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黄昏時――。
王都の喧騒がようやく落ち着き、夕日が街並みを染めていた。
家々の明かりがひとつ、またひとつ灯る。
家路を急ぐ人々に逆らうようにとぼとぼ通りを歩いていると、風に乗ってくる、バターを溶かしたような甘い香り。
気づけば、足が勝手にそちらへ向かっていた。
石畳の路地を抜けた先の、小さな喫茶店に行き当たる。
木の看板には《喫茶ポーション》と書かれていた。
ポーション……なんか効きそう。ぼーっと思い、窓の中を一瞥する。
中では、数人の客が静かにカップを傾け、各々が軽食やうたた寝、談笑を楽しんでいる。
まさに求めていた雰囲気。今日という地獄を締めくくるには、これ以上ない場所だ。
扉を押して中へ入ると、からからと楽しげな扉鈴の音。甘い香りに全身を抱きしめられた。
「いらっしゃいませ。おひとりですか?」
奥のカウンター席へ案内され、椅子に腰を下ろす。壁に吊るされた黒板には、こう書かれていた。
『本日のおすすめ/ふわとろスフレパンケーキ マンドレイクハニーを添えて』
『季節限定/スライムフレーバーのホットコーヒー』
……スライム……フレーバー?
……マンドレイク……ハニー?
なんだその、錬金爆発しそうな組み合わせは。
ギュッと目を細めた俺に気づいたのか、程よく年を重ねたカウンターのマスターが笑った。
「気になりますか?」
声をかけられてしまった。ちょっと恥ずかしくて、コクンと頷く。
「大丈夫です。うちは食べられるものしか出してません」
マスターは笑いながら、手際よくカップにコーヒーを注いだ。
「スライムフレーバーは、南方の湿地に生息するアロマスライムの香液を混ぜたコーヒーです。まろやかな口当たりと癖のないフルーティーな香りで、気分が安らぐと評判ですよ」
なんか、今の自分に効きそう。いやいやでも、それっぽいようで実際はスライムの搾り汁入りコーヒー。頼むのには勇気がいる……。
「マンドレイクハニーは、あのマンドラゴラの花の蜜。叫ぶ根っこじゃなくて花の方です。花言葉は“安息”。栽培中に歌を聴かせると、驚くほど甘い蜜を出すんですよ。しかも緊張緩和、疲労回復にも良いとされています」
ええぇ……なんか効きそう。
脳内で「ウボギャーーー!」というマンドレイクの汚い叫びが再生される。それでも、“疲労回復”と聞けば心が揺らぐ。
スライムなんて、故郷の村から今まで、親の顔より見てきた魔物だ。倒した数は星の数。そのスライムの、フレーバー、コーヒー……?
うぐぐぐぐぐぐぐぐぐぐぐぐぐ。
マスターが説明を終え、カウンターの奥へ向かおうとする前に、俺は引きつった顔で「注文を」と声を上げた。
やがて運ばれてきた銀の皿の上には、黄金色の分厚いスフレパンケーキが二枚。
表面は薄く焼き色がついていて、ふわりと揺れるたびに香ばしい香りが立つ。
その上には、角を立てたホイップクリーム、青いミントの葉。とろりとしたマンドレイクハニーが艶を放ち、これでもかってほどかかっていた。
琥珀色の蜜が、パンケーキの端からとろとろと流れ落ちる。
湯気と一緒に広がる芳醇な花の香り。
「いただきます……」
ナイフを入れると――ふす、と沈む。
抵抗もなく、ナイフが生地の中へ吸い込まれていく。断面からは湯気がふわりと立ち上がり、フォークでそっと持ち上げると、ぷるんと震える。
見ているだけで、なんというか、心がほどけていく。
ひと口。舌で受け止め、――そして、消える。
口に入れた瞬間、スフレは空気みたいに溶けた。残ったのは、柔らかな甘みと、ほんのりとした花の香り。
マンドレイクの蜜の余韻が長く続く。
……これは……食べる、ベッドか……?
思わず口から漏れそうになる。
いや、比喩じゃなく本気でそう思った。宿屋のベッドより柔らかい。沈み込むような食感で、包み込まれるような甘さ。
安息。解放。救済――。
二口目は、ゆっくりと。
パンケーキの端に溜まった蜜をすくい、フォークの背で少し押しつぶして、また口へ。
――うまい、なんて言葉じゃ到底足りない。
心が“本来の姿”を取り戻していく。
今日一日で大幅に削られた大事な部分が修復されるように、ひと口ごとに何かが戻ってくる気がした。
外の寒さも、無茶振り気味の王も、婚約フラグも。
蜜の安らぎに上書きされる。
音も景色も気にせず頬張り、堪能する。
このパンケーキ、尊い……。
そこへ、マスターがカップを静かに置いた。
「スライムフレーバーのコーヒーです」
湯気の向こう、カップの中では深海のような青の光がゆらゆらと揺れていた。
香りは、意外にも柔らかい。苦味の奥に、深い森を思わせる落ち着いた香り。嗅ぐだけで、疲労で凝り固まっていた肩の力が抜ける。
俺は一瞬だけ躊躇い、ぐいっと呷った。
苦味が先に立ち、そのあとに、わずかな酸味と果実の香りが重なる。
それがマンドレイクハニーの甘さをまた引き立てる。
スライム特有のものか、この滑らかさが、舌に心地よい。
「……悪くない」
「でしょ?」
至福……というより、これは“浄化”だ。
喉を通ったあとも、静かな温もりだけが残る。
「なんか、あの……やっと人間に戻った気がします」
「ふふ、それはよかった。どうぞごゆっくり。……ねえ、勇者様」
飢えたゾンビ状態から復活した俺に、マスターが笑い、最後の部分を小さく付け足すと、別の客のカップを取り出しその場を離れた。
窓の外で黄昏が夜に繋がっていく。
遠くで鐘の音が響く。
俺は、コーヒーをもう一口すする。
青い光が、カップの底で炎のように揺らめく。
それを見つめていると、不思議と心が整っていく。
時間も気にせず、ひとり味わうコーヒーとパンケーキが、こんなにも美味しいのだから。
世界はまだ捨てたもんじゃないな。
「……明日は、もう少しマシな顔で戦えそうかな」
ああ……、でもやっぱ、姫との結婚は勘弁だな……。
勘定を済ませ、マスターの優しい声に見送られ店を後にすると一際冷たい風が頬を掠めた。
身震いして羽織った外套に包まる。見上げれば遥か上空から、白いものが舞う。
……雪か。
掌に乗せると、指の熱で形を失っていく。広がるその冷たさが、誰にも共有することなく胸の内にしまっていた情景を思い出させる。
あれから……一年。随分、早かったな……。
宿屋へ戻ると、廊下の角で神官と鉢合った。
「糖分摂取は、できましたか?」
「……ああ。なんとか」
「それは結構」
「神官……」
去ろうとする彼女を短く呼び止める。
「縁談の件、助かった。……あれは本気で死ぬかと思った」
「でしょうね。“死ぬ”って顔に出てましたから」
ふっと笑う神官。ほんとにしっかりしてるな、この子。
「その……。いいパンケーキ屋を見つけた。今度教える」
「えっ」
お礼とばかりに口にすると、凛々しさを纏っていたその表情が年相応に緩んだ。
言葉を探す俺より早く、神官は一歩近づいて、人差し指を口元に当てた。
「じゃあ。その時は勇者さんの奢りということで、貸し一つですから」
「お……おお」
いたずらっぽく笑う神官。
それだけ言うと、くるりと背を向けて廊下を歩いていった。
窓の外では、羽のような雪が街灯の光に照らされて、王都の景色を静かに染めていく。
すっかり落ち着きを取り戻した胸に手を当て、深く息を吸い込む。
大丈夫だ。
俺はまだ、頑張れる。




