2-6 温泉宿
辺りはすっかり日が落ちていた。サイラスたちは今晩の宿を探すことにした。
宿屋街は、宿の前のかがり火が石畳の道を明るく照らし、その明かりに釣られたように湯治客たちがふらふらと出歩いている。
さすがに温泉で有名な街だけあって、大小たくさんの宿屋が並び、客引きも盛んでにぎやかだった。
通りを行き交う湯治客たちは、ゆったりとした湯上がりの服を着て、みな赤い顔をしている。
「にゃは、みんな湯上がりだね。ボクらも今夜はあんな顔になるよ」
「温泉、温泉! ご主人さま、はやく、はやく!」
セフィがサイラスの外套の袖を引っ張る。
「夜なのに、こんなに明るいんですね……」
エミルがかがり火の列を見渡して、小さくつぶやいた。
歩いていると、あちこちの宿の前から客引きたちが声をかけてきた。
「そこのお嬢さんがた、うちは露天風呂が自慢だよ!」
「いやいや、うちのほうが安いよ、安い!」
「にゃはは、ボクらは来たばかりだからね。ちょっと見てまわらせてよ」
カレラがひらひらと手を振って、いくつかの宿をやり過ごした。
きょろきょろと眺めながら歩いていると、立派な入り口の宿屋の前で茶色い頭の猫人族の客引きが揉み手をしながら近寄ってきた。
「おや、お客さんたち、宿をお探しですかい? いまなら特別サービスでお安くしとくけど、どうだい?」
「なんだか、胡散臭いな~」
カレラが客引きの顔を見て、整った眉をしかめた。
「なんだい、なんだい、同じマレス族のよしみじゃないか。うちは露天風呂が自慢でね。岩組みの立派なやつで、竜の口からお湯が滝みたいに流れ落ちて、そりゃもう見事なもんだよ」
「ふーん。それで、いくらなの?」
「お客さんたち六人さまだろ? 温泉に夕食と翌日の朝食がついて、なんとおひとりさま一泊金貨一枚ぽっきり! 部屋は大部屋だけど、綺麗で広いし、お湯はたっぷりで食事も評判だよ!」
「高いよ! それにボクらは五人だよ。ひとりは魔導人形だから食事はいらないし、寝ないんだからタダでいいでしょ」
ルナがさっき買ったばかりの外套のフードを下げて、客引きに顔を見せた。プラチナシルバーの髪がふわりと広がる。
「うわ、すごいべっぴんさんじゃないか。本当に魔導人形なのかい? 人間にしか見えないよ。それにそっちのお客さんもお人形さんみたいだし――あれ、よく見たらべっぴんさんだらけじゃないか」
「にゃはは、お世辞はいいから、安くしてよ」
(この客引きのおじさん、お世辞じゃなくて本当に驚いてるな)
「フードの兄さんはずいぶん地味だが、まあ、連れがこれだけ華やかなら文句はないねぇ」
(地味って、目立たなくなったってことか? ちょっとだけ複雑だけど……)
「サイラス、ここでいいんじゃないか」
心なしかルナの表情がほころんでいるような気がする。
(人間にしか見えないって言われたのが嬉しかったのかな)
「ルナがいいなら、セフィもここがいいよ。ご主人さま、ご飯もおいしいって!」
ルナの腕にぶら下がっていたセフィが、にこにこしながらサイラスを見上げてくる。エミルもマルバンも異存はなさそうだ。
「じゃあ、ひとり銀貨八枚で五人分でいいなら、ここに決める」
「へいへい、わかったよ。それでいいよ。はい、五名さま、ご宿泊だよ~~!」
客引きが大きな声で入り口の女性に声をかけた。すぐに女性がにこやかな顔で駆け寄ってきて、宿のなかに案内してくれる。
「ようこそお越しくださいました。長旅でお疲れでしょう。今夜はゆっくり湯に浸かって、疲れを流してくださいね」
「ほう。物腰が丁寧であります。客引きよりも、よほど信用できそうでありますね」
マルバンが小声で感心している。
(思ったより、ちゃんとした宿だな。客引きの印象で損してるかもしれない)
「綺麗な宿ですね。温泉も楽しみです」
エミルは本当に嬉しそうだ。宝石のような緑色の瞳が輝いている。
入り口で履物を脱ぐように言われて、エミルがきょとんとした。
「靴を、脱ぐんですか?」
「にゃは、温泉街の宿はだいたいそうだよ。湯上がりに裸足で廊下を歩くから、汚さないためなんだって」
白木の床の廊下を宿の女性に先導されて部屋に向かう。廊下はぴかぴかに磨かれていて、気をつけないと転んでしまいそうだ。
言ったそばから、セフィがつるりと足を滑らせて尻もちをついた。
「いたた……」
「にゃはは、言わんこっちゃない」
セフィは涙目でルナに両手を伸ばし、当然のように抱え上げられた。ルナの腕のなかで、もう機嫌が直っている。
渡り廊下から見える中庭には小さな池があり、水面に灯りが揺れていた。途中で階段を上り、けっこう歩いて、やっと部屋にたどり着いた。
「ええ、ええ。うちはこのラグーツで二番目に大きくて、二番目に古い老舗の宿なんですよ」
(どちらも一番ではないのが微妙だけど、すごく自慢げだからなにも言わないでおこう)
「わぁー、お部屋、広いですね! サイラスくん、窓から外が見えますよ」
部屋は本当に広くて綺麗だった。白木の匂いがほのかに漂い、部屋の隅には人数分の布団が積んである。窓からは温泉街が一望できる。
(これまでエミルに泊まらせてしまった、窓もないような木賃宿とは全然違う。エミルが喜んでくれてるのが一番嬉しいな)
窓辺に立ったエミルの横顔を、通りのかがり火が照らしている。眼下ではまだ客引きの声が続き、宿々の屋根から立ちのぼる湯気が、夜空に白く溶けていた。
「見てください、サイラスくん。お湯の煙が、街じゅうから上がってます」
「本当だ。昼間より、はっきり見えるね」
「わたし、こんなに高いところから街を見たのは初めてです」
「僕も……たぶん、初めてだと思う」
記憶のないサイラスには、それしか言えなかった。
ふたりで窓の外を眺めていると、後ろでどさりと音がした。振り返ると、カレラが荷物を放り出して、床の上に大の字になっている。
「あ~、疲れた~。やっぱり屋根の下はいいねぇ」
「カレラ殿、行儀が悪いのであります」
マルバンは部屋の隅々に目を走らせ、棚の上を指でなぞって、満足げにうなずいた。
「掃除は行き届いているのであります。二番目というのも、あながち誇張ではなさそうでありますね」
(執事の目線で宿を採点するんだ……)
「ねぇ、マルバン。執事なんだから、ボクの荷物も片付けてよ」
「我が仕えるのは、姫さまとご主人さまだけであります。カレラ殿はご自分でどうぞ」
「にゃはは、けちんぼ」
セフィは部屋の隅に積まれた布団に飛び込んで、きゃあきゃあと転げまわっている。ルナは窓の鍵を確かめてから、静かに言った。
「今夜は私が起きている。みんなはゆっくり休むといい」
「ルナは休まなくて平気なの?」
「私は眠らなくても、なにも困らない。魔導人形だからな」
「セフィもルナといっしょに起きてるー」
「おまえは寝なきゃダメだ」
ルナに軽くおでこを押されて、セフィが布団の上にころんと転がった。
「魔導人形にメイドと執事、マレス族の護衛までお連れなんて……。ずいぶんと、やんごとなきお家のお坊ちゃまなんですね」
「あ、いえ、僕はそんな――」
「ご主人さまは謙虚なお方なのであります」
マルバンが胸を張って、余計な補足をした。
(マルバン、頼むから目立たせないで……)
「大浴場からはすぐ近くですので、お食事の前にお風呂に入られてはいかがですか? お食事はお部屋にご用意いたしますので」
宿の女性がサイラスに鍵をわたし、一礼して部屋から出ていった。
「それじゃあ、先にお風呂に行こうかな」
「温泉、温泉! セフィも行く!」
「セフィちゃん、女湯はこっちですよ」
布団から跳ね起きたセフィの手を、エミルが引いていく。
「おお、ご主人さま。男同士、裸のつき合いでありますね。行きましょう、行きましょう」
マルバンがサイラスの腕を取って、ずんずんと温泉に引っ張っていく。
「どうしたんだよ、マルバン。――ああ、カレラ、これよろしく」
サイラスは慌てて、カレラに部屋の鍵を投げてわたした。




