第4話 「私のいないところで」
遥は、会議の終わりに、いつも少しだけ椅子を引く。
議題が一通り終わり、誰も次の発言をしない、
あの数秒間。
参加者たちが、お互いの顔を見合わせる。
誰かが口を開くのを待っている、あの空白。
遥は、その空白に気づくのが、昔から早かった。
「じゃあ、次のステップ、誰から動きます?」
その一言を、いつも遥が発していた。
椅子を引いて、少し身を乗り出す。
それだけで、止まっていた場が、また動き出す。
誰かがアイデアを口にする。
別の誰かが、それに続く。
遥は、それを見届けると、静かに椅子を戻す。
自分がその後どう関わるかは、
そのときの流れ次第だった。
◇
その日の夕方、部下の一人が、遥のデスクに来た。
「遥さん、次のプロジェクト、遥さんがリードしないんですか?」
「私じゃなくても、大丈夫だと思うよ。もう動き始めてるし」
「でも、遥さんが最初に言い出したからこそ、みんな動いたんですよね」
遥は、少し笑って、
「そうだったかな」と返した。
けれど、部下が席に戻ったあと、
遥は、その言葉が、なぜか少し引っかかっていた。
……私が言い出したから、動いた
……もし、私が何も言わなかったら
……あのプロジェクトは、始まらなかったんだろうか
そう考えた瞬間、
遥の中に、小さな不安がよぎった。
……私がいなくなったら
……この場所は、止まってしまうんじゃないか
その考えは、誇らしさというより、
どこか、重たい実感に近かった。
◇
その週末、遥は、来月から始まる新しいプロジェクトの資料を、自宅で見返していた。
キックオフの進め方。
最初の一言を、誰が、どう切り出すか。
いつもなら、するすると浮かんでくるはずのアイデアが、
その日は、なぜか何も浮かんでこなかった。
……これまでは、いつも自分が最初の一歩を踏み出していた
……けれど、もし、その一歩を、今回だけ、踏み出せなかったら
……プロジェクトは、動かないんだろうか
遥は、資料を閉じて、少し外の空気を吸おうと、
一人で近所を歩くことにした。
考えごとをしながら歩くうちに、
いつもとは違う通りに入り込んでいた。
◇
ふと、一軒の店の前で、足が止まった。
ショーウィンドウの中に、一着のコートがかかっていた。
華美ではなかった。
けれど、羽織ったときに、風の抜けが良さそうな、
軽やかなシルエットだった。
遥は、しばらくその場に立っていた。
ショーウィンドウの中の一枚のパネルに、目を落とす。
『 服を選ぶ。その前に、生き方を選ぶ 』
遥は、吸い寄せられるように、その続きを読んだ。
『 私たちは、服を選ぶとき、何を見ているのだろう。
色。
形。
素材。
ブランド。
流行。
そして、自分に似合うかどうか。
もしその順番を逆にしたら、
どんな服が生まれるだろう 』
遥は、カードから目を離せなくなった。
『 最初に、服を考えない。
まず、一人の人間の物語を考える。
その人は、何を大切にしてきたのか。
何を失い、何を残したのか。
何を選び、何を選ばなかったのか 』
『 そして、その人から一つずつ要素を取り除いていく。
強さを取り除く。
美しさを取り除く。
肩書きを取り除く。
象徴を取り除く。
その人らしいと思っていたものさえ、取り除いてみる。
それを失っても、その人はその人でいられるだろうか 』
『 そして、何度も問いかける。
もし、それがなかったら。
もし、正反対の人生を歩んでいたら。
もし、環境が変わったら。
もし、誰にも理解されなかったら。
それでも残るものは何か。
最後に残った、もう削ることのできないもの。
私たちは、それを【エッセンス】と呼ぶことにした 』
遥は、その続きを読んでいった。
『 その人は、先頭に立ちたいわけではなかった。
誰かを導きたいとも、世界を変えたいとも思っていない。
ただ昔から、少しだけ気になる時間があった。
誰も動かない時間。
会議で全員が互いの顔を見ているとき 』
遥は、思わず息を止めた。
『 彼女は、そんな時間に気づく。
そして、ほんの少しだけ動く。
これ、やってみませんか。
その一言かもしれない。
椅子を一つ動かすことかもしれない。
まだ名前のないアイデアを、紙の中央に小さく描くことかもしれない。
すると誰かが続きを描く。
別の誰かが言葉を加える。
また別の誰かが動き始める。
止まっていた場所に流れが生まれる 』
遥は、今日の会議での、自分の一言を思い出していた。
『 けれど彼女は、
自分が中心にいる必要を感じない。
流れが生まれたなら横へ退く。
自分より適した人が現れれば、
その人に場所を渡す。
やがて誰が始めたのか分からなくなる。
それでいい 』
遥は、さらにパネルの続きを読む。
『 あるとき、
彼女自身が動けなくなった。
何を始めればいいのか分からない。
そこで初めて思う。
私が動かなければ、
何も始まらないのだろうか 』
遥の胸が、小さく鳴った。
まさに、今の私だ。
『 違った。
以前、
彼女が小さなきっかけを渡した誰かが動いた。
その人が別の誰かを動かした。
彼女がいなくても流れは続いていた 』
遥は、しばらく、そのパネルの前から動けなかった。
パネルの最後に、こう書かれていた。
——『 起こす 』——
遥は、ドアに手をかけた。
◇
店内は静かだった。
奥から、一人の男性が現れた。
会釈だけをして、何も言わなかった。
遥は、ショーウィンドウのコートを指さした。
「あれ、着てみてもいいですか」
彼は頷き、ハンガーごと持ってきた。
◇
試着室で、遥は袖を通した。
思っていたより、軽かった。
けれど、頼りないほどではない。
肩にかけると、
生地が、
自分の重みだけで、すとんと落ちていく感覚があった。
腕を動かしてみる。
布が、
動きに合わせて、
少し遅れてついてくる。
……まとわりつかない
……でも、置いていかれもしない
前を合わせようとして、遥は少し戸惑った。
ボタンも、紐も、留め具らしきものが見当たらない。
よく見ると、内側に、
一箇所だけ、小さな重なりがあった。
そこを合わせると、コート全体の形が、
自然に定まる作りになっていた。
……最初の一点さえ合わせれば、あとは自然に、形になる
遥は、その仕組みに、少しだけ見入っていた。
鏡の前に立つ。
いつもの自分より、
少しだけ、
肩の力が抜けて見えた。
◇
カーテンを開けると、彼は少し離れた場所に立っていた。
遥は、コートの内側の重なりを指しながら聞いた。
「これ、面白い作りですね。最初にどこを合わせるか、悩みました」
彼は、小さく頷いた。
「そこだけ、合わせてもらえば、あとは自然に決まります」
「全部、自分で組み立てなくていいんですね」
「はい。最初の一点だけ、置いてもらえれば」
遥は、その言葉に、少し引っかかった。
「……それ、服の話だけじゃない気がします」
彼は、直接は答えなかった。
ただ、少しだけ、口の端を緩めた。
遥は、続けて聞いてみた。
「この店、長いんですか」
「そこそこには」
「最初から、一人で?」
彼は、少し間を置いてから、静かに答えた。
「昔、ある人に、店をやってみたらどうか、と言われました」
「その人が、何かを教えてくれたわけじゃないんです」
「ただ、その一言だけで、なぜか始めていました」
遥は、その言葉に、思わず彼の顔を見た。
彼は、それ以上、多くを語らなかった。
「今は、もう、その人がどこにいるかもわかりません」
「けれど、この店は、続いています」
遥は、何も言えなかった。
……彼も、誰かから、最初のきっかけを渡された側だったんだ
……そして今、それを、誰かに渡している
◇
遥は、試着室で着替えながら、
今日の会議のことを、もう一度思い出していた。
「じゃあ、次のステップ、誰から動きます?」
あの一言は、もしかしたら、
自分がいなくても、
いつか誰かが言えるようになるのかもしれない。
そう思うと、不思議と、気持ちが軽くなった。
遥は、コートを持って、レジに向かった。
「これ、お願いします」
◇
会計を終え、紙袋を受け取る。
「ありがとうございました」
彼が、そう言ったあと、少しだけ付け加えた。
「良い流れが、続くといいですね」
遥は、小さく笑った。
「それ、コートのことですか。それとも、会社のことですか」
彼は、答えなかった。
ただ、静かに、頭を下げた。
◇
店を出ると、遥は、来た道とは違う道を選んで歩いた。
少し歩いたところで、部下からメッセージが届いた。
「遥さん、さっきの続き、みんなでもう進め方決めちゃいました ! 週明け、共有しますね」
遥は、その文面を、しばらく見つめていた。
自分がいない間に、話が、もう先に進んでいた。
以前の自分なら、少し寂しさを感じたかもしれない。
けれど今は、違った。
……私が置いた小さな一言が、私のいないところでも、ちゃんと続いていた
遥は、紙袋の持ち手を持ち直しながら、
歩く速度を、少しだけ緩めた。
急いで戻る必要は、なかった。
来週、また新しいプロジェクトが始まる。
そのとき、最初の一言を言うのは、
自分かもしれないし、
もう、誰か別の人かもしれない。
どちらでも、良かった。
遥は、空を見上げた。
……私は、ただ、最初の小さな一点を、置くだけでいい
……そこから先は、私のものじゃない
◇
それから彼女は、
完成した答えを持ち込まなくなった。
行き先も決めすぎない。
自分の思った方向へ流れなくてもいい。
必要なのは、
まだ何も起きていないところに、
最初の小さなきっかけを置くこと。
その小さな一点から、
自分一人では作れなかった何かが始まる。
そしていつか、
自分がいなくても続いていく。
それが彼女の残したものだった。
最後に残った、もう削ることのできないもの
——エッセンス『 起こす 』——




