2-7 神の定め
大浴場は、本当に部屋のすぐ近くだった。
男湯の扉を開くと脱衣場があり、さらに奥の引き戸を開けると、正面に岩を組み合わせて作られた広くて立派な露天風呂が広がっていた。
サイラスたちの他に客は誰もいなかった。他の客たちは、すでに食事中なのかもしれない。
壁に取りつけられた竜の頭のような金色の彫刻の口から、温泉が滝のように湯船に流れ落ちている。客引きの言葉通り、お湯はたっぷりだった。
入り口の係の者からわたされた手ぬぐいを頭に乗せて、サイラスは早速、湯船に入ってみた。熱めのお湯が心地いい。
エミルの村で目覚めてから、初めての風呂だった。そもそも、この世界では普通の家に風呂があることはほとんどなく、宿に風呂がついていることもめったにない。だが、サイラスは記憶を失う前は日常的に入浴していたような気がする。
(やっぱり、お風呂はいいな。疲れがお湯に溶けていくみたいだ。ここんとこ毎日、けっこう歩いてるからなあ)
サイラスは、ふう~、と長い息を吐いた。
続いて、マルバンが露天風呂に入ってきた。服を脱いだマルバンの身体は、細身ながらしっかりと鍛えられている。
(細マッチョだな。魔族も“筋トレ”とかするのかな)
岩の湯船に寄りかかっているサイラスの隣に、マルバンも腰かけた。
「こうやって、ご主人さまといっしょに湯につかるのは、初めてでありますね」
「魔界にもお風呂ってあるの?」
「ええ。アルージュの魔王城には、立派な浴場があるのであります。よく我の主だった魔王アノンの背中をお流ししたものでありますよ」
穏やかな顔でそう語る魔族の執事に、サイラスは思わず聞き返した。
「魔王の背中を?」
「ええ。我にとっては大切なお務めでありました」
(魔王の背中を流す……。どれくらい大きいんだろう。想像するだけで大変そうだ)
「そんな話を聞いてると、魔界がのんびりした平和な場所みたいに思えてくるな」
「魔王アノンがご健在の間は、アルージュはとても平和なところでありましたよ。もちろん魔将同士の小競り合いのようなものは常にあったのでありますが、それでもいまのような殺伐とした場所ではなかったのであります」
「でも、それならなんで魔王たちは、危険を冒してまでこっちに攻めてくるんだろう?」
ゆらゆらと揺れる水面を眺めながら、サイラスはつぶやいた。
「人界は美しいのであります。それに比べて、地下深くにある魔界は日の光も当たらず、住みにくい場所であることは確かなのであります。人界を手に入れるというのは魔王たちの悲願でもあるのでありましょう。ですが、魔王アノンはおっしゃっていたのであります。魔王たちが人界を手に入れようとするのは、『神々にそう定められているから』だと」
「神々に定められている?」
「ええ。我にはよくわからないのでありますが、魔王アノンはそうおっしゃっていたのであります。魔王は神により近い存在であります。神の声が聞こえるとか、そういうこともあるのでありましょう」
マルバンもどこか遠くを見るような目をした。
(神々に定められている、か。魔王たちにも、自分の意志ではないなにかがあるってことなのかな)
「マルバンは、八百年前にアルージュの魔王がこっちを攻めてきたときは、いっしょに来なかったの?」
「はい。我も姫さまたちもアルージュでお留守番でありました。それどころか、魔王アノンはおひとりで人界に向かわれたのであります」
「ひとりで? なんでひとりでなの?」
「それは我にもわからないのであります。まあ、変わった主でありましたから、ご自分の力を試したかったのかもしれないでありますな」
マルバンはサイラスのほうに目を向けて、優しく笑った。
(ずいぶんと変わった魔王だったんだな)
サイラスの頭に、ラツィとセフィの顔が浮かんできた。あの姉妹の父親は、きっと魔王としても、親としても、不思議な人だったのだろう。
そのとき、サイラスの左手にある、人の背丈の倍はありそうな高い壁の向こうから、女の子たちの声がかすかに聞こえてきた。壁の上のほうにはわずかな隙間があったが、大人がジャンプしてもとても届きそうにない。
(壁の向こうは女湯か。……いや、別になにも想像してないけど)




