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月明かりが照らす、更けた夜――。
大陸南西、砂漠地帯に築かれたユナの街は、昼間の熱をすっかり失い、灰のように細かな砂塵が首筋を冷やす。
魔王軍の動きが南へ寄っているという報告を王都で受け、俺たちは砂漠越えを選んだ。
今夜の宿をこっそりと抜け出して、俺はいつものごとく一人で、見知らぬ街の中をぶらつく。
宿屋に置いてきた聖剣の代わりに、程よい空腹感を連れて王都よりも広い星空を見上げる。
勇者ではなく、ただ空腹を満たすために練り歩く、この時間が旅路で疲れた心をほぐす。
布を下ろし、静かに眠るバザールを抜けると、通りの先に暖かな灯りが見えた。
石畳に伸びた橙色の光と、重なっては弾ける笑い声。
酒場だ。
俺は立ち止まり、風に揺れる酒とナイフとフォークが描かれた軒先の看板を見やる。
普段ひとりで酒場に足を踏み入れることはまずない。
乱闘が起こることもしばしばある、始終騒がしい酒場の空気が、ちょっと苦手だ。
とはいえ、ここまで歩いて飯屋という飯屋は全部閉まっていた。
酒の匂いに混じって漂う、スパイスの効いたような料理の香りには喉が鳴る。
それに、酒場は情報が集まる場所。
魔王軍の動向を探るためにも、今夜は思い切って踏み込んでみてもいいかもしれない。
「よし……」
この辺りは王都ほど治安は高くない。盗賊や魔族に情報を売るギルドがあるという噂もあるくらいだ。用心するに越したことはない。
俺は外套のフードを深く被り、その扉を押した。
一歩踏み入れると、むっとした熱気が肌にまとわりつく。
酒場の中は、大勢の冒険者たちで賑わっている。
笑い声、怒鳴り声、杯を打ち鳴らす音。武具が触れ合う金属音が、ひっきりなしに響いていた。
テーブルごとに人が集まり、酒や料理を回し、各々戦いの話や武勇伝に花を咲かせている。
「おーい! お姉ちゃーん! 一人追加だ!」
「ぎゃははははは! カンパーイ‼︎」
酒と肉と汗の匂いが混ざり合い、押し寄せるような空気に気圧されていると、陽気な酔っ払いたちの豪快な乾杯に出迎えられる。
瞬間、緊張で胃がキュッとする。
か、……帰ろうかな。やっぱ。
いやいや呑まれるな。俺はただ食事をしにきた、それだけなんだ。
強張る体を落ち着けるように、人の少ないカウンターの方へ向かう。できるだけ目立たず、できるだけ端へ。背中を預けられる場所があれば、それでいい。
「やあ、何を飲むかね」
のんびりとした口髭の見事なマスターが、食器棚から分厚いジョッキを取り出す。
それを見て、俺は慌てて首を横に振った。
「飲まないの?」
残念そうに顔を顰めるマスターに、酒場に堂々と入ってきた自分が急に恥ずかしくなる。
俺は視線を逸らしたまま、ボソッと注文した。
「オアシスの美味しい水……じゃなくて、サボテンジュースを」
「あいよ」
マスターはそう言って、分厚いジョッキに砕いた氷、緑がかった液体を注ぎ、サボテンの花を添えて俺の前に置いた。
とりあえず一息つきたくて、控えめに口をつける。
青臭くて、ちょっぴり甘い。体に良さそうな味だ。
「何か食べるかい?」
……っと、メニューは――。
「おーい! おひとりさん! 今日のおすすめは俺らが昼間狩りまくったサンドクラブのアヒージョだ!」
「笑えるほどうめえぞ! なんたって産地直送だからな!」
壁掛けのメニューに視線を滑らせると、真横から、笑いを纏った大声にど突かれる。
「ちょっと君たちー。お客さんにうざ絡みするのやめなよー」
「えー俺らだって客じゃーん!」
給仕の少女が嗜めても、冒険者たちは相変わらずお祭り騒ぎだ。
「はいはい、そんなのは知ってるって。ほら、ジョッキ割ったら弁償だからね。一人、5万モート! ……はあ、ごめんねお客さん。うちの酒場、冒険者ギルドの斡旋所でもあるから、騒がしくって」
慣れた様子で言い返すと、彼女は俺の方に声を投げる。
「でもアヒージョが美味しいのはほんと。本日のおすすめだよ」
アヒージョといえば、木の実のオイルとガーリックをベースに、エビ、貝といった魚介や野菜を煮込んで作る料理だ。
蟹がメインというのは、食べたことがないけれど。
それにサンドクラブ、通称――砂蟹は、砂漠地帯に生息する中級魔物。
俺たちも街に着くまでに何体か倒してきたが、漆黒の甲羅は鋼のように硬く、とても食用向きには見えなかった。
本当にうまいのか……?
「あ……、じゃあ、そのサンドクラブのアヒージョを、固め焼きバゲット付きで」
給仕の少女が通り過ぎる前に伝えると、彼女はニコッとして伝票に印を付けた。
「はいはい了解。すぐ持ってくるから、ちょっと待ってて」
サボテンジュースを一口飲み、カウンターに肘をつく。
そのまま、冒険者たちの騒ぎ声に紛れた噂話を耳で拾いながら待つ。
街道で野営していた交易商隊が、ゴブリンの群れに襲われたとか。
砂丘の奥では、希少素材を落とす魔物の巣が見つかったとか。
そして、声を潜めるような話題が混じった。
最近、魔王軍の手の者と思しき魔族たちが、国境付近で目撃されたという。
見かけられているのは小規模な動きばかりで、本隊はまだ動いていないと見られているが、補給路になりそうな道や、水場のある村や町を探っているらしい。
本命はおそらく――南の都ルクサリア。
大きな街だ。人も多く、交易も盛んで、守りもそれなりに固い。
だからこそ、落とす利益がある。
ジョッキを軽く回し、減っていく水位を眺める。
真偽はさておき、聞き捨てにはできない。
しばらくして。
沸き立つオイルが歌う音、空腹に突き刺さるガーリックの香りが酒場の空気に割り込んでくる。
「お待たせ。サンドクラブとガーリックのアヒージョね」




