第三話 境界線を越える者
夕暮れ時の部室は、茜色の光が斜めに差し込み、長い影を床に落としていた。
澪は一人、作業机に向かい、真帆が着る白いドレスのレース部分に静かに針を通していた。
ガサリ、と部室の扉が開く。
「ああ、九条さん。お疲れ様。ごめんね、九条さんの修道院長の衣装、まだアイロンがけが終わっていないのよ」
入ってきた華蓮に向けて、澪は作業の手を止めずに声をかけた。
華蓮の役は、ヒロインに対してやや批判的で厳格な修道院長だ。
普段の彼女なら「私の衣装を後回しにするなんていい度胸ね」とでも言い放つはずだった。
しかし、華蓮はすぐには返事をしなかった。数秒の、奇妙に重い沈黙が部室に流れる。
「……私、『海辺の聖母』に選ばれなくて、つくづく良かったと思うわ」
低く、押し殺したような華蓮の声に、澪はハサミを置いた。
振り返ると、華蓮は部室の窓辺に立ち、夕日に染まる校庭を腕を組んで見下ろしていた。その横顔には、いつもの高慢さはなく、どこか痛々しいほどの強張りが張り付いている。
「どうして? 九条さんは主役常連でしょう。今回も、本当は主役がよかったんじゃないの? なぜ真帆の名前を——」
「なぜ真帆の名前を書いたの」、澪はそう尋ねようとした。しかし、本当は分かっていた。自分もそうだったように、きっと華蓮も誰に投票したか記憶がないのだ。
「そりゃ、主役じゃなきゃ嫌よ。いつだって私が真ん中に立つべきだわ」
華蓮はきっぱりと言い放ち、それから、ゆっくりと澪の方を振り向いた。その瞳が、微かに怯えを孕んで揺れている。
「でも、この劇だけは嫌。――『海辺の聖母』だけは絶対に嫌だった! こんな陰気で地味でいかにも陰キャのためにあるような役!! それにあの役をやった人たち皆変になるじゃない!……あんたも分かるでしょう? 幼稚舎からここにいるんだから!」
「……何を、そんなに気にしてるの? 『変になる』って何?」
澪は努めて冷静に返したが、華蓮の言葉を強く否定することはできなかった。母の動揺、祖母の記憶、そして理事長の言葉。澪自身、あの劇に漂う異様さに、もう気づいてしまっている。
「…………あの劇は、何かがおかしいのよ。朝倉さん、最近変だと思わない? 完璧に演じていると言えば聞こえはいいけれどね。やっぱりあんな辛気臭い役をやってると本人まで影響を受けるんだわ」
華蓮の指摘は、澪が一番目を背けたかった事実だった。
「ただの役作りよ。真帆は、女優になりたいんだから」
「そう思いたいなら、そう思っていればいいわ」
華蓮は冷たく言い捨てると、まだアイロンのかかっていない自分の衣装を一瞥もせず、背を向けた。
「せいぜい、あの子の衣装を綺麗に仕立ててあげることね、衣装係さん。……カビたドレスを着るより少しはマシになるんじゃない?」
バタン、と激しく扉が閉まり、部室に再び静寂が戻った。
差し込む夕日はいつの間にか失われ、部屋は急速に夜の闇に飲み込まれようとしている。
華蓮はいつも通り嫌味で高飛車だった。それなのに、去り際の彼女の言葉が、まるで何かを警告しているかのように耳に残って離れなかった。
澪は机の上の、真帆のための白いドレスを見つめた。
すべての線が、一本の太い鎖となって、無邪気な真帆の首に巻き付いていくような錯覚を覚え、澪は自分の指先が冷たく凍りついているのに気づいた。
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「――癩病患者をここに招くなど、どういうおつもり!?」
講堂の舞台上に、華蓮の鋭い声が響き渡った。
修道院長らしい峻厳な雰囲気をまとい、顔を気難しげに歪ませた華蓮は、まさに聖マルタ女学院の持つ「選民思想」そのものを体現しているようだった。
「しかもその者は、異教徒ではありませんか! 神の怒りをかいますよ!」
対する真帆は、舞台の真ん中でただ静かに佇んでいた。いつもの稽古着を着た真帆なのに、その佇まいだけで、周囲の空気がひんやりと澄んでいくのが分かる。
真帆の傍らには全身を覆い隠すほどの布を被り、癩病患者に扮した下級生が立っていた。真帆はその者を庇うような仕草で台詞を唱える。
「この方は家族にも見放され、居場所がないのです。迎え入れる家が必要です」
「慈悲は大事だ。だが、ここにも規則がある」
老修道士役の上級生が、真帆の肩を強く掴んで遮る。しかし、「海辺の聖母」の瞳は微塵も揺るがない。
「では、離れで構いません。私が面倒を見ます」
「なぜ、そこまで……」
老修道士の問いに、「海辺の聖母」は何も答えない。ただ、すべてを許し、受け入れるような笑みを浮かべて、黙って微笑んだ。
——おばあちゃんが言っていたのは、こういうことだったんだ。
舞台袖でその姿を見つめながら、澪は昨夜の夕餉での、祖母との会話を思い出していた。
『理事長先生に聞いたんだけど、歴代の「海辺の聖母」に共通点ってないんだってね。マルタ育ちも外部生もいたし、みんな性格も見た目も進路もバラバラだったって』
箸を動かしながらそう尋ねた澪に、祖母は味噌汁の椀を置き、遠い目で小さく頷いた。
『まあ……確かにね。私の代の「海辺の聖母」は、絵に描いたような真面目な学級委員長だったわ。成績優秀で、お行儀もよくて——』
澪はうなづく。祖母は続けた。
『でも志保のとき……あなたのお母さんのときは、確かちょっとスケバンみたいな、やんちゃで手におえない子だったわね。成績も良くなくて、髪の毛染めてピアスもして……先生や上級生と喧嘩ばかりしてるような』
澪は苦笑した。
『えぇ……マルタにそんな人いたのね』
隣で母が気まずそうに目を逸らす中、祖母は静かに言葉を続けた。
『でもね、澪。二人には共通点があったのよ。その子たちはね、どちらも――境界線をやすやすと超えてくるような子だったわ』
『境界線?』
『そうよ。友達の輪とかカーストとか学年とか、そういうのを気にしないの』
境界線を、やすやすと超えてくる。
その言葉が、今、舞台の真ん中でスポットライトを浴びている真帆の姿に、ピタリと重なった。
澪は、いわゆる陰キャだった。
母も祖母も卒業生、幼稚舎からマルタ育ち。それだけの肩書きがありながら、澪は他人と交わろうとせず、いつも自分の周りに高い壁を作っていた。
この学校が嫌いだったのだ。幼稚舎の頃から、親の資産や職業で厳格なカーストが作られ、そこから溢れた者を容赦なく切り捨てる冷酷さ。澪はその歪な箱庭から、ずっと目を背けて生きてきた。
そんな澪の心の壁を、あっさりと踏み越えてきたのが真帆だった。
あれは高校の入学式の日だった。
『ねえ、隣の席だよね! 私、朝倉真帆。よろしくね!』
外部生特有の、マルタの空気に染まっていない、太陽のように屈屈のない笑顔。最初は戸惑い、拒絶しようとした澪の手を、真帆は何度も無邪気に引っ張って、外の世界へ連れ出してくれた。カーストなんて気にも留めず、地味な澪を「一番の親友」だと、みんなの前で堂々と言ってくれた。
真帆は、人と人の間にある境界線を、全く悪気なく、軽々と飛び越えてしまう。
「はい、そこまで。今の掛け合い、すごく良かったわ」
大石先生の声で、舞台の緊張がふっと解ける。
真帆はすぐに「ふぅー!」と息を吐き出し、いつもの人懐っこい笑顔に戻って、舞台袖の澪に向かって小さく手を振った。
それを見て、澪は愛おしさと同時に、底知れない寂しさを覚える。
「お疲れ様、真帆。……これ、お水」
「ありがとう澪! なんか最近ね、舞台に立つと、すごくしっくり来るの。ずっと昔からここにいたみたいに」
真帆はいつもの笑顔でボトルを受け取ったが、澪の背中には、やはり冷たいものが這い上がっていた。




