書類を置いて、苦笑いを浮かべる。
今のユカは保険証もないため、実年齢を証明することが出来ない。要するに、見た目は完全に小学生なので、身元を引き受けてくれる大人を連れてこなければならないのだ。
親が死別していることは伝えているが、子どもなので世話をしている大人がいるはずだ……という世間の認識は変えようがない。支払いに関する手続きもあるため、何が何でも誰か、第三者を連れてこないといけないのだ。
午前中のうちに空へその旨を伝えており、名杙当主か、統治か……誰でもいいのでここへ連れてきて欲しいと依頼はしてある。ただ、それから数時間……空が、戻って、こない。
ユカは顔を引きつらせつつ、念の為に問いかける。
「もしも大人が誰も来なかったら……あたし、退院出来ないんですか?」
「そうねぇ……事情が事情だけど、山本さんを一人で放り出すわけにはいかないし……」
そりゃあそうだ。困り果てた看護師に申し訳無さが募った、次の瞬間。
こちらへ近づいてくる足音が、一人分。
それに気付いた看護師が立ち上がり、パーテーションの向こうへ消える。
「――あ、山本さんの保護者の方ですか? 良かった……来てくださってありがとうございます」
保護者が来たらしい。ユカは思わず身を乗り出した。
誰だろう。名杙当主か、その妻である愛美か……統治か、もしかして……。
「……政宗……?」
少しだけ期待をして、名前を呟く。
刹那、パーテーションの隙間から、看護師と共に入ってきたのは……。
「――残念、ハズレだ」
「まっ……!?」
喉の奥で、変な声が出る。
目を見開いた。理解が追いつかない。
だって……彼女がここにいるはずがないのに。
視線の先にいた麻里子は、普段と変わらない堂々とした立ち居振る舞いで、悠然とユカを見下ろしていた。
私は『アイドルマスター』シリーズが好きなのですが、『SideM』のユニット・FRAMEが、リアルの防災イベントとコラボレーションをしていた時期がありまして。
そこで作成された冊子を読んで、「そうだよなぁ……」と思ったことを物語に反映させました。
■ナゴヤ防災サミット Plus1(https://bousai758.com/news20220311/)
避難所で単独行動は避けたほうがいいと思います。性別も年齢も関係ありません。特にトイレや建物の死角など、人の目が届かないところは気をつけすぎるくらいでちょうどいいとさえ思っています。
人を疑いたくはないです。100人中99人は良い人だと思います。ただ……その『残り1人』の悪意にさらされてしまうと、ただでさえしんどいのに心の傷が増えてしまうことになります。実際に被災地ではボランティアとしてやってきた泥棒もいました。
周囲を疑って攻撃しろ、と、言うつもりはありません。ただ……全てを受け身で信じるだけでは、守りきれないものがあると思っています。難しいですね。
そして冒頭でユカが食べたパンは、コチラです。(https://saiboupark.jp/products/detail/24)
非常食、本当に増えましたよね。私も備えなきゃ……。
さて、色んなことがあった9幕も、あと少しで終わります。麻里子、連れてきちゃいました。最後までお付き合いください。




