第2話 「聞かずに、決めた」
芽衣は、コワーキングスペースの隅の席で、ノートパソコンの画面を見つめていた。
クライアントからのメッセージが、ポップアップで届いていた。
「デザイン案、拝見しました。個人的にはA案が好みですが、白石さんはどう思われますか?」
芽衣は、少し考えてから、返信を打ち始めた。
「A案、私もいいと思います。B案より、ターゲット層にも合っている気がします」
送信して、少し経ってから、芽衣は自分の返信を読み返した。
……私、本当にA案がいいと思っていたっけ
正直に言えば、
芽衣の中では、
B案の方が少しだけ好きだった。
色の使い方も、レイアウトのバランスも。
けれど、
クライアントが先に「A案が好み」と言った瞬間、
芽衣の中で、
何かが静かに切り替わった。
……クライアントが気に入っている方を、後押しする方が、話が早い
そう思っただけだった。
悪いことをしたつもりはなかった。
独立して、もうすぐ三年になる。
会社員のときは、指示された通りに作れば良かった。
今は、自分で決めなければならないことが、圧倒的に増えた。
けれど、
芽衣は気づいていた。
……「決める」ことと、「相手の顔色を見て、後から合わせる」ことを、自分はよく、混同している
◇
その夜、友人とのオンライン通話で、芽衣は今日あった別の出来事を話していた。
新しい案件で、単価の交渉があった。
先方が提示してきた金額は、
正直、芽衣が想定していたより低かった。
「それで、なんて答えたの?」
友人が聞いた。
「……とりあえず、『検討します』って言って、保留にした」
「本当は、いくらが妥当だと思ったの?」
芽衣は、
少し黙ってから答えた。
「わかんない。だから、みんなに聞いて回ってる。他のフリーランスの人にも、この金額って普通なのか、って」
友人は、少し笑いながら言った。
「芽衣らしいね。いつも、誰かに聞いてから決めるもんね」
それは、責めるような言い方ではなかった。
むしろ、軽い調子だった。
けれど、
通話を切ったあと、
芽衣はしばらく、
画面が暗くなったパソコンの前で、動けずにいた。
……誰かに聞いてから決める
それは、
悪いことじゃない。
人の意見を聞くのは、
大事なことだと思っている。
けれど。
……もし、誰にも聞けなかったら
……私は、何も決められないんじゃないか
その考えが浮かんだ瞬間、
芽衣は、
自分でも驚くくらい、
不安になった。
◇
翌日、芽衣は気分転換のつもりで、
いつもとは違うカフェを探しに、街を歩いていた。
目当ての店は、思ったより見つからなかった。
迷ううちに、細い路地に入り込んでいた。
ふと、一軒の店の前で、足が止まった。
ショーウィンドウの中に、一着のブラウスがかかっていた。
装飾は少なかった。
色も、主張の弱い、深いグレーだった。
それなのに、なぜか、目が離せなかった。
入り口に、小さなカードが置かれているのに気づいた。
『 服を選ぶ。その前に、生き方を選ぶ 』
芽衣は、吸い寄せられるように、その続きを読んだ。
『 私たちは、服を選ぶとき、何を見ているのだろう。
色。
形。
素材。
ブランド。
流行。
そして、自分に似合うかどうか。
もしその順番を逆にしたら、どんな服が生まれるだろう 』
芽衣は、カードから目を離せなくなった。
『 最初に、服を考えない。
まず、一人の人間の物語を考える。
その人は、何を大切にしてきたのか。
何を失い、何を残したのか。
何を選び、何を選ばなかったのか 』
『 そして、その人から一つずつ要素を取り除いていく。
強さを取り除く。
美しさを取り除く。
肩書きを取り除く。
象徴を取り除く。
その人らしいと思っていたものさえ、取り除いてみる。
それを失っても、その人はその人でいられるだろうか。
そして、何度も問いかける。
もし、それがなかったら。
もし、正反対の人生を歩んでいたら。
もし、環境が変わったら。
もし、誰にも理解されなかったら。
それでも残るものは何か。
最後に残った、もう削ることのできないもの。
私たちは、それを【エッセンス】と呼ぶことにした 』
芽衣は、さらに続きを読んだ。
長い文章だったが、芽衣の目は、すぐに一つの箇所で止まった。
『 その人は、誰かに反抗したかったわけではない。
人の意見をよく聞いた。
助言を受け入れ、自分が間違っていると思えば考えを変えることもできた 』
……それ、私だ
芽衣は、思わずそう思った。
『 けれど、いつからか気づいていた。
誰かの意見を聞くことと、
誰かに自分の答えを決めてもらうことは違う 』
芽衣は、昨日のクライアントとのやり取りを思い出した。
「A案、私もいいと思います」
……あの返信は、本当に自分の答えだっただろうか
『 選択を誰かに預ければ楽だった。
失敗したとき、
あの人がそう言ったから
と言うこともできる 』
芽衣は、小さく息を吐いた。
……まさに、それをやっている
パネルの最後に、こう書かれていた。
——『 委ねない 』——
芽衣は、ドアに手をかけた。
考えるより先に、体が動いていた。
◇
店内は静かだった。
奥から、一人の男性が現れた。
「いらっしゃいませ」の一言もなく、
彼は、小さく会釈をしただけだった。
芽衣は、ショーウィンドウのブラウスを指さした。
「あれ、着てみてもいいですか」
彼は頷き、ハンガーごと持ってきた。
◇
試着室で、芽衣は袖を通した。
生地は、思ったより張りがあった。
柔らかいだけの服だと思っていたが、
腕を通すと、程よい硬さで、輪郭を保っている。
肩に、布の重みがすっと乗る。
けれど、それは重さというより、
そこにちゃんとある、という手応えに近かった。
前を合わせる。
ボタンはなく、代わりに、
生地の重なりだけで、自然に前が閉じる作りだった。
指で、その重なりを整える。
何度か直しているうちに、
自分の手が、ちょうど良い位置を覚えていくのがわかった。
……これは、誰かに直してもらう服じゃない
……自分で、合わせる服だ
鏡の前に立つ。
芽衣は、しばらく自分の姿を見つめていた。
◇
カーテンを開けると、彼は少し離れた場所に立っていた。
芽衣は、少し身構えながら聞いた。
「これ、私に似合ってますか」
彼は、少し間を置いてから答えた。
「私には、わかりません」
芽衣は、拍子抜けした。
「……プロなのに、わからないんですか」
「似合うかどうかは、私が決めることじゃないので」
芽衣は、少しむっとした。
けれど、同時に、どこか納得もしていた。
「じゃあ、誰が決めるんですか」
彼は、当然のように答えた。
「あなたです」
その一言に、芽衣は、何も言い返せなかった。
誰が決めるのか、と聞かれて
こんなにはっきり、
「あなたです」
と言われたのは、初めてかもしれない
彼は、それ以上、何も付け加えなかった。
感想も、アドバイスも、なかった。
ただ、静かに、芽衣が鏡を見ているのを待っていた。
◇-
芽衣は、試着室で着替えながら、
今日ここに来る前のことを思い出していた。
友人に、「これ、買うか迷ってるんだけど」と、
写真を送ろうとしたことが、何度もあった。
今日も、無意識に、スマホをバッグから取り出しかけていた。
けれど、指が止まった。
……今日は、聞かない
理由は、うまく説明できなかった。
ただ、そう思った。
芽衣は、スマホをバッグの中に戻し、
その服を持って、レジに向かった。
◇-
値札を見る。
一瞬、指が止まった
いつもなら、ここで、
誰かに「これ、高すぎるかな」と聞きたくなる。
友人の顔が、頭に浮かんだ。
「いいと思うよ」と言ってもらえたら、
きっと安心して買えるだろう。
芽衣は、スマホを取り出しかけた。
けれど、途中で止めた。
……これは、私が決めることだ
芽衣は、スマホをバッグに戻し、
かわりに、財布を取り出した。
「これ、お願いします」
その声は、自分でも驚くくらい、はっきりしていた。
◇
会計を終え、紙袋を受け取る。
彼が、初めて少しだけ表情を緩めた。
「今日、スマホ、何度か取り出しかけていましたね」
芽衣は、驚いた。
「……見てたんですか」
「見えました」
「でも、何も言わなかった」
「言う必要が、なかったので」
芽衣は、小さく笑った。
「意地悪ですね」
彼は、否定しなかった。
「ありがとうございました」
◇
店を出ると、芽衣はしばらく、
紙袋を見つめながら立っていた。
いつもの癖で、誰かに写真を送りたくなった。
「今日、こんな服買った」
けれど、送らなかった。
……これは、誰かに見せるためのものじゃない
……私が、私のために選んだものだ
芽衣は、スマホをバッグの奥にしまい、
歩き出した。
明日、またクライアントから意見を求められるかもしれない。
そのとき、今日みたいに、
自分の答えを、ちゃんと言えるだろうか。
わからなかった。
けれど、ひとつだけ、はっきりしていることがあった。
……今日、私は、誰にも聞かずに決めた
◇
それでも彼女は、
少しずつ自分で選ぶようになる。
正しいからではない。
自信があるからでもない。
一人で生きたいからでもない。
間違える可能性まで含めて、
「これは私が選んだ」
と言える方を選んだ。
人に頼ることもある。
誰かについて行くこともある。
愛する人の言葉で、自分の考えが変わることだってある。
それでも、それは敗北ではない。
その言葉を受け入れると決めたのも、自分だからだ。
やがて彼女は、
自律とは
「何でも一人でできること」ではないと知る。
助けてもらっていい。
迷っていい。
間違っていい。
立ち止まってもいい。
それでも最後に残る問いがある。
「誰が決めたのか」
答えが自分である限り、
彼女は自分を失っていない。
彼女が守っているのは自由ではない。
独立でもない。
強さでもない。
自分の人生の決定主体を、
自分から明け渡さないこと。
それだけだった。
最後に残った、もう削ることのできないもの
——エッセンス『 委ねない 』——




