1-6 最初の言葉
「どうぞ、どうぞ、こちらに座ってください」
「失礼します」
テーブルを挟んで、トリマンの正面にサイラスは腰かけた。
トリマンが大きな灰色のジョッキを持ち上げて、表面が泡立った赤ワインらしき液体をぐびりと美味しそうに飲み込む。
「わたしは村長なんて呼ばれてはいますが、居酒屋もやってるんですよ。まあ、どちらかといえば、こちらのほうが本業でしてな。今日は臨時休業ですが」
微笑むトリマンの後ろから、エミルがこちらに向かって歩いてくるのが見えた。
エミルはジョッキをサイラスの前に置くと、顔も見ずにそそくさと厨房に戻っていく。
トリマンのものと同じ大きさのジョッキには、深紅の液体がなみなみと注がれていた。
(やっぱり目を合わせてくれない……)
「酒はいける口ですかな?」
「すみません、それが……飲んだ記憶もなくて」
「おお、これは聞き方を間違えましたな! わはは、なら、今夜わかりますよ」
(確かに。記憶がないと、こんなことまで“初めて”になるんだな)
「ああ、娘のことは気にしないでください。あいつは男が苦手なんですよ。もう十六にもなるというのに」
客に対しても無愛想で困ってるんですよ、とトリマンは顎の白いひげをいじりながら笑った。
口では困っていると言っても、目を細めて娘を見つめる父親の表情からは、深い愛情が感じられる。
(男が苦手? じゃあ、僕のことが特別嫌いってわけでもないのかな?)
つられて厨房のほうを見ると、エミルと目が合った。しかし、すぐにそらされてしまった。
(うん。嫌われてるな、これは)
「そういえば、僕が助けられたときに、なにか身元がわかるようなものは持っていなかったのでしょうか?」
「他にはなにも落ちていなかったようですな。あなたさまを運んできた者からは、持ち物の話はなにもありませんでしたから」
「……そうですか」
(無一文、確定かぁ……なにか記憶の手がかりになるようなものだけでも、あればよかったんだけど……って、ここ居酒屋だよね? お金を払って食べたり飲んだりするところなんじゃ……)
「……あの、トリマンさん? その、僕、お金を持ってなくて……せっかく食事を出していただいても、代わりに差し上げるようなものもないんですが……」
「わはは、そんなことは気にしないでください。記憶を失って倒れていた人から代金をいただこうなんて思ってはいませんよ。記憶が戻って、ご自分の帰る場所がわかるまでこの家にいていただいてかまいません。困ったときはお互いさまですからな」
「あ、ありがとうございます!」
(トリマンさん、いい人だな。お腹ぺこぺこだし、本当に助かった)
トリマンに感謝しつつ、お言葉に甘えて、出されたお酒を試してみることにした。
だが、ジョッキをつかんだ瞬間、その不思議な感触に驚いて、思わず手にしたものを確かめた。
灰色のジョッキは、陶器のように見えるのに、指で触れると石のように硬く、ざらざらしていた。
そんなサイラスのようすを見て、トリマンは楽しそうに笑った。
「あなたさまは、この辺りのご出身ではなさそうですな」
「どうしてでしょうか?」
「いやいや、このジョッキに驚かれていたんで。この辺りでは“土の精霊術”が盛んで、このような食器がたくさん作られてるんですよ。まさに石と同じように硬くて丈夫なので、落としたり踏んづけたりしたくらいじゃ壊れません。なかなか便利なもんなんですよ」
(土の精霊術?)
サイラスは聞き慣れない言葉が気になった。だが、質問する前にトリマンは別の話題に移ってしまった。
「そういえば、まだ、お名前をお聞きしてませんでしたな?」
「……サイラスです」
すこしためらったが、サイラスは名乗った。
他のことはなにも覚えていないのに、なぜだかそれだけは、正しいという自信があった。
「サイラスさま……ですか?」
大柄な村長はあらためてサイラスの顔をまじまじと見つめて、その名前に驚いているようだった。
理由のわからないサイラスは、気まずくなってしまう。
(なにかまずいこと言っちゃったのかな?)
「……金色の髪に真紅の瞳……“王家の色”……もしかしたら……いや、まさか……そんなことは……」
トリマンは、なにやら小声でぶつぶつとつぶやいている。
「さあ、食事の用意ができましたよ」
そこに初老の女性――村長の妻のコロネと娘のエミルが、それぞれ両手で大きなお盆を持って、湯気が立ち上る料理を運んできた。
「うわぁ、すごい料理ですね」
肉料理、魚料理、野菜を炒めたもの、スープ。とにかく運ばれてくる料理は、どれも見た目が豪華で、美味しそうな匂いがした。
(なんか元気が出てきた)
「妻は昔、大きな街の貴族さまのお屋敷で料理を作る仕事をしていたことがありましてな。そのときに覚えた貴族さま向けの料理を真似たものを出すんで、この店は人気なんですよ。まあ、素材はぜんぜん違いますがな」
そう言ってトリマンは豪快に笑った。
確かに、庶民の夕食には見えない。まるで貴族の晩餐だ。サイラスの目の前に、四人ではとても食べきれない量の皿が並んでいく。
(これって、トリマンさんがものすごく食べるのかな? あの体格だし……)
料理を並べ終えたコロネとエミルが、家の主の巨体を左右から挟むように席について、食事が始まった。
サイラスはすこし申し訳なくなった。
この家の人たちは、森で倒れていた、どこの馬の骨ともわからない自分のために、これほどの料理を振る舞ってくれているのだ。
だが、その気持ちがとても嬉しかった。
目が覚めてからずっと胸の奥にあった不安が、ぐっと小さくなっていく。
(感謝しないとバチが当たるな。なにかお返しできることも探そう。でも、まずはごちそうになろう)
「いただきます!」
サイラスは胸の前で手を合わせると、石でできたフォークを手に取った。
顔を上げると、三人がきょとんとこちらを見ていた。
「……それは、どちらのお祈りですかな?」
言われて、サイラスはさっき合わせたばかりの自分の手に目を落とした。
(……どちらの、なんだろう)
「さあさあ、若いんですから、どんどん食べてくださいね」
コロネが優しく微笑んで、これはエミルが作ったんですよ、とサイラスに料理を勧めてくる。
そっとうかがうと、エミルはなぜだか緊張したような面持ちで目を伏せている。
(エミルが作ったのもあるのか)
サイラスはフォークで魚の切り身を口に運んだ。
「……っ! なんだこれ、めちゃくちゃ美味しいっ!」
思わず声が出た。
香ばしく焼かれた魚の表面はカリッとしていて、なかはふっくらと柔らかい。口のなかに広がる上品な味つけに、サイラスは目を丸くした。
「エミルが作ったの、これ? すごいな、料理が得意なんだね」
サイラスがエミルのほうを向いて言うと、エミルの白い頬がぽっと赤く染まった。ちらりとサイラスを見て、すぐに目をそらす。
「……そんな、大したものでは、ないです……」
小さな、消え入りそうな声だった。でも、それはエミルがサイラスに向けた最初の言葉だった。
(おっ、しゃべってくれた!)
サイラスは心のなかで小さくガッツポーズした。
「大したものじゃないどころか、これは本当に美味しいよ。このスープも?」
「……はい。スープは母さまと、いっしょに作りました」
まだ、こちらを見てはくれない。でも、さっきまでの凍りついたような空気がすこしだけ溶けた気がした。




