第5話 「まだ書かれていない場所」
紗英が会社を始めたとき、
経営者になりたかったわけではなかった。
やりたいことがあった。
それを実現するためには、
自分で決められる場所が必要だった。
だから会社をつくった。
最初は、自分一人だった。
仕事を取り、
自分で決め、
自分で失敗した。
やがて人が増えた。
自分の判断ひとつが、
誰かの仕事になり、
誰かの生活にもつながるようになった。
責任という言葉の意味も、
少しずつ変わっていった。
そして42歳になった。
会社では「社長」と呼ばれる。
取引先からは「経営者」として見られる。
若い社員から見れば、
すでに何かを成し遂げた人に見えることもある。
けれど、
彼女自身にはそんな実感はなかった。
◇
紗英は、久しぶりに会った大学時代の友人と、駅前のカフェで会った。
別れたあとしばらく、その場から動けずにいた。
「仕事は順調?」
「まあね」
「結婚は?」
「してない」
「仕事、頑張りすぎた?」
悪意のある言葉ではなかった。
紗英も、笑って答えた。
けれど、駅までの道を歩きながら、
その言葉だけが、胸の奥に小さく残っていた。
……仕事を選んだから
……別の何かを選ばなかったんだろうか。
考えてみる。
結婚を否定したわけではない。
一人で生きると決めた覚えもない。
仕事だけを人生にすると決めたわけでもない。
その時々で、
選んできたものがあり、
選ばなかったものがあった。
その積み重ねの先に、今の自分がいる。
それだけだった。
けれど、
その「それだけ」を、
うまく誰かに説明する言葉を、
紗英はまだ持っていなかった。
◇
夜、一人になったとき、ときどき別の人生を想像する。
会社をつくらなかった自分。
誰かと家庭を築いた自分。
まったく別の場所で暮らしている自分。
もっと早く何かを諦めた自分。
逆に、もっと遠くまで行った自分。
どの人生が幸せだったのかは分からない。
比較することもできない。
それらは、存在しなかった人生だからだ。
そして彼女は、
自分が歩いてきた道についても、
すべてを肯定できるわけではなかった。
正しかった判断もある。
間違っていた判断もある。
今なら違う選択をすることもある。
失ったものもある。
戻らない時間もある。
それらを全部、
「今の自分を作るために必要だった」
と美しい物語にする気にはなれなかった。
失敗は、失敗だった。
後悔は、後悔のままでいい。
◇
会社に戻る前に、少し遠回りをした。
理由はなかった。
ただ、まっすぐ戻る気になれなかった。
ふと、一軒の店の前で、足が止まった。
ショーウィンドウの中に、一着の黒いロングコートがかかっていた。
重厚ではなかった。
けれど、羽織ったときの余裕を感じさせる、たっぷりとしたシルエットだった。
紗英は、しばらくそこに立っていた。
ショーウィンドウのパネルに、目を落とす。
『 服を選ぶ。その前に、生き方を選ぶ 』
紗英は、吸い寄せられるように、その続きを読んだ。
『 私たちは、服を選ぶとき、何を見ているのだろう。
色。
形。
素材。
ブランド。
流行。
そして、自分に似合うかどうか。
もしその順番を逆にしたら、
どんな服が生まれるだろう 』
紗英は、パネルから目を離せなくなった。
『 最初に、服を考えない。
まず、一人の人間の物語を考える。
その人は、何を大切にしてきたのか。
何を失い、何を残したのか。
何を選び、何を選ばなかったのか 』
『 そして、その人から一つずつ要素を取り除いていく。
強さを取り除く。
美しさを取り除く。
肩書きを取り除く。
象徴を取り除く。
その人らしいと思っていたものさえ、取り除いてみる。
それを失っても、その人はその人でいられるだろうか 』
『 そして、何度も問いかける。
もし、それがなかったら。
もし、正反対の人生を歩んでいたら。
もし、環境が変わったら。
もし、誰にも理解されなかったら。
それでも残るものは何か。
最後に残った、もう削ることのできないもの。
私たちは、それを【エッセンス】と呼ぶことにした 』
紗英は、コートにかけられたタグに目をやった。
——『 余白 』――
紗英は、ドアに手をかけた。
◇-
店内は静かだった。
奥から、一人の男性が現れた。
会釈だけをして、何も言わなかった。
紗英は、ショーウィンドウのコートを指さした。
「あれ、着てみてもいいですか」
彼は頷き、ハンガーごと持ってきた。
◇
試着室で、紗英は袖を通した。
生地は、
思っていたよりも、
ゆったりとしていた。
肩に羽織ると、
体に沿うというより、
体の周りに、
少しの余裕を残して、
落ちていく感覚があった。
前を合わせてみる。
ベルトはあったが、きつく締める作りではなかった。
緩やかに結んでも、
しっかり結んでも、
どちらでも様になるようにできていた。
袖を通したまま、
腕を大きく動かしてみる。
どこにも引っかからなかった。
……決まりすぎていない
紗英は、
その感覚に、少し驚いた。
いつも着ているスーツは、
一分の隙もなく、体に合わせて作られていた
それが、
経営者としての「きちんとした自分」だと思っていた。
けれど、このコートには、
「まだ決めきっていない余地」
があった。
鏡の前に立つ。
紗英は、しばらく、自分の姿を見つめていた。
◇-
カーテンを開けると、彼は少し離れた場所に立っていた。
紗英は、コートの袖を軽く引きながら聞いた。
「これ、随分、ゆとりがありますね。もっとタイトに作ることもできたと思うんですが」
彼は、小さく頷いた。
「決めすぎない方がいいと思って、そうしました」
「決めすぎない、というのは?」
「体型に、完全に合わせてしまうと、その形でしか、着られなくなるので」
紗英は、少し考えた。
「……着る側の変化に、合わせられるように、ということですか」
「そうです。今日のあなたに、ちょうど良くても、
半年後のあなたには、少し違うかもしれない。
それでも、着られるように」
紗英は、その言葉を、しばらく黙って受け止めていた。
……今日の自分に、完全に合わせなくていい。
……この先、変わってもいい。変わらなくてもいい。
「……このコート、何年着られますか」
彼は、少し間を置いてから答えた。
「それは、私には決められません」
「あなたが、まだ着たいと思う間は、着られると思います」
紗英は、小さく笑った。
「随分、頼りない答えですね」
「そうかもしれません」
彼は、それ以上、何も付け加えなかった。
◇-
紗英は、試着室で着替えながら、
友人とカフェで交わした会話を、もう一度思い出していた。
「仕事は順調?」
「結婚は?」
あの質問に、うまく答えられなかったのは、
自分の人生を、まだ一つの物語として、
完成させていなかったからかもしれない。
……それで、いいのかもしれない
紗英は、コートを持って、レジに向かった。
◇
値札を見る。
高かった。
けれど、紗英は、迷わなかった。
「これ、お願いします」
会計を終え、紙袋を受け取る。
「ありがとうございました」
彼が、そう言ったあと、少しだけ付け加えた。
「今日じゃなくても、いつか、違う形で着てもらえたらと思います」
紗英は、少し意外そうな顔をした。
「今日、着るために買うわけじゃないんですか」
「今日、着てもいいですし。
何年か経ってから、初めて袖を通してもらっても、
それでいいと思っています」
紗英は、その言葉に、小さく頷いた。
◇
店を出ると、夕方の空気が、少し冷たくなっていた。
紗英は、紙袋を持ち直しながら、会社への道を歩いた。
明日も会社へ行く。
同じ席に座る。
同じ仕事をする。
十年後も、経営者でいるかもしれない。
それでいい、と思った。
変わることが、大切なのではなかった。
彼女が欲しかったのは、新しい自分ではない。
ただ一つ。
……「今までこうだったから」という理由だけで
……これからの自分まで、決めてしまわないこと
同じ道を歩くとしても、
昨日歩いていたからではなく、
今日もその道を選ぶ。
変わらなくてもいい。
変わってもいい。
まだ決めなくてもいい。
紗英は、紙袋の中のコートに、そっと触れた。
……これは、今日の私のためだけの服じゃない
……まだ知らない、これからの私のための服だ
◇
四十二年分の人生がある。
たくさんの選択がある。
成功がある。
失敗がある。
選んだものがあり、
選ばなかったものがある。
それらを消す必要はない。
否定する必要もない。
綺麗に受け入れる必要さえない。
全部そこに置いたまま、
彼女は、
自分という物語の最後のページを閉じない。
そこには、まだ何も書かれていない場所がある。
誰かのためではない。
若さを取り戻すためでもない。
可能性を証明するためでもない。
ただ、
……自分自身を、まだ全部は決めないために
彼女は、
その白い場所を残しておく。
そこに明日、何を書くのかは分からない。
何も書かないかもしれない。
それでもいい。
その場所が残っている限り、
彼女の人生は、
まだ彼女自身によって続きを持つことができる。
最後に残った、もう削ることのできないもの
――エッセンス『 余白 』――




