2-58 雨
煙の立ちのぼる空で、夕焼けの茜色が、すこしずつ薄れていく。エミルは胸の前で、両手を強く握りしめていた。
(サイラスくん、サイラスくん、サイラスくん……)
頭のなかで、ただただ、その名を繰り返す。
ルナは槍を地面に立てて、その柄の端を両手で握り、燃える森の奥を見つめていた。青い目には、普段の澄ました色はなく、ただ、静かな心配だけが揺れている。
カレラは、尻尾を左右に揺らしながら、エミルの前を行ったり来たりしていた。
「ううう、サイラスは大丈夫かな……」
「待ちましょう。サイラスくんなら、必ず、無事で戻ってきます」
エミルが、自分自身に言い聞かせるように、小さくつぶやいた、そのときだった。
森の入口の暗がりから、複数の足音が聞こえ、緑のマントを羽織った長い耳の一団があらわれた。
先頭のひとり、エルフの女戦士は、肩から血を流している。もうひとりは火傷を負い、仲間の腕を借りて、引きずられるように歩いている。さらに後ろから、小さな子供を背負ったエルフが続く。次々と何人ものエルフが森から追われるようにして出てくる。
「だ、大丈夫ですか!?」
エミルは、とっさに駆け寄ると、怪我をしているエルフに手を貸した。
「あ、ありがとう……人族の、お嬢さん……」
肩を負傷したエルフが、かすれた声で返した。その瞳は、自分が逃れてきた紅蓮の炎を、ひどく恐れている。
「治療を手伝おう」
ルナが、地面に立てていた槍を引き抜き、エミルのところに歩いてきた。
「重い傷の者から、こちらへ運んでくれ。私が癒やす」
エミルがエルフの女戦士を横たえると、ルナがその傍らに膝を折り、両の手のひらを肩口に、かざした。
白い光が、ルナの手のなかで生まれる。
光は、淡い羽根のように、傷口にふわりと舞い降りた。裂けていた皮膚が、ゆっくりと縁を寄せ合い、肉が織り直されていく。
「……っ!?」
息をのむ声が、いくつも重なった。駆けつけてきた数人のエルフが、目を見開いて、ルナの手元を凝視している。
「魔導人形が……神聖術を使っているぞ……?」
「そんな話、聞いたこともない……!」
エルフたちの間に、動揺のざわめきが起きた。だが、その喧騒を割るようにして、ひとりの女エルフが悠然と姿を見せた。すらりと高い背に、風になびく新緑を溶かし込んだような金色の長髪――フルリーヌだ。
「……ルナ、あなた」
普段は涼やかなフルリーヌの声が、わずかに震えていた。
「神聖術まで、使えたのですか……?」
ルナは、光を負傷者の肩から離さないまま、ちらりと、エルフの賢者を見上げた。
「私は、サイラスを守り、その傷を癒やすために造られた。それが、私を造ったニーナから託された私の使命だ」
「……ニーナ」
フルリーヌは、四百年前にいっしょに旅をした仲間を思い返した。白い包みの盾を膝に抱きながら、真紅の瞳をきらりと光らせて宣言した、あの少女の姿が、いまも、エルフの賢者の胸の奥に、はっきりと残っている。
『最高の魔導人形を、創ります』
深緑色の瞳が、柔らかく潤む。
「ニーナは、私の想像をはるかに超えて、最高の魔導人形を創ったのですね」
ルナの口元が、ほんのすこしだけ、誇らしげに緩んだ。
◇
その光景を、エミルは、何度も森のほうに視線を戻しながら、見つめていた。逃げてくるエルフたちの顔を、ひとり、またひとりと、確かめていく。
(エルフたちのなかに、サイラスくんはいない)
胸の奥が、ぎゅうっと締めつけられる。
翠玉色の瞳が、不安に潤みかける。森の暗がりの奥から、それまでとは違う、重い足音が近づいてくる。
「……あれ、は……っ」
エミルは、とっさに立ち上がった。
夕闇のなかから、燕尾服の長身の男が、姿を見せた。胸に赤い髪の少女を、まるで壊れ物のように、抱きかかえている。その肩に金色のフクロウが、澄ました顔でとまっていた。
「マルバンさん! パールさんっ!」
「ラツィっ!?」
エミル、カレラ、そしてルナが、いっせいに駆け寄った。
マルバンの腕のなかで、ラツィは、目を閉じていた。長い赤い睫毛が、ぴくりとも動かない。風に流される真紅の髪先だけが、生き物のようにふわりと揺れている。
「ラツィ……ラツィ?」
エミルが、顔を近づける。
「……起きません。マルバンさん、これは……」
「お眠りになっているだけであります、エミル殿」
マルバンが、普段よりもいくぶん疲れた声で、それでも穏やかに答えた。
「サイラスが、スキルで眠らせてくれたのだ」
パールが、執事の肩の上からエミルを見下ろした。
「サイラスくんが……? ……サイラスくんは、いま、どこに?」
「森に残った。私たちに、姫さまを連れて先に行けと」
その金色の瞳が、ちらりと煙の奥へ向けられる。
マルバンは、まるで赤子を寝かしつけるように、丁寧に、ラツィを地面に下ろした。その仕草を、エミルは息を止めて見ていた。目の奥が、じんわりと熱くなる。
「よかった……本当に、よかった……」
ルナが膝を折って、白い手をラツィの胸元に、ふわりとかざした。淡い光が、ひとなでして、すぐに消える。
「服は破れているが、身体に、ひどい傷はない。マナがすこし枯れている程度だ。眠っているうちに、戻るだろう」
すこし離れた場所で、エルフのひとりが悲鳴のような声を上げた。
「空が……っ!」
エミルたちは、はっとして、空を見上げた。
いつの間にか、空が変わっていた。頭上に残っていた夕焼けの茜色が、見たこともない速さで、その鮮やかさを失い、ずっしりと重たい、灰色の雨雲に塗り替えられていく。
――ぽつり。
冷たい雫が、エミルの頬をなでた。
――ぽつり、ぽつり、ぽつり。
それは、たちまち音を立てる雨へと変わり、雨はざあぁ、と、容赦なく勢いを増していった。激しい雨が、燃える森に、惜しみなく、注ぎ込まれていく。
「火が……火が、消えていくぞっ!」
森の入口にいたエルフが叫んだ。
木々の向こうで赤々と照っていた空が、みるみるうちに暗くなっていく。森のあちこちから、もうもうと湯気の柱が立ちのぼった。エルフたちは息をのみ、互いに顔を見合わせ、それから堰を切ったように歓声を上げた。
「森が……森が、助かるっ!」
「ああ、なんてことだ、雨が……っ!」
ひとりのエルフが、地面に膝をつき、両手で顔を覆って、肩を震わせた。
フルリーヌだけが、しばらく、無言で空を見上げていた。雨に濡れる金色の髪の隙間から、唇が小さく動く。
「……サイラス」
フルリーヌは、両手を胸の前で組み、雨の降り注ぐ森に向かって、ゆるやかに深く頭を下げた。そのようすに気づいた他のエルフたちも、それに倣って頭を垂れた。
「勇者さま、ありがとうございますっ!」
「勇者サイラス、勇者サイラス!」
雨と煙のなか、森を守る人々の感謝の合唱が、しっとりと夕闇に溶けていく。エミルは、胸が温かくなるのを感じた。
(サイラスくんは、こんなにもたくさんの人を助けて……)
誇らしさで、視界がぼやけそうになる。そのすぐ横で、フルリーヌの表情がかげるのをエミルは見た。
「……フルリーヌ、さま?」
エミルが、おそるおそる声をかける。
フルリーヌは、空を仰いだまま、首を横に振った。
「……森ひとつぶんを、雨で塗り潰すような大きなスキルを……サイラスは、いままでに、いくつ使ったでしょう」
「えっ……」
「私たちのもとへ駆けつけるとき、彼はおそらく、転移のスキルでみなさんを運んだ」
「は、はい……一瞬で、ここまで……」
(そういえば、あのとき、サイラスくん、額を押さえて……)
「……そして、ラツィの黒いユニコーンと戦い、彼女を眠らせ……今度は、これほどの広範囲に雨を降らせている」
エルフの女賢者の深緑色の瞳が、暗くなっていく空のずっと奥――森の中央のほうへと、注がれた。
「サイラスはいま、自分のマナを、ほとんど使い切っているはずです……」
「マナを……」
エミルの胸の鼓動が、急に大きくなった。
「フルリーヌさま、それじゃあ……」
「ええ。あの森のなかには、まだ、第一魔将がいます」
千年を生きた声に、抑えきれない焦りが、ひと筋にじんだ。
「サイラスは、いまからマナの尽きかけた身体で、ベタクロフと向き合うことになるでしょう」
雨音だけが、ふたりの間を、ざあぁと満たした。
エミルは、両手で自分の口を覆った。
(そんな……サイラスくん、サイラスくん……)
翠玉色の瞳から、こらえようとしてもこらえきれないものが、ぽろぽろと、雨に紛れて、地面に落ちていった。
「記憶喪失勇者」2-58を読んでいただき、本当にありがとうございます!!
さいらすと申します。
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※『勇者レギウス ~最弱勇者と最強従者~』という小説も書いています。
※本編の800年前のお話です。
※リンクはあとがきの下にあります!
挿絵をChatGPTに描いてもらいました!
※この小説は執筆に一部、AIを使用しています。
・自身で執筆した文章をAIに改変させているが、再度全て自分で編集・改稿
・自身で執筆した文章の誤字・脱字チェック




