1-18 悪夢
気づくとサイラスは真っ暗な空間にいた。一筋の光も存在しない場所。目を凝らしてもなにも見えない。
動くことさえ、できなかった。
そもそも自分の身体が存在しているのかさえ、わからない。ゆっくりと、冷たくて重たい水の底に沈んでいくような感覚だけがあった。
いつもの夢だ、とサイラスは思った。
どこか遠く離れたところから、かすかに少女の声が聞こえてくる。とても懐かしい、優しい声――。
顔は見えない。思い出すこともできない。美しい少女だったと思う。
ただ、その春の日差しのように柔らかな声と、少女の髪の甘い花のような香りだけを覚えている。
少女のことを考えると、なぜだかサイラスは太い氷柱を胸の奥深くまで突き刺されたかのような冷たく鈍い痛みを感じるのだった。
胸に刺さった氷柱はどんどん太く大きくなり、重さを増して、サイラスを暗い底なし沼のなかに引きずり込んでいった。
『勇者さまは十五歳なのね。そうしたら、わたしのほうがお姉さんだから、勇者くんでいいよね。わたし、来月で十六歳になるの』
(キミの声が好きだった)
『誕生日パーティーには勇者くんにも来てほしいな。ううん。プレゼントはなにもいらない。ただ、勇者くんが来てくれるだけでいいの』
(ただ、キミのそばにいたかった)
『勇者くんはどんなお料理が好き? 本当はわたしもお料理とかしてみたいのだけど、危ないからって厨房にも入れてもらえないの。もし、わたしが自由になれたら、お料理を習ってみたいな。そうしたら、勇者くんにもなにか美味しいものを作ってあげる。期待しててね』
(キミの笑顔が好きだった)
『わたしは籠のなかの鳥。このお城からは一歩も出られないの。ねえ、勇者くん。わたしをここから連れていって、勇者くんといっしょに』
(キミに外の世界を見せてあげたかった)
『勇者くん、大好きよ。わたしのことを守ってね。勇者くんとふたりなら、わたし怖くないから』
(俺だって、キミのことが、大好きだったんだ!!)
『いやぁああああああっ、勇者くん、助けて!』
◆
「うわぁぁあああああっ!」
サイラスは、大きく息を吐いて目を覚ました。ひどく汗をかいていた。心臓が激しく鼓動している。頭痛でめまいがした。
周りを見まわしてみる。見慣れない天井、古ぼけた板張りの壁に囲まれた狭い部屋。藁の上にシーツを敷いただけの粗末なベッド。
昨晩、エミルの村から逃げるように出発し、一晩中歩いて、今朝、街道沿いの木賃宿に泊まったことをサイラスは思い出した。
よくない夢を見たようだったが、なにも思い出せない。
ただ、胸の奥にある喪失感……。
ふと、サイラスはベッドのなかに人の気配を感じた。
「……勇者……さま?」
窓から差し込む陽の光に、エミルの栗色の髪が輝いている。抜けるような白い肌。すこし寝ぼけたような顔で、宝石のような深い緑色の瞳がサイラスを見つめてくる。
サイラスはエミルがそばにいたことで、ほっと安堵したが、目からは大粒の涙があふれていた。
「どうかされましたか? 勇者さま、どこか痛いんですか?」
「わからない、わからないんだ。でも、なぜだか涙が止まらないんだ……」
「怖い夢を見たんですね。もう大丈夫です。わたしはここにいますよ」
エミルは慌てて、白く細い腕でサイラスの頭を自分の胸に抱き寄せた。大切なものを扱うようにサイラスの髪を優しくなでる。
「大丈夫です。大丈夫……」
エミルの声は温かかった。花の香りがした。不思議と涙はすこしずつ止まっていった。
◇
サイラスの頭を柔らかく胸に抱きかかえながら、エミルは昨晩の出来事を思い返していた――。
昨日、わたしは魔族の生贄になりました……。
魔族はとにかく恐ろしいと、子供のころから聞かされてきました。人間を生きたまま、頭からバリバリと食べてしまうんです。
ただの村娘がひとり、魔族にさらわれたとしても助けようと思う人なんて、どこにもいません。それどころか村から逃げ出そうとするでしょう。たった一体の魔族が、小さな村を全滅させたなんて話もあるくらいです。
さらわれたのがお姫さまで、助けにきたのが勇敢な騎士さまだったとしても、魔族のひそむ夜の森にひとりで向かうのは、ためらわれるはず。
魔族とは、それほどまでに恐ろしい存在なんです。
わたしは絶対に助からない。今日、ここで魔族に食べられて死んでしまうんだ。そう、あきらめていました。
でも……。
村が助かるなら、自分を引き取って育ててくださった、優しい父さまと母さまが助かるのなら、それでいいと思っていました。
覚悟は決めたはずでした――。
けど……、死ぬのはやっぱり、怖かったんです。夜の森のなかにひとり残されて、怖くて、怖くて、わたしはおかしくなりそうでした。
わたしは臆病者です。誰か、助けて――と、心のなかでずっと叫んでいました。
願いが女神さまに届いたんでしょうか? 突然、わたしの前に、この少年があらわれました。少年はたったひとりで、わたしを助けにきてくれたんです。
知り合ったばかりのこの少年には、わたしを助けなければならない理由なんてありませんでした。村とも無関係なんですから、ひとりで逃げ出したとしても誰も責めたりはしないというのに……。
あのとき、わたしには少年が“本物の勇者さま”に見えました。それだけで嬉しくて、涙があふれました。
その後になにが起こったのか、わたしにはわかりませんでした。少年の身体から眩しい白い光があふれ、気がついたときには恐ろしい魔族は消えていました。
自分の周りの森がきらきらと光っていて、それは見たこともない美しい光景でした。
解放されて少年の胸に飛び込んだとき、わたしは自分が物語のなかのお姫さまになったような気がしました。
これまでの人生のなかで、一番、幸せを感じた瞬間でした。
なぜだかわかりませんが、わたしはずっとこんな風に誰かに助けてほしい、外の世界に連れ出してほしいと心の奥深いところで願っていたのかもしれません。
少年はわたしに、光といっしょに未来をくれました。もう二度と来ることはないとあきらめていた、明日という大切な日を。
いま、わたしの胸のなかで涙を流す少年は、昨日、あんなに恐ろしい魔族からわたしを救ってくれた勇者さまなのに、自分と同じ年ごろの普通の男の子のように見えます。
でも、それがわたしには、とても愛おしくて、守ってあげたいと思えてくるんです。きっと記憶をなくして、ひとりぼっちで不安なんです。どんなに強くても、勇気があっても、ひとりの普通の少年なんです。
わたしはなんの役にも立てないかもしれません。でも、ずっと彼のそばにいたい。そう思いました――。
「大丈夫です。大丈夫。わたしがずっとそばにいますから」
エミルは、サイラスが泣きやむまで、優しく頭をなでつづけた。




