1-4 記憶喪失
『……起き……て……』
どこからか、懐かしい声が聞こえてくる。
『…………サイ……ラス……』
誰かが自分の名前を呼んでいる。でも、誰の声かは思い出せない。
『……もう……目を覚まさない……と……敵が……』
(敵?)
『……この世界を……』
(世界?……世界がどうしたっていうのさ?)
『……あなたの……大切なものを……守っ……て』
(大切なもの?……守る?)
『……ジジッ……メモリに不具合を検知しました……修正を……』
いつの間にか、懐かしいと感じた声は人工的な音声に変わっていた。
『……しゅ……う……せい……を……試みま……すか……?』
サイラスはベッドのなかで目を覚ました。
なんだか、とても長い間、怖い夢を見ていたような気がする。
どんな夢だったのかは思い出せない。ただ漠然と憂鬱な気分だった。頭がぼうっとして、こめかみがズキズキと痛む……。
両手で耳の上を押さえながら、サイラスはゆっくりと上半身を起こした。
恐る恐る目を開けてみる。見まわしても、ぼんやりと白い光が見えるだけだった。
まだ目が慣れていないせいか、まるで濃い霧のなかにいるかのようだ。
しばらく、そのままじっとしていると、真っ白な視界のなかにうっすらと影のようなものが見えた。
サイラスはそちらに顔を向けた。
それは、ベッドのそばで心配そうにサイラスを覗き込む女性のようなシルエットだった。
顔も名前も思い出せない。それでもサイラスは、それが自分の母親だと思った。
幼いころ、熱を出して寝込んだ自分をずっと看病してくれた人。額の汗をぬぐう手の感触と、優しく抱きしめてくれたあの温もりだけを覚えている。
サイラスは急に懐かしくなって、女性に勢いよく抱きついた。その胸に顔を埋めた。悪夢を見たことを伝えたかった。慰めてほしかった。
それに母親に会うのは本当に久しぶりな気がした。
「きゃぁああああああ!」
次の瞬間、サイラスは抱きついた女性に思いっきり突き飛ばされていた。
「えっ……!?」
ばたばたと慌てて走り去る音、ついで、ばたんと扉が閉まる音がした。
黒いシルエットの女性は、驚いて部屋から出ていってしまったようだ。
サイラスに残されたのは、額に感じた豊かな胸の弾力と柔らかさ、そして、“少女”の悲鳴だった。
初めて聞く声。でも、なぜだかとても懐かしい気もする声……。
ひとり、部屋に取り残されたサイラスは、しばらく呆然としていた。
(あれ? 母さんじゃなかった?……じゃあ、いまのは誰?)
やっと目が慣れてきたのか、だんだんと周りのものが見えてきた。そこは壁紙もない、質素な板張りの小さな部屋だった。
自分が寝ているベッドの他には、小さな机とクローゼットがあるだけだ。左側の壁には窓があり、右側の壁には扉がある。
いまは夜なのだろうか? 窓から明かりは差していなかったが、部屋のなかは机の上に置かれたランタンの光だけで、思いのほか明るかった。
初めて見る場所だった。少なくともサイラスはそう思った。
「ここはどこだ……?」
ベッドに腰かけたまま、サイラスが腕を組んで独り言をつぶやいていると、右側の扉が開いた。
白い顎ひげを生やした初老の男性が入ってくる。やはり見たことのない顔だ。
男性の後ろから、くすんだ灰色の衣服に身を包んだ少女が、こちらをおずおずと覗いている。
その粗末な身なりとは不釣り合いなほど、少女は美しかった。
(うわっ、天使だ)
思わず、サイラスは少女に目を奪われてしまった。村娘らしからぬ整った顔立ちに、深い緑色の大きな瞳が輝いている。
形のいい眉、長い睫毛にすっと通った鼻梁、健康的な白い肌、背中まで伸びた栗色の美しい髪――。
でも、なぜだか珊瑚のような桃色の唇を尖らせ、すこし頬を赤らめている。
(この子、初めて見たはずなのに、どこかで会ったことがあるような……?)
「ご気分はいかがですかな?」
少女に見惚れているサイラスに、初老の男性がにこやかに話しかけてきた。
「あ……は、はい。おかげさまで」
サイラスは慌てて少女から目をそらし、ぎこちなく頭を下げた。
(……って、なにが「おかげさま」なんだろ)
男性は背が高く、たくましい身体つきをしていたが、物腰は柔らかかった。
名前はトリマンといって、村長をしているそうだ。
「娘のエミルです。あなたさまが目を覚まされたと、それはもう、すごい勢いで飛んできましてな」
(その勢いの理由は、たぶん僕です……)
エミルが父親の陰に、さらに半歩隠れた。こちらと目を合わせようともしない。
(あれれ、嫌われちゃったのかな……?)
サイラスはすこしへこんだ。
(いや、いきなり抱きつかれたら、そりゃ怒るよね)
「昨日の夕方、村の者が精霊の木の前で倒れていたあなたさまを見つけて、ここまで運んできたんですよ」
「……精霊の……木?」
「ええ、精霊の木というのは古代樹とも呼ばれる、この辺りで一番大きな木で、この村の南にある森の中心に生えてるんです。村の守り神ともいわれてるんですが、なぜ、あなたさまはそのようなところで倒れておられたのですかな?」
(なんでだろう?)
トリマンの顔を見つめ返して、サイラスは首をひねった。
その質問で初めて、自分には目が覚める以前の記憶がない、ということにサイラスは気がついた。
思い出そうとしても、なにも思い出せない。頭のなかに、もやがかかっているかのようだった。
無理に思い出そうとするとこめかみの辺りが痛くなってくる。
「……すみません。せっかく助けていただいたのに、なにも覚えていないんです」
サイラスは申し訳なさそうにうつむいた。
トリマンの後ろで、エミルが息をのむ気配がした。
「記憶喪失……ですかな。まあ、そのうちになにか思い出すかもしれませんな。そうだ、お腹が空いてるでしょう? 昨日からずっと眠ったままでしたからな。下に用意させてますから、いっしょに食べましょう」
「あ……ありがとうございます」
村長のトリマンはサイラスに微笑むと、娘を連れて部屋から出ていった。
ふたたび部屋にひとり残されたサイラスは、なぜ自分は記憶を失ってしまったのだろうか、と考え込んだ。
自分はいったい何者なのか?
ただ、自分の名前がサイラスだ、ということだけはなんとなく覚えていた。夢のなかで、誰かにそう呼ばれていたような気がする。
(あれ……誰に呼ばれてたんだっけ……?)




