第3話 「今日だけは」
実紗は、いつも誰かのために選んできた。
先週も、そうだった。
同期が異動することになり、ちょっとした贈り物を渡すことになった。
「実紗、センスいいから決めて」
と、みんなに任された。
本当は、その同期が前に「欲しい」と言っていた
ブランドのマグカップを、実紗は覚えていた。
けれど、値段を考えると、他のメンバーの反応が気になった。
「それ、ちょっと高くない?」
と思われるかもしれない。
無難な、みんなが「いいね」と言いそうな、
花柄のハンカチのセットに落ち着いた。
同期は、笑顔で受け取ってくれた。
「わあ、嬉しい」
それで、良かったはずだった。
けれど、帰り道、実紗はふと思い出した。
……本当は、あのマグカップの方が、喜んでくれた気がする
……なんで、聞かなかったんだろう
誰かに聞かれたわけでもないのに、
実紗は、いつも先回りして、
「浮かない方」
「無難な方」
「みんなが納得する方」
を選んでいた。
それは、贈り物だけの話ではなかった。
家族が喜ぶ色を選んだ。
会社で浮かない服を選んだ。
友人に「変わったね」と言われない服を選んだ。
それは我慢ではなかった。
むしろ、それが優しさだと思っていた。
誰かのために選べる自分を、少し誇らしくさえ思っていた。
けれど、あるとき気づく。
クローゼットには服がたくさんあるのに、
「これは、私が選んだ」と言えるものが、ひとつもない。
それは悲しいことではなかった。
怒りでもなかった。
ただ、静かな違和感だった。
……これは誰の生き方なんだろう
実紗は、誰かに認められたいわけではなかった。
反抗したいわけでも、
何かを証明したいわけでもなかった。
ただ、ふと思った。
……今日だけは
今日だけは、誰のためでもなく選んでみよう。
似合うかどうかより先に、好きかどうかで。
浮くかどうかより先に、着たいかどうかで。
◇
それから実紗は、少しだけ変わった。
大きな変化ではない。
誰かが気づくほどのことでもない。
ただ、休日に一人で街を歩くことが増えた。
以前なら「時間の無駄」だと思っていた寄り道を、
少しだけ、自分に許すようになった。
そんなある日、実紗はいつもと違う通りを歩いていた。
仕事の帰り道でも、いつもの生活動線でもない。
なぜそこを歩いていたのか、あとになっても思い出せない。
ふと、足が止まった。
一軒の店の、ショーウィンドウ。
中には、一体のマネキンが立っていた。
派手な服ではなかった。
目を引く色でも、大きな柄でもない。
それなのに、目が離せなかった。
そのマネキンが着ている服には、
何かを主張していない静けさがあった。
「誰かに見せるため」ではなく、
「誰かに気づかれなくてもいい」というたたずまい。
それは、彼女がずっと探していたものに、どこか似ていた。
……これは、誰のために作られた服なんだろう
いつもなら、
「私に似合うだろうか」
「浮かないだろうか」
そう考えるはずだった。
けれど今は、違う問いが浮かんでいた。
……これを着たら、私は何を選べるだろう
彼女はまだ、店の中には入っていない。
ガラス一枚を隔てたまま、しばらくそこに立っていた。
けれど、もう気づいていた。
これは、ただの服ではないと。
◇
視線を戻すと、ショーウインドウの中に一枚のパネルが置かれているのに気づいた。
『 服を選ぶ。その前に、生き方を選ぶ 』
実紗は、吸い寄せられるように、その続きを読んだ。
『 私たちは、服を選ぶとき、何を見ているのだろう。
色。
形。
素材。
ブランド。
流行。
そして、自分に似合うかどうか。
もしその順番を逆にしたら、
どんな服が生まれるだろう 』
実紗は、カードから目を離せなくなった。
『 最初に、服を考えない。
まず、一人の人間の物語を考える。
その人は、何を大切にしてきたのか。
何を失い、何を残したのか。
何を選び、何を選ばなかったのか 』
『 そして、その人から一つずつ要素を取り除いていく。
強さを取り除く。
美しさを取り除く。
肩書きを取り除く。
象徴を取り除く。
その人らしいと思っていたものさえ、取り除いてみる。
それを失っても、その人はその人でいられるだろうか 』
『 そして、何度も問いかける。
もし、それがなかったら。
もし、正反対の人生を歩んでいたら。
もし、環境が変わったら。
もし、誰にも理解されなかったら。
それでも残るものは何か。
最後に残った、もう削ることのできないもの。
私たちは、それを【エッセンス】と呼ぶことにした 』
実紗は、店の奥をちらりと見た。
何着かの服が並んでいる。
それぞれに、小さなタグがついているのが見えた。
『 保つ』 『 委ねない』
実紗は、パネルの続きを読んだ。
『 その人には、いつも境界が見えていた。
誰かに禁止されたわけではない。
扉に鍵が掛かっているわけでもない。
けれど、
普通はここまで。
それはあなたの役割ではない。
そこまでやる必要はない。
そんな言葉が積み重なり、
いつの間にか
世界には見えない線が引かれていた 』
実紗は、思わず息を止めた。
それは、彼女自身の言葉のようだった。
家族のための色。
会社のための無難さ。
友人に「変わったね」と言われないための選択。
誰も、彼女に「これ以上は越えるな」と言ったことはない。
それでも、いつの間にか彼女の中にも、同じ線が引かれていた。
パネルの説明は続く、
『 彼女も長い間、その内側で生きていた。
不自由ではなかった。
そこには正解があり、前例があり、安心があった。
それでも、ときどき線の向こう側が気になった。
そこに素晴らしいものがあると思ったからではない。
ただ、
なぜ、ここが境界なのだろう。
と思った。
ある日、小さな一歩を踏み出した。
勇気を振り絞ったわけでもない。
何かに反抗したわけでもない。
ただ、確かめてみたい。
と思った。
一歩越えてみる。
何も起こらなかった。
世界は壊れなかった。
自分も壊れなかった 』
実紗は、今日ここに来るまでの、あの何気ない寄り道を思い出していた。
目的もなく歩いた、いつもと違う通り。
理由もなく足を止めた、このショーウィンドウ。
それは、大きな決断ではなかった。
けれど、
確かに、
実紗はいつもの動線から、一歩外れていた。
『 彼女が求めているのは、境界の向こう側ではない。
自分の世界を、まだ完成させないこと。
今ある世界だけを、唯一の可能性だと決めないこと 』
パネルの最後に、こう書かれていた。
――『 開く 』――
実紗は、パネルから目を上げ、もう一度マネキンを見た。
さっきまで「静かなたたずまい」だと思っていたその服が、
今は少し違って見えた。
それは、閉じることで守られた静けさではなかった。
開いたままでいる、という選択の静けさだった。
実紗は、小さく呟いた。
「……今日だけは」
実紗は、ドアに手をかけた。
今度は、迷わなかった。
◇
ドアを開けると、控えめなベルの音が鳴った。
店内は、思っていたより静かだった。
音楽もほとんど聞こえないくらいの音量で流れている。
奥から、一人の男性が現れた。
店員だとすぐにわかったが、何も言わなかった。
ただ、小さく会釈をした。
実紗は少し戸惑った。
けれど彼は、何も言わないまま、
ゆっくりとショーウィンドウの方へ歩いていった。
そして、マネキンが着ていたあの服を、
静かに手に取った。
実紗の前まで戻ってくると、
彼はそれを、ハンガーごと差し出した。
言葉はなかった。
けれど、その仕草には、
「着てみますか」でも
「お似合いになると思います」でもない、
もっと単純な何かがあった。
どうぞ。
それだけだった。
実紗は、少し迷ってから、それを受け取った。
試着室に案内されるとき、彼は先に立って歩いた。
◇-
カーテンを閉め、一人になった。
服を手に取る。
思っていたより、軽かった。
装飾はほとんどない。
縫い目も、驚くほど少ない。
……削ぎ落とされている
袖を通す。
生地が肌に触れた瞬間、
彼女は小さく息を止めた。
冷たくも、熱くもない。
主張してこない。
けれど、
頼りないわけでもなかった。
まるで、
……そこに何もないのに、ちゃんと支えられている
ような感覚。
ボタンを留める必要はなかった。
ベルトを結ぶ必要もなかった。
ただ、
袖を通し、
前を合わせるだけで、
服の方が、
彼女の輪郭に静かに沿ってきた。
鏡の前に立つ。
派手ではない。
劇的でもない。
昨日までの自分と、
見た目はそう変わらないかもしれない。
けれど。
いつもなら真っ先に浮かぶ言葉が、
繰り返される。
「これ、浮かないかな」
「これ、変に見えないかな」
が、出てこなかった。
代わりに浮かんだのは、
まったく別の問いだった。
……これを着て、私はどこへ行きたいんだろう
服の方が、彼女に問いかけていた。
実紗は、もう一度、鏡を見た。
そして、小さく、自分にしか聞こえない声で呟いた。
「……今日だけは」
◇-
カーテンを開けると、彼はすでに少し離れた場所に立っていた。
「お似合いですね」
そう言われることを、半分予想していた。
けれど彼は、しばらく黙ったままだった。
沈黙が、気まずさに変わりかけた頃、
彼はようやく口を開いた。
「……重さ、どうですか」
「軽いです。思っていたより、ずっと」
実紗がそう答えると、彼は小さく頷いた。
「それは、良かったです」
実紗の方から、聞いてみた。
「……これ、何か特別な作り方をしているんですか」
彼は少し考えるような間を置いてから、答えた。
「特別なことは、していないです」
「むしろ、逆です」
「動きにくいところ、ありますか?」
実紗は、軽く腕を動かしてみた。
どこにも引っかかる感じがなかった。
「……ないです。むしろ、何も着ていないみたいです」
その言葉に、彼は初めて、ほんの少しだけ表情を動かした。
「それが、目指しているところです」
「目指している、って……何をですか」
「服が、何かを言わないこと」
「その人が、何かを言えるように」
◇
試着室を出て、実紗は元の服に着替えた。
畳まれたその服を、彼はハンガーにかけながら、
レジの方へ運んでいった。
実紗は、値札にちらりと目をやった。
思っていたより、高かった。
……これは、必要かどうかの話じゃない
必要かどうかなら、答えはいつも「いいえ」だった。
今持っている服でも、生活は困らない。
けれど。
さっき鏡の前で浮かんだ問い
……これを着て、私はどこへ行きたいんだろう
は、必要かどうかとは、まったく別の場所にあった。
実紗は、レジの前に立った。
店員は、何も急かさなかった。
その沈黙が、逆に彼女を落ち着かせた。
……説得されて買うわけじゃない
……誰かに勧められて買うわけじゃない
実紗は、財布からカードを取り出した。
「……お願いします」
◇
会計を終え、紙袋を受け取る。
軽かった。
「ありがとうございました」
彼が、初めてはっきりとそう言った。
店を出ると、外の空気は、
入る前と変わらず、いつもの街の匂いがした。
信号待ちをしながら、実紗は紙袋の持ち手を、
少しだけ持ち直した。
明日、これを着るかどうかは、まだわからない。
特別な予定があるわけでもない。
誰かに見せる予定もない。
それでよかった。
信号が、青に変わる。
実紗は、いつもと同じ速さで歩き出した。
けれど、その足取りには、
昨日までとは、ほんの少しだけ違う何かがあった。
それは、誰にも気づかれない違いだった。
実紗自身にしか、わからない違いだった。
◇
振り返ると、
それまで絶対だと思っていた境界が、
ただ一本の線としてそこにあった。
そのとき彼女は気づく。
境界の向こうに自由があったのではない。
越えるかどうかを選ぶ可能性が、
最初から自分の中にあった
それから彼女は、
境界を見るたびに立ち止まる。
すべてを越えるわけではない。
必要な境界なら残す。
守るべきものなら、
自分からその内側に立つ。
ただ、
理由のない境界を見つけたときには問う。
……これは、本当にここで閉じなければならないのだろうか
答えが分からなければ、
少しだけ開いてみる。
失敗するかもしれない。
何もないかもしれない。
また戻ってくるかもしれない。
それでもいい。
彼女が求めているのは、
境界の向こう側ではない。
……自分の世界を、まだ完成させないこと
今ある世界だけを、
唯一の可能性だと決めないこと。
だから彼女は、世界を壊すのではなく、
……閉じようとする世界を、もう一度開く
最後に残った、もう削ることのできないもの
——エッセンス『 開く 』——




