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海辺の聖母  作者: 神井


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第五話 還るべき場所



 澪は、その場に凍りついたように固まってしまった。

 視線は、ドンと目の前に突きつけられた、二十五年前のアルバムのページに釘付けになっている。

 そこに写る、白い修道服を着た美しい少女。

 間違いない。彼女もまた、あの劇のヒロイン特有の、すべてを諦め、すべてを許したような「あの顔」で微笑んでいる。

「九条さんの、叔母さん……」

 二人の間に、数秒の、ひどく冷たい沈黙が流れた。

 旧資料室の空気は淀み、カビの匂いが急に濃くなったように感じられる。澪は喉の渇きを覚えながら、かろうじて次の言葉を絞り出した。

「叔母さんは、今……どこにいらっしゃるの?」

「死んだわよ」

 華蓮は、澪の言葉を遮るように、突きつけるような声で言った。

「えっ……」

「だから、死んだのよ! 『海辺の聖母』を演じた後、卒業前にね!」

 呆然とする澪の顔を、華蓮は激しい嫌悪と、それを遥かに凌駕する恐怖の入り混じった瞳で見つめ返した。一度堰を切った彼女の言葉は、もう誰にも止められなかった。澪の胸元に、言葉の刃を投げつけるようにまくしたてる。

「元々、白血病だったみたいだけどね。でも、死ぬ直前に、叔母はなんて言ったと思う? ――『私の灰を、マルセイユの海に撒いてね。ずっと、そこに行きたかった気がするの』って」

 マルセイユの、海。

 理事長が唱えた、あの地中海の国々の名前が、澪の頭の中で歪な音を立ててリフレインする。

「病室のベッドの上で、うわ言みたいにそれを繰り返して、そのまま死んだって! マルセイユなんか一度も行ったことないし、縁もゆかりも無いのに!」

 澪はただ、呆然とすることしかできなかった。

 あまりの衝撃に頭が追いつかない。華蓮の肩は、激しく上下に揺れていた。彼女の完璧に整えられた前髪の隙間から、大粒の冷や汗が流れている。

「気味が悪いのよ! あの役も、あの劇も!」

 華蓮はそう吐き捨てると、澪の前に置かれたアルバムを乱暴に閉じ、棚へと押し戻した。

 そして、逃げ出すかのように、ズカズカと大きな足音を立てて資料室を去っていった。

 バタン、と激しく閉まった扉の音が、古い部屋に虚しく響く。

 澪は自分の指先を見つめた。小刻みに震えている。

 華蓮の叔母を襲った悲劇。それは、白血病という病の形を借りてはいたが、魂は完全に『海辺の聖母』に、――あの地中海に飲み込まれたのではないかと良からぬ想像をしてしまう。

——真帆は……真帆はどうなるの?

 真帆は病気ではない。健康で、太陽のようにエネルギーに満ちている。

 けれど、あの無邪気で穢れのない彼女の魂が、もしも劇の終わりとともに「あちら側」へ引きずり込まれてしまったら。

 窓の外では、またじっとりと湿った風が吹き始めていた。

 舞台の本番は、もう目の前に迫っている。

 


**



 本番を二日後に控えた放課後。

 旧講堂の二階席は、照明が落とされ、ひんやりとした暗闇に包まれていた。

 澪は二階席の最前列の手すりにすがりつくようにして、眼下の舞台を見下ろしていた。

 舞台上では、本番さながらの衣装をつけた部員たちが、最終リハーサルの真っ最中だった。

 中央には、澪が仕立てた純白の修道服を着た真帆が立っている。

 その姿は、一階席の後方からでもはっきりと分かるほど、異質な輝きを放っていた。真帆が言葉を発するたび、講堂の空間そのものが、じわじわとあちら側の海に侵食されていくような錯覚を覚える。

「いよいよね」

 背後から、衣擦れの音とともに、低く気品のある声がした。

 振り返ると、シスター・エレナが音もなく澪の隣に立ち、一階の舞台へ視線を向けていた。ベールの奥の老いた瞳が、ステージの光を反射して光っている。

「そうですね……」

 澪は喉の奥を湿らせながら、一度舞台から目を離し、シスターの横顔を見つめた。

 今、この人に聞かなければ、もう二度とチャンスはないかもしれない。澪は震える声を抑え、静かに問いかけた。

「……あの、藤堂先生なら、ご存知ですよね。九条さんの、叔母さまのこと」

 その名前を出した瞬間、シスター・エレナの穏やかだった瞳が、かすかに、悲しげに揺れた。深く刻まれた目元の皺が、一瞬だけ痛々しく歪む。

「ああ……玲子さんね。可哀想なことだったわ」

 シスター・エレナは深く息を吐き出し、胸の十字架にそっと手を置いた。

「でも……仕方なかったのよ。病気だったから」

 「仕方なかった」。澪は、シスター・エレナの言葉の裏にある「冷たさ」に、背筋が凍るのを感じた。

 シスターにとって、玲子の死は「悲劇」ではあっても「異常事態」ではなかったのだ。まるで、病気という運命すら、当然のプロセスであったかのような口ぶりだった。

「彼女ね、本番のときも体調不良を押して舞台に立ったのよ。この役だけは代役が立てられないのを知ってたから」

「代役が……立てられない?」

「ええ。不思議なことに代役を立てようとすると毎回上手くいかないの」

 シスター・エレナは淡々と述べたが、それがいっそう澪の不安を掻き立てた。

「上手くいかないって……?」

「さあ。どうしてからしらね。昔からそうなのよ。玲子さんのときもね、彼女体調が優れなかったから、美術係の子を代役にしようとしたの。台本覚えてたから。でも、その子絵画のコンクールで入賞して表彰式がちょうど創立記念日と重なってしまったのよ。結局玲子さんが舞台に立ったわ。不思議と毎回そんな風に噛み合わないのよ」

 澪はもう何も言えなかった。これ以上踏み込んではいけない気がした。二人の間にしばし沈黙が流れる。

「見てごらんなさい、高瀬さん」

 シスター・エレナは、再び一階の舞台へと視線を戻し、真帆を指さした。

「あの子を見なさい。あの役を生きているあいだ……彼女たちは、あの場所で、本当に幸福なの」

 舞台の上で、真帆が海に向かって両手を広げ、祈りのポーズをとる。

 その姿は、恐ろしいほど神々しく、そしてやはり――人間の生気が完全に抜けた「あの顔」をしていた。

「あの子は見つけたのよ。自分が還るべき場所を」

 シスター・エレナの呟きは、もはや澪に向けて放たれたものではなかった。六十五年前に同じ場所で「海辺の聖母」を演じ、今もなおこの学校という苗床を守り続けている老女の、確信に満ちた言葉だった。

 澪は、激しい目眩を覚えた。

 引き止めなければならない気がした。でも、どうやって?

 舞台の上の真帆は、もう澪の手の届かない、遠い地中海の波音に耳を澄ませている。

 



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