1-10 ルルドの村
翌朝、サイラスが床で目を覚ますと、すでにベッドのなかにエミルの姿はなかった。
質素な板張りの壁を見まわすと、昨日のことが夢ではなかったのだと実感が湧いてくる。
一晩たったが、サイラスは自分のことをなにも思い出せなかった。
(本当にこれからどうしよう。いつまでもなにもしないで、この家の世話になるわけにもいかないだろうし。居酒屋で皿洗いでもさせてくれるかな?)
などと考えながら、部屋を出て階下に降りていくと、朝からトリマンは明るく、コロネも昨夜のことは忘れたかのように穏やかなようすに戻っていた。
「勇者さま、昨夜はよくお休みになれましたか?」
コロネににこやかに尋ねられ、サイラスは飲みかけのスープにむせた。斜め向かいで、エミルがスプーンを取り落とす。
「は、はい……おかげさまで」
(いまの質問、絶対に深い意味があったよね……?)
昨日の晩餐の残りで朝食をとった後、エミルが村を案内してくれることになった。
ちょうど村長の家にやってきたふたりの村人とすれ違いに、サイラスたちは家を出た。
◇
エミルは昨日とは打って変わって、真新しい白い服に身を包んでいた。
清楚な雰囲気の彼女にはすこし大胆すぎる胸元の開きと、身体のラインを際立たせるデザインが、抜群のスタイルを一層引き立てている。
どこかの貴族の令嬢だと紹介されれば信じてしまいそうなほど、よく似合っていた。
(エミルめっちゃ可愛いな。やっぱ天使かも)
サイラスは隣を歩くエミルをちらりと見て、心のなかでつぶやいた。
にこにこ微笑む彼女と並んで歩いていると、なんだか“デート”みたいだな、と思わず感じてしまう。
記憶を失ったサイラスには自分が何者か、過去になにをしてきたのかはわからない。
それでも、物の価値を見抜く知識までは失われていなかった。この服の素材が上質なものだとひと目でわかる。
そして、この世界の人間には通じないような不可思議な単語も、なぜだかたくさん知っていた。“デート”もそのひとつだ。
「どうしたんですか、勇者さま? そんなに見つめて。わたしの顔になにかついてますか?」
エミルが白い頬をほんのり桜色に染め、春の花のような笑みを向けてくる。
(うおっ、ただ見惚れてただけ、なんて言えない)
内心で慌てつつ、サイラスはごまかすように答えた。
「い、いや、今日はおめかししてるんだなって思ってさ」
「これ、似合ってますか? 今日は後で、“特別な用事”があるんです。ですので、母さまが新しい服を用意してくださったんです」
「特別な用事?」
サイラスが首をかしげると、エミルは答えずにふわりと微笑んだ。
自分のためにおしゃれをしてくれたわけじゃないと知って、すこし残念だったが、それでも、昨晩の沈んだ表情とは違い、今日は楽しげなエミルに、サイラスも自然と笑みがこぼれた。
(昨日のコロネさんの話は解決したのかな?)
ふと、エミルの泣き顔が脳裏をよぎったが、彼女にもなにか事情があるのだろう、とそれ以上、深く考えるのはやめた。
こうやって話してみると、エミルは見た目だけでなく、性格も優しくて穏やか――まさに癒やし系の美少女だった。
エミルの村――ルルドの村は、こぢんまりとした農村だ。
一番近い街からも、かなり離れた本当の田舎で、人口は百人もいない。
井戸のある小さな広場を中心に、三十軒ほどだろうか、平屋の民家が立ち並び、周囲を耕作地が囲んでいる。
さらにその先には深い森が広がっていた。
この辺りは温暖で雨の少ない気候だが、井戸と森から流れる小川のおかげで水には困っていないらしい。
畑では自分たちで食べる野菜の他、ぶどうなどが育てられ、ワインなんかも作られているそうだ。
村で唯一の二階建ては、トリマンの居酒屋兼集会所で、広場に面したその建物は遠くからでも、とても目立っていた。
これといって特別なものがあるわけでもなかったが、エミルに案内されながら、のんびりと村のなかを歩くのは、サイラスにとって妙に心地よかった。
エミルの鈴のような声がなぜだか懐かしく、聞いているだけで記憶のない不安が薄れていく気がする。
ただひとつ気になったのは、外を歩く村人がほとんど見当たらないことだった。
(人口が少ないから、すれ違う人がいないのも当たり前……なのかな?)
サイラスは自分を納得させたが、なぜか胸がざわついた。
「この村は、四百年前まではベガリア王国の一部だったそうなんです。わたしは、そんな遠くにまで行ったことはないんですけど、南の森を抜けて、ずっと行ったところには、ベガリス城の廃墟があるそうですよ」
「行ってみたいの?」
エミルが翠玉色の瞳を細めて、優しく笑う。
「わたしは、この村と隣の村くらいしか知らないんです。もうすこしだけ、外の世界を見てみたかったですね」
「まだ、これからだって行けるんじゃない?」
サイラスの問いに、エミルは柔らかな笑みを浮かべただけだった。
サイラスはちょっと引っかかったが、エミルはなにごともなかったかのように村の案内を続けた。
「この村には、四百年前に勇者サイラスさまが、ベガリス城へ向かう途中で立ち寄ったという伝説が残っているんです。広場の井戸は、勇者さまが剣を突き刺したところから湧いてきたといわれていて、『勇者の井戸』と呼ばれているんですよ」
「へえ、勇者の井戸か。すごいね」
「でも、そういう話は、この辺の村にはよくあって、本当かどうかはわからないんですけどね」
エミルが恥ずかしそうに笑う。
「勇者サイラスか……」
(四百年も前のことだから、もう伝説の人物なんだろうけど。実在したかどうかも、ちょっと怪しいんじゃないのかな……)




