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海辺の聖母  作者: 神井


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第四話 同じ顔


 最後の通し稽古が終わり、部員たちが片付けを始める。だが、真帆はまだ舞台の上で、感慨深げな表情を浮かべていた。

「やっぱり、主役って違うね」

 駆け寄った澪に、真帆は目をきらきらと輝かせて言った。

「自分が舞台全体を引っ張っていると思うと、すごくわくわくするの。劇場とひとつになれているような……そんな気がする」

「……うん、真帆の演技、本当に凄かったよ」

 澪は心の底からそう答えた。しかし、真帆の放つ「熱」のようなものが、どこか現実離れしているようにも見えて、胸が小さく脈打つ。

「バッカみたい! そんな地味な役で舞い上がっちゃって!」

 冷水を浴びせるような鋭い声が、舞台の下から響いた。

 片付けをしていた華蓮が、真帆をきつく睨みつけていた。その顔は嫌悪と、それから妙な焦燥でこわばっている。

「そんな華のない陰キャ芝居で、感動する人なんていないわよ! 勘違いしないで頂戴!」

 激しい言葉だった。だが、言われた真帆は傷つく風でもなく、ただキョトンとした顔で華蓮を見ている。そのあまりに無防備な様子を見て、澪はたまらなくなり、真帆の袖を引いて小声で囁いた。

「真帆、九条さんの嫌味なんて気にしないで! 」

 真帆は澪に向けて、無言で優しく微笑みかけた。

 それから、再び華蓮の方に視線を戻すと、今度はにこりと、弾けるような笑顔を見せたのだ。悪意をすべて吸い込んで無効化してしまうような、そんな笑顔だった。

「そうかな? 私、この役すごく好き。初めての主役がこの役で、本当によかったと思っているわ」

「な、何よそれ……!」

 華蓮の声が、一段と高く、ヒステリックに裏返った。階段を駆け上がるようにして真帆に迫り、言葉をまくしたてる。

「だって、ただ世の中のために地味な仕事をして、最後は祈るだけの役でしょ!? 暗すぎてダサすぎてしょうもないわ! 何が伝統よ、何が主役よ! 馬鹿馬鹿しい!」

 それでも、真帆の笑顔は崩れなかった。

 怒ることも、言い返すこともせず、ただ静かに華蓮の言葉を受け止めている。

 その姿は、劇中でどんなに罵倒されても微笑んでいた、本物の聖人そのものだった。

 澪は、息が止まりそうだった。

 今の真帆には、華蓮の棘だらけの言葉すら、届いていない。

 世界から一段高い場所に、一人で昇ってしまったかのような真帆の様子に、澪は言葉にできない冷たい不安を覚えていた。


 **


 その夜。

 激しい雨はいつの間にか止み、窓の外には不気味なほど静かな夜が広がっていた。

 澪はベッドの中で、仰向けのまま天井を見つめていた。

 頭の中を占めているのは、真帆のことばかりだった。

 ——九条さんは、どうしてあんなに攻撃的なのだろう。

 誰も自分を主役に投票しなかったから? 

 いや、華蓮自身も彼女には投票してないのだから、その理屈は通らない。

 まるで、華蓮はあの役に近づくこと自体を、本能的に恐れているかのようだ。

 けれど、それ以上に澪の心を支配していたのは、真帆への、重く濁った感情だった。

 真帆なら、あの「海辺の聖母」を見事に演じきってしまうだろう。本番の日、観客は全員、真帆の圧倒的な聖性に涙を流し、感動するはずだ。

 真帆はそういう女の子だ。カーストで固まったマルタの中で、孤独だった自分をあっさりと救い出してくれた、救世主だった。

 ——私は、そんな真帆だから、好きなのに。

 誰にも見向きされなかった自分を見つけてくれた、特別な真帆だから、こんなにも愛おしいのに。

「……嫌だ」

 澪は布団を首元まで引き上げ、小さく身をよじった。

 そんな真帆だからこそ、今は怖くてたまらない。

 あの全会一致の投票。

 劇の背景を見て「違う」と呟いた真帆の声。「鐘楼はもっと高かった」と言った、あの無自覚な瞳。

 真帆が、自分の知らない「海辺の聖母」という怪物に、毟り取られていってしまうような気がする。

 自分を置いて、二度と手の届かない、遠いところへ行ってしまうような気がしてならない――。

 暗闇の中、澪は新調した真帆の衣装の、滑らかな白い布の感触を思い出していた。

 真帆を誰にも渡したくない。マルタの閉鎖的な空気からも、あの劇からも、地中海の謎からも、守りたかった。それが友情という奇麗な言葉では収まらない、歪な執着だと分かっていても、澪は祈らずにはいられなかった。

 本番なんて、来なければいいのに、と。


 **


 翌日の放課後、澪は稽古中の軽食を買いに、地階の購買部へと足を運んでいた。

 パンの棚を眺めていると、すぐ近くから聞き覚えのある高めの声が響いてきた。

「ねえ、華蓮最近、ちょっと気が立ってて怖くない? 『海辺の聖母』の稽古が始まってから、ずっとピリピリしてるじゃん」

 声の主は、華蓮の取り巻きである糸田麻衣だった。隣には同じく取り巻きの尾崎百合香もいる。彼女たちにとって、地味で目立たない衣装係の澪など、ただの背景と同じだった。澪に視線すら向けず、二人は井戸端会議を続ける。

「そういえば華蓮さー、昔から『海辺の聖母』の話になると、急に不機嫌になるよね。今回の投票のときだってさ、『あんたたち、今回ばかりは私に入れたらタダじゃおかないからね』なんて、すごい顔で脅してきたしさあ」

「ね。いつもは『絶対私が主役よ! 私を推薦しなさいよね!』ってうるさいくせに。本当、意味分かんない」

 尾崎がけらけらと笑う。

 二人が購買から出ていっても、澪はその場から動けなかった。

 ——九条さんは、本当にやりたくなかったんだ……。

 不思議な、そして冷たい感覚が胸に広がる。

 プライドが高く、常に真ん中にいなければ気が済まないあの九条華蓮が、周囲を脅してまで頑なに拒否した役。

 そして結果は、全会一致で朝倉真帆だった。

 あの投票用紙を握った瞬間、部員たち——我の強い華蓮さえも、何かに操られるようにして「真帆」の名を刻んでしまったのだ。

 純粋な疑問と同時に、背筋に冷たいものが込み上げてきた。やはりあの劇には、人間の意志など容易くねじ伏せる「得体の知れないもの」があるのだ。  



 **



 また別の日。

 澪は吸い寄せられるように、再び旧資料室へ向かっていた。

 真帆のためにも、やはりあの劇についてもっと調べなければならない、という焦燥感に突き動かされていた。

 薄暗い部屋で、過去何十年分もの卒業アルバムを、狂ったようにめくり続ける。ただ、三年に一度現れる「海辺の聖母」の記録を見るためだけに。

 昭和、平成、そして令和。

 ページをめくる澪の指先が、ある不気味な事実に気づいて止まった。

 ——みんな、同じだ。

 元々の顔立ちも、体型も、雰囲気もそれぞれ違うはずなのに。写真に写る歴代のヒロインたちは、皆、恐ろしいほど「同じ表情」をしていた。

 同じ役を演じているからか? 違う。もっと深いところが同じなのだ。

 すべてを見通し、すべてを諦め、けれどすべてを許しているような、あの血の通わない聖女の顔。真帆が時折見せる、あの無敵の笑顔と同じものが、何十年も前から写真の中で凍りついていた。

「何をそんなに、夢中で調べてるのよ」

 背後から突き刺さるような声がした。

 振り返ると、入り口に華蓮が立っていた。相変わらず、棘のある、高慢なお嬢様の口調。

「こんなところ、何も面白くないでしょう。ただ色褪せたアルバムがあるだけじゃない」

 いつもなら、澪は黙って俯き、その場を去っていただろう。幼稚舎から同じマルタ育ちとはいえ、カーストの頂点にいる華蓮に、底辺の澪が話しかけることなど一度もなかった。

 けれど、今、澪の胸を焦がしているのは、真帆を失うかもしれないという切実な恐怖だった。

 澪はアルバムを抱えながら真っ直ぐに華蓮を見つめ返した。

「ねえ、九条さん。あなた、糸田さんや尾崎さんに『今回ばかりは私に投票したらただじゃおかない』って言ったんだって? ……なぜなの? いつもは『絶対私を主役に推薦してよね』って言ってるんでしょ?」

 初めて、澪は華蓮のプライベートな領域に踏み込んだ。

 華蓮は一瞬、弾かれたように目を見開いた。驚きと、それからすぐに、苦い泥を飲んだような顔をして、きつく唇を噛み締めて黙り込んだ。

 そんな華蓮を見るのは初めてで、澪は思わずたじろぐ。

 重苦しい沈黙の中、華蓮はゆっくりと棚に近づくと、一冊の卒業アルバムを乱暴に引き抜いた。約二十五年ほど前のものだ。

 華蓮は無言でページをめくり、あるページを開くと、ドン、と大きな音を立てて澪の前に叩きつけた。

 色褪せた荒い画質の写真が並ぶのページの中、白い修道服を着て、あの「同じ顔」で微笑む一人の美しい少女が写っていた。その少女は——雰囲気こそ違うが、顔立ちや背格好はどことなく華蓮に似ていた。

「この人は?」

 澪は写真に視線を固定したまま尋ねた。

「私の叔母よ」

 低く、掠れた華蓮の声が、静かな資料室に響いた。




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