2-56 ヒュプノス
「我ごときの力では、姫さまを止められないのであります……。かといって、この爪を姫さまに向けるなど……」
マルバンが、ぎり、と牙を鳴らした。漆黒の前脚が、震えている。
「――サイラスっ!」
別の方向から、よく通る女性の声がした。緑がかった金色の髪に長い耳。風そのもののように軽やかに、サイラスに向かって駆けてくる。
「フルリーヌ!」
「やっと来てくれましたか。魔族の姫は、第一魔将のスキルで魅了されてしまいました……。私たちの呼びかけにも、応えてくれません……」
真っ白なエルフの頬を、煤と汗が伝っていた。
「フルリーヌ、エルフのみんなを、安全な場所まで下げてくれ。後は、僕がやる」
「しかし……」
「みんなと約束したんだ。ラツィとセフィを、必ず連れて帰るって」
フルリーヌは、サイラスの目をじっと見た。やがて、エルフの賢者は静かにうなずいた。
「……わかりました。あなたを、信じます」
フルリーヌは身をひるがえし、凛とした声を森に響かせる。
「エル・フの戦士たちよ、森の外まで下がりなさい!」
サイラスは、炎の中心へと駆け出した。
◇
赤い髪が、熱風に揺れている。
「ラツィ!」
小柄な魔族の美姫が、ぎこちなく振り返る。虚ろな金色の瞳が、サイラスを捉えた。その瞬間、表情のなかった顔に、ぴくり、と苦悶がよぎった。
「……あ……」
赤い唇が、震える。
「……あ……るじ、さ……ま」
「……き……ては……だ、め……です……」
ラツィは、両手でこめかみを押さえていた。魅了にあらがっているのだ。
「待ってて。すぐに、助けるから」
しかし――。
「ああぁぁぁぁぁぁぁぁぁッ!」
聞いたことのない、低く歪んだ声が、ラツィの口から放たれた。
黒いユニコーンたちが、一斉にサイラスへと突進してきた。鋭い角の先から、白い炎が噴き出す。その熱だけで、そばの木々がたちまち燃え上がった。
サイラスは、剣を抜かなかった。ただ、両手を軽く広げ、一歩前へ出る。
ぼうッ、と、白い炎がサイラスの全身を包んだ。だが――燃えない。
頭のなかに、ぼんやりと知識が浮かんでくる。
(僕には、燃焼無効のスキルがある……)
以前、ラツィと戦ったときに手に入れたスキルが、いま、サイラスを守っていた。そして、もうひとつ。
(《灼熱の騎士》のスキルそのものを、無効化できる……)
サイラスは、右手をぐっと握りしめた。
瞬間、角の炎がふっと消えた。黒いユニコーン像の輪郭が揺らいだかと思うと、六体とも、跡形もなくかき消える。
「――……っ!」
スキルを消されたと悟ったのか、ラツィの目に殺意がともる。赤髪の少女は爪を剥き出し、獣のようにサイラスへ襲いかかった。普段の優雅な姿からは、想像もできない動きだった。
(魅了を解くスキルは……ない。上書きできる勇者のスキルは、封印されている……)
鋭い爪が、目の前に迫る。
「ラツィ……」
サイラスは握っていた右手を開き、すっと彼女へ突き出した。
「――《神寂眠》」
手のひらから、銀色の霧のような光が、ふわりと広がった。飛び込んできたラツィが、まともにその光を浴びる。
「……ぁっ……」
足が止まる。金色の瞳が、ゆっくりと閉じていく。襲いかかろうとした手が、力なく垂れた。細い身体が、前のめりに崩れる。
サイラスは、その身体を抱き留めた。赤い髪が、サイラスの肩にかかる。
寝息が聞こえた。穏やかで、落ち着いた寝息。
(よかった。寝てくれた)
「姫さまっ!!」
「ご主人さま……っ!」
そこへ、パールと、人の姿に戻ったマルバンが駆け寄ってきた。
「ひ、姫さまは……ご無事なのでありますか!?」
「大丈夫。眠ってるだけだよ」
マルバンが、ほうっと長い息をつく。その目元が、すこし濡れていた。
「マルバン、ラツィを森の外まで運んでくれ。エミルたちが入口で待ってる」
「かしこまりましたであります……!」
黒ずくめの執事は、魔族の姫をサイラスから丁寧に受け取り、両腕で抱きかかえた。
マルバンの肩にとまり、パールが声を張り上げる。
「勇者サイラスっ!」
(パール、初めて僕の名前を呼んだ……)
「姫さまを助けてくれて、本当にありがとう……ありがとう……」
マルバンは姫を守るように胸に引き寄せ、サイラスに深々と一礼すると、煙のなかを駆け出した。
走る執事の肩の上で、パールがこちらを振り返る。
「サイラスっ! 気をつけてくれ、奴は、ベタクロフはすぐ近くに潜んでいる!」
「記憶喪失勇者」2-56を読んでいただき、本当にありがとうございます!!
さいらすと申します。
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※『勇者レギウス ~最弱勇者と最強従者~』という小説も書いています。
※本編の800年前のお話です。
※リンクはあとがきの下にあります!
挿絵をChatGPTに描いてもらいました!
※この小説は執筆に一部、AIを使用しています。
・自身で執筆した文章をAIに改変させているが、再度全て自分で編集・改稿
・自身で執筆した文章の誤字・脱字チェック




