2-60 抜け駆け
すこしだけ時間が遡って、風の森の入口。
雨は変わらず、激しく森を打ちつづけている。エミルは両手で口を覆ったまま、唇をぐっと噛んだ。
(サイラスくんが、ひとりで戦っている……)
翠玉色の瞳から、こぼれる涙はもう止まらなかった。
『サイラスは、いまからマナの尽きかけた身体で、ベタクロフと向き合うことになるでしょう』
フルリーヌの言葉が、頭のなかで何度もこだまする。
ふと、エミルは顔を上げた。雨に濡れた頬を、ぐいと手の甲でこする。
「カレラ、ルナ」
カレラとルナが、はっとエミルを見た。
「わたしを、サイラスくんのところに連れていってください」
「えっ……?」
黒い猫耳が、ぴくりと跳ねる。ルナも、青い目を見開く。
「お願いします。わたしには、戦う力はありません。でも、サイラスくんをひとりにしたくないんです」
「しかし、エミル。サイラスは私たちにここで待てと――」
「待っていられません!」
ルナが、ふっと息をのむ。
「サイラスくんは、いつもひとりで全部、背負おうとします。今度こそ、わたしもそばにいたいんです。いえ……そばにいなければいけない気がするんです」
緑の宝石のような瞳が、雨のなかで強い光を宿していた。カレラが、白い八重歯を見せて笑った。
「にゃはは、わかったよエミル」
マレス族の女剣士は、太刀の柄をぽんと叩いた。
「ボクも、ほんとーはそのつもりだったんだ。マルバンたちが戻ってきたあたりで、サイラスのマナがまずいなって思ってたしね」
「ああ」
ルナも、短くうなずいた。
「行こう、エミル。私は勇者の盾だ。サイラスとともに、第一魔将と戦おう」
栗色の髪の少女が、深くうなずく。
「……わたくしも、行きます」
澄んだ、けれども、ひどく弱々しい声がした。
三人が、いっせいに振り向く。地面に下ろされたままだったラツィが、ゆっくりと上体を起こしていた。長い赤い睫毛の下から、金色の瞳が、ぼんやりとこちらを見ている。
「ラツィっ!」「姫さまっ!」
エミルとマルバンの声が、重なった。
「目が覚めたんですか? まだ、安静に……」
エミルが慌てて駆け寄る。ラツィは小さく首を横に振った。
「……抜け駆けは許しませんよ」
「ぬ、抜け駆けなんて、してませんっ!」
マナを消耗した身体は、上体を起こしただけで震えている。それでも、その瞳には、力強さが戻ってきていた。
「姫さま、無理をなさってはいけないのであります――」
「……マルバン」
よろめきながらも、ラツィはまっすぐに立ち上がった。
「……まいりましょう、奴との決着をつけに……」
「……かしこまりましたであります」
マルバンは深々と頭を下げると、すばやくラツィの隣に立って、その細い身体をそっと支えた。肩の上で、パールが胸の羽毛をふくらませる。
「ふん、姫さまが行かれるというのだ。私がついていかぬわけがないだろう」
言いながら、金色のフクロウは翼を広げる。
「サイラスのところまで、私が案内しよう」
すこし離れて見守っていたフルリーヌが、ずしりと重そうな布の袋を抱えて歩み寄ってきた。
ラツィの肩が、びくりとこわばる。
「……フルリーヌ。わたくしは、この森を……」
「焼いたのは、ベタクロフです」
フルリーヌは、ラツィの言葉を静かにさえぎった。
「私たちは、もう仲間でしょう?」
ラツィの瞳が、かすかに潤んだ。
「私も、ごいっしょします」
「フルリーヌさま……?」
「これを、サイラスに届けたいのです」
フルリーヌは布袋の口を、わずかに開いた。なかには、赤黒い結晶が、ぎっしりと詰まっている。
「これだけあれば、マナの切れかけたサイラスも、ある程度の回復はできるはずです」
「魔晶石……っ!」
エミルの顔が、ぱっと明るくなる。
「フルリーヌさま、ありがとうございます……っ」
「礼にはおよびません」
エルフの賢者は、小さく、けれどもはっきりと微笑んだ。
「四百年ぶりに、勇者の役に立てるのですから」
フルリーヌは袋から結晶を取り出すと、ラツィとカレラの手のひらに、ひとつかみずつ乗せた。
「あなたたちも、これでマナを戻しておきなさい。魔族の姫には、気休めにしかなりませんけれど」
「……感謝します、フルリーヌ」
「にゃっ、ありがとうございます、フルリーヌさま!」
ふたりが結晶を握りしめる。指の隙間から赤い光がこぼれ、すうっと手のひらに溶けていった。開いた手には、くすんだ黒い石だけが残っている。
カレラが、ぐるりと肩を回す。ラツィの白い頬にも、ほんのりと血の色が差した。
一同の視線が、自然と燃え跡から立ちのぼる煙の奥――森の中央へと向けられる。
パールが飛び立ち、低い空を一度、旋回した。
一同は、その金色の影を追って、夜の森のなかへと足を踏み入れた。
◇
雨で火は消えても、森の奥には煤と煙の匂いが立ちこめていた。エミルは木の根や倒木をまたぎながら、太刀を抜いたカレラと、白い槍を構えたルナの後を追った。
マルバンに支えられたラツィと、布袋を抱えたフルリーヌが、しんがりを務める。頭上では、パールが何度も上昇と下降を繰り返している。
「もうすぐだ。あそこの燃え跡の真ん中だっ!」
パールの叫び声に、エミルの足が速くなった。雨に濡れた革靴が、ぴしゃぴしゃと音を立てる。
木々の途切れた、開けた場所が、急に視界に飛び込んできた。エミルは、息をのんで立ち止まった。
真っぷたつに割れた巨大な卵の手前で、真っ赤な人型の化け物が、触手でサイラスの足をつかんで引きずっていた。その頭が、縦に裂けている。
「サイラスくんっ!!」
その声は、激しい雨音を裂いて、燃え跡の中央までまっすぐに届いた。
駆け出そうとした足が、一歩目で凍りついた。身体が、すくみ上がって動かない。
化け物の触手が、一気にサイラスの身体を引っ張り上げた。少年が、雨のしぶきとともに、宙に舞った。
「あ……、あ……っ」
金髪の少年が、牙の洞窟のなかへと吸い込まれるように――。
ばくんッ、と。
縦に割れていた口が、ひと息に閉じた。牙と牙が、ぎちぎちと音を立てて噛み合わさる。
そこには、もう、勇者の姿はなかった。
「サ、サイラス、くん……」
エミルの膝が、がくんと地面に折れた。雨が頬を打ち、唇を打ち、睫毛の上で、はらはらと震えている。その目には、なにも映っていなかった。
「サイラスくん、サイラスくんっ! いやぁぁぁぁぁぁぁっ!!」
「記憶喪失勇者」2-60を読んでいただき、本当にありがとうございます!!
さいらすと申します。
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※『勇者レギウス ~最弱勇者と最強従者~』という小説も書いています。
※本編の800年前のお話です。
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挿絵をChatGPTに描いてもらいました!
※この小説は執筆に一部、AIを使用しています。
・自身で執筆した文章をAIに改変させているが、再度全て自分で編集・改稿
・自身で執筆した文章の誤字・脱字チェック




