1-12 生贄
夕方になっても、エミルは戻ってこなかった。
「トリマンさん、エミルの“特別な用事”って、なんなんですか?」
「……村の用事で、隣の村まで行かせました。明日には戻ります」
トリマンは今朝までの明るさが消え、腕を組み、赤い顔で歯を食いしばっている。
思い起こせば、朝、あの村人たちが来たときから、ようすがおかしかったような気がしてくる。
コロネも心ここにあらずといった感じで、青白い顔をして、ぼうっとどこかを見つめている。
誰もひと言もしゃべらず、エミルがいないだけで家のなかから光が消え、まるで葬式のような雰囲気だった。
(エミル、どうしちゃったんだろう……)
サイラスはエミルの別れ際の表情を思い出し、不安が胸に広がっていく。居ても立ってもいられなかったが、肝心のトリマンにもコロネにも娘を探しにいこうとする素振りはなかった。
(あの泣きそうな笑顔。“特別な用事”って、いったいなんなんだ?)
そこへ、コロネが石のグラスに水を入れて、サイラスのところに持ってきた。サイラスが受け取ると、コロネの手は震えていた。
「勇者さまっ! あの子を、エミルをお助けくださいっ!」
「こっ、コロネさん!?」
コロネが泣きながら、サイラスの足にすがりついてきた。サイラスは驚いて、コロネの顔を見つめた。その表情は苦悶に歪み、必死そのものだ。
「やめんかっ!」
トリマンが怒鳴りつけたが、コロネは止まらなかった。
「あの子は……、あの子は村のために魔族の生贄にされたのです!」
「生贄!?」
(魔族!? 村のためって?)
「やめろと言ってるだろう!」
トリマンは自分の妻につかみかかろうとした。だが、サイラスが素早くその間に入り、自分よりひとまわりも大きな身体を左手ひとつで軽々と押し返した。
思わず尻もちをついたトリマンは、驚いた顔でサイラスを見上げた。
サイラスにも衝撃が走っていた――。
昨日からのエミルのようすが頭に浮かぶ。あれは、この村のために犠牲になることを決めた顔だったのだ。昨日の夜は、最後の晩餐だったのだ。
(今朝だって、無理して笑ってくれていたはずなのに、気づいてあげられなかった……)
『わたしは父さまと母さまには、とても感謝しているんです。実の子供のように大切に育ててくださって……お料理も教えてくださいました。だから、わたしにはこの村を出ることはできないんです』
(村を出られないんじゃない。生贄が必要だから逃げられなかったんだ)
『わたしは、この村と隣の村くらいしか知らないんです。もうすこしだけ、外の世界を見てみたかったですね』
(「見てみたかった」と言ったのは、もう覚悟を決めていたから……)
無意識にサイラスは、右手に持っていた硬い石のグラスを握りつぶしていた。尖った破片が手のひらに突き刺さる。流れ出る血を見て、コロネが慌ててその手を取った。
しかし、不思議なことが起こっていた――。
呆然とするコロネの目の前で、手のひらに刺さった破片はひとりでに抜け落ち、あっという間に傷がふさがってしまったのだ。
「ああ、勇者さま……」
コロネはその場にひざまずくと、まるで神に祈るかのようにサイラスに向かって、両手を胸の前で合わせた。トリマンはサイラスの前に座り込んだまま、うなだれて自分の頭を抱えた。
「しょうがなかったんです。それしか村を救う方法がなかったんです……」
「話してください。なにがあったんですか?」
サイラスがうながすとトリマンは苦しそうに、これまでのことを話しはじめた。
二日前の夕方に、魔族がこの村の南にある森にあらわれたこと。そのときに、精霊の木の前で倒れているサイラスを見つけたこと。そして、魔族が村の若い娘をひとり、生贄に要求したこと……。
「二日前に魔族があらわれたときにすぐ、ベガリア辺境伯さまに配下の騎士さまを遣わしてくださるように早馬を出してはいるんです。でも、その使者が辺境伯さまのもとに着くのに二日、騎士さまがどんなに早くても、こちらに着くのにもう二日はかかるんです……」
サイラスを見上げる初老の男の目には、涙があふれていた。
「魔族に逆らうことはできません。今晩、生贄を差し出さなければ、村人を皆殺しにすると脅されているんです……魔族にとってはこの村を滅ぼすことなど朝飯前でしょう。敵は二体いると聞いています。一体だけでも、普通の人間が十人でかかっても勝てません。あれを倒すには、少なくともスキルを持った騎士さまが五、六騎は必要なんです。だから、見ず知らずのあなたさまに助けてほしいなどとは言えなかったんです……」
トリマンはよろよろと立ち上がると、厨房の奥まで歩いてゆき、なにやら布に包まれた長いものを持って、サイラスの前に戻ってきた。
「わたしたちは、あの子を本当の娘だと思っています……ずっと、いっしょに家族として暮らしてきたんです……でも、わたしは……わたしはこれでも村長なんです。自分の娘を生贄に差し出さずに、他の家に娘を差し出せとは言えません……」
トリマンは包みをサイラスに手わたすと、膝をついて、両手と頭を床に擦りつけた。
「それは、わたしが昔、冒険者をしていたときに使っていた剣です。粗末なものですがお持ちください。エミルは南の森の精霊の木のそばにいるはずです……無茶な願いだとは承知しております。でももう、あなたさまにすがるしかありません。女神ルミナがあなたさまを遣わしてくださったのだと信じるしかないんです。勇者さま、どうか、どうか、あの子を……エミルをお救いくださいっ!」
どくん、と胸の奥が痛んだ。
『今度こそは助ける――』
どこからか、そんな声が聞こえた気がした。
サイラスは受け取った包みを解くと、鈍い銅色をした剣を握った。うずくまるトリマンの肩に一度だけ強く手を置いて、なにも言わずに家の外に駆け出していった。




