1-13 夜の森
大きな満月が、夜空を明るく照らしている。急いで駆けつけた夜の森は、しんと静まり返っていた。
いくらなんでも静かすぎる。虫の音ひとつ聞こえず、自分の足音だけがやけに大きく響いた。
生存本能の強い野生の動物たちは、自分たちの生命を脅かすものがあらわれたことに気づいて、森のもっと奥深くへと逃げ込んだのかもしれない。
もっとも、動物より生命の危険に鈍感な人間でも、魔族がいるとわかっている夜の森に、わざわざ足を踏み入れるような愚か者はいないだろう。
(囚われた少女を救うために、魔族のいる森に駆けつけるなんて、まるで本物の勇者みたいじゃないか)
サイラスは自分の行動に苦笑いしつつも、全力で先を急いだ。
村長たちに勇者さまなどと呼ばれはしたものの、サイラスには自分が勇者なのだという実感はまるでなかった。
魔族はとても強いらしい。一体の魔族を数人の騎士で相手にするほどだ。素人が剣をわたされて、ほいほいと勝てるような相手ではないことは確かだろう。
魔族に勝てる保証はまったくない。それどころか、どう戦えばいいのかさえもわからない。だが、足は止まらなかった。
(頼む、エミル。無事でいてくれ)
知り合ったばかりの少女なんて見捨てて、逃げ出したっていいはずだった。なぜだかわからないが、サイラスは彼女のために自分の生命をかけてもかまわないとさえ思っていた。
エミルのことを考えると心の奥深いところにある、なにかとても大切なものが蘇ってくるような気がする。しかし、肝心なところに鍵のかかった扉があって、それ以上、奥に進むことはできないのだった。
サイラスは昨晩、エミルの境遇を彼女の口から聞いた。
この気持ちは同情だろうか? それとも、彼女のことが好きになってしまったのだろうか?
確かにエミルは美しい少女だ。サイラスはエミルの春の花のような笑顔を思い出しただけで、胸がドキドキしてしまう。それでも――。
(理由なんかどうでもいい。とにかく僕はエミルを助けたいんだ)
目の前に魔族の生贄にされようとしている女の子がいるというのに、知らないふりをして放っておけるわけがない。自分に言い聞かせるかのように、サイラスは心のなかで叫んだ。
(僕が必ずエミルを助け出してみせる! 必ずだ!)
森のなかをしばらく進むと、突然、視界が開けた。
ひときわ太くて大きな白い木のまわりだけ、不思議と他の木が生えておらず、ちょっとした広場のようになっている。あれが村の守り神――精霊の木なのだろう。
その巨木を照らすように左右に二本の松明が立てられ、根元には村で別れたときと同じ白い衣装を着た、ひとりの少女が縛られていた。長くて美しい栗色の髪――エミルだ。
(よかった。まだ、無事だった)
サイラスは、ほっと安堵の息を吐いた。
エミルは、広場に駆け込んできたサイラスに気づき、うなだれていた顔を上げ、閉じていた目を見開いた。翠玉色の瞳が怯えたようにサイラスを見つめる。
「……なんで、勇者さま……こんなところに!?」
「君を助けにきたんだ、エミル!」
自分に近づこうとするサイラスを拒むように、エミルはぽろぽろと涙をこぼしながら叫んだ。
「逃げてください! すぐに魔族たちが戻ってきてしまいます。ここにいたら、勇者さまも危ないです……わたしは魔族の生贄になるくらいしか、村の役にも立てないんです……わたしには……わたしには、勇者さまに助けていただけるような価値なんてないんです……!」
ここで自分が逃げ出してしまったら、怒り狂った魔族が村を襲い、大変なことになるとエミルは理解していた。
昨晩、サイラスといっしょに村から逃げるようにと母親のコロネから言われたが、それを断って自ら魔族の生贄になることを決めたのだ。
助けにきてくれたことは嬉しい。本当に嬉しい。嬉しくて涙があふれた。そんな奇跡は絶対に起こらないと、エミルはとっくにあきらめていた。
それでも……少年がひとりで魔族に挑むのは無謀すぎる、とエミルは思った。こんなところで昨日知り合ったばかりの彼が、自分のために魔族に殺される必要はないのだ。
サイラスは――この“帰らずの勇者”かもしれない記憶喪失の少年は、村とはまったく関係がない。魔族が戻ってきてしまう前にどこか遠くに逃げてほしかった。
「……逃げて…………」
敵襲を警戒しつつ、サイラスはゆっくりとエミルに近づいた。だが、自分を置いて逃げろと言うエミルに、かちんときて思わず声を張り上げていた。
「自分で自分のことを価値がないなんて言うな! 君は魔族なんかの生贄になるために生まれてきたんじゃない。外の世界だって、まだ見てないじゃないか! 君は生きたいって思っていいんだ。自由になりたい、幸せになりたいって願っていいんだ。助けてほしいって叫んでいいんだ!」
サイラスはまっすぐに、涙でぐしゃぐしゃになったエミルの顔を見つめる。
「僕には自分が本物の勇者かどうかなんてわからない。それでもっ! 君がそれを望むなら。僕はこの瞬間だけでも、君だけの勇者になってみせる! 僕が必ず君を助け出す!」
「……ゆ、勇者……さま……」
エミルのなかに生まれた小さな希望の光が、あきらめに冷たく閉ざされていた心を温かく照らす。
だが、次の瞬間、甲高い耳障りな声が、生まれたばかりの小さな光をふたたび絶望の闇で塗り潰した。
「――クケケ、威勢のいいネズミが紛れ込んでいるなァ」
エミルが縛られた巨木の裏手の森から、魚のような顔をした不気味な魔族が姿をあらわした。




