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誰かに――呼ばれたような気がして、ぼんやりと視界が広がる。
いったい……俺は、……なにを……して……。
身に覚えのない浮遊感。
思考がうまく回らない。
浮いてる……のか……いや、違う。
何かに、片脚を掴まれて、宙吊りにされている。
ゆっくり視線を落とすと、真下に広がっていたのは深淵にも似た化け物の口腔だった。
唸り声を上げ、喉奥から霧のような息を吐き続ける化け物。そうだ……俺はこいつにやられて――。
打ち所が悪かったのか、体の感覚が戻らない。腕どころか、指先すらも動かせない。
沈み込みそうな意識の中で冷静に悟る。
……死ぬのか。
こんなところで、化け物に喰われて。
ひとりで。
…………。
はは……。
それも、悪くないのかもしれない……。
だって、そうなれば、もう剣を振らずに済む……。
勇者が死ねば、聖剣はまた次の担い手を選ぶ。
世界の均衡が取り戻されるまで、繰り返し。
俺が死んでも、代わりはいくらでもいる。
それに俺は、最初からこんなこと望んでいなかった。
ずっと、故郷で家族と共に、平凡に暮らしていたかった。
それこそが本音だった。
不特定多数の期待に応えて、戦って、その先で……大切なものを失うくらいなら。
もう、いっそ…………此処で、全部、
掴まれていた足首が自由になり、抗うことなく目蓋を閉ざす。
『起きろ──‼︎』
深淵に飲まれる寸前――殴りつけるような叫び声が脳内に響く。
絶えず傍で、俺を呼び続けていた声。
もう二度と、聞くことはないと思っていた――。
霧に包まれていた意識がはっきりと覚醒する。
視界が定まり、体の感覚が戻るのと同時に指が聖剣の柄に伸びた。
難しく考える必要はない。
これでも死地は嫌というほど踏み超えてきた。
こんな時どうすべきか、頭より体の方が先に動くほどには。
剣山のような牙に捕らえられる、その前に、鞘から聖剣を抜き放ち、落下しながら体勢を変え、渾身の力で刃を叩き込む。
ぐしゃり、と鈍い感触が腕に伝わった。
聖剣が化け物の片眼に深々と突き刺さる。
次の瞬間、耳をつんざく咆哮が霧の中に放たれた。化け物は狂ったように暴れ出し、俺はそのまま剣を引き抜き、地面へと放り出される。
急降下から着地、しきれず、何度か転げ回り、木の根を掴んでようやく止まる。
あ、
…………あ、危なかったァアアア‼
冗談じゃなく本当に死ぬところだった。
そのまま喰い殺されることを一瞬でも選んでしまったことに肝が冷える。
確かに胸の内で燻らせていた感情もあった。それでも、自分が抵抗もしないなんて、あの化け物に精神干渉の能力でもあるのか。
正気を取り戻していることを確かめたくて、俺は起き上がって片頬を強く叩く。
感度良好。問題なし。
しかし、予想していた通り後頭部からも鼻からも結構な量の血を垂れ流したみたいだ。くらくらする。
耳の聞こえもだいぶ悪い気がして、指で触ると、べっとりとした感触に冷汗が滴る。
眼前で巨体を振り回す化け物が叫ぶ度に大地が揺れ、その口腔の隙間から濃い霧が噴き上がる。
あんな巨体が、音も無く近づけるはずがない。
冥峰に漂う霧だとばかり思っていたが、どうやらここら一帯の濃霧は、恐らくあの化け物が吐いたもので、吸い込むと神経を麻痺させる毒性でもあるのだろう。
そうして獲物が動けなくなったところを捕食し、骨すらも食い尽くす。
そういう、初見殺しな魔獣がかつて大陸にいたと、文献好きな魔法使いが昔話していた。
……というか。
黒褐色の体毛、流木の如く枝分かれした四本の角、熊めいた骨格、口から吐き出される毒霧。
……もしかして、こいつ……まさか。
嫌な予感がした。
数百年前、魔族が人類との対立の最中に生み出した合成魔獣。
しかし制御しきれず、多くの種族の命が喰い殺され、討伐に向かった当時の勇者たちは数代続けて戦死。
最後は聖剣と四大神精霊による大掛かりな転移魔法で禁域に封じられた。
その災害級の魔獣の名は、古代語で“勇者殺し”を意味する――ガルグリム。
予感が確信に変わった瞬間。
黒い血を滴らせた化け物がゆっくりこちらを向いた。
残った片眼が、俺を捉える。
『この冥峰は、あの世と繋がっているとも言われておる。己を見失いし者は簡単に喰われてしまうじゃろう。心して征くがいい』
去り際の師匠の言葉が脳裏に蘇る。
いや……いやいやいやいやいや。
喰われるって物理的に――⁉︎
というか、勇者数人を屠った魔獣のうろつく山に普通放り込むか⁉︎
いや師匠は普通じゃない。
こういうことをする。ノリノリでする。
あーーーーーー!
こんなところに納得できちゃうのめちゃくちゃ悔しい!
内心喚き散らしながら、再び聖剣を構え直す。
“勇者殺し”の忌み名通り、今度こそ俺を喰らおうと木々を薙ぎ倒しながらガルグリムは突進してくる。
その様は――抗いようもない自然災害が迫り来るような緊迫感を肌に刻んだ。
体にダメージは蓄積している。
背後には援護してくれる仲間もいない。
ここで負けたら、屍はおろか骨すら残らないだろう。
極限状態で笑えるほど自分の弱さを痛感する。
そうだ。
俺は、仲間がいなければ所詮この程度だ。
痛いほど残酷に刺さる現実だが、受け入れ難くはなかった。
視界は澄み切って、余計な血が抜けたおかげで頭は冴えている。
死ぬわけにはいかない。
何がなんでも。
戦士は、きっとまだ死の淵で留まってくれている。
帰るんだ、絶対に。
聖剣にかけた親指をこれ以上無いほどに握り込む。
喰うか喰われるかの一触即発。
鋭い眼光を燃やす厄災の魔獣を、俺は正面から迎え撃った。




